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「あの日、たまたま真寛が僕のパジャマを着ていたんだよ。僕はそれに気づいて指摘したんだけど、真寛は面倒くさがってそのまま僕のパジャマを着て寝た。小学校高学年になっても、母さんは僕と真寛に同じ服を着せたがってね。服の一枚一枚にすべて名前を書いてまで、同じものを二着ずつ用意してたんだ。おかげで、このとおり。『まひろ』という名前の書かれたパジャマを着て逃げ延びた僕は、救急隊員や搬送先の病院で『暁真寛』として認識された。僕は煙を大量に吸って、声が出せないくらいに喉をやられてしまっていたし、意識もほとんどない状態だったから、僕の声が戻った頃には、おばあちゃんも含めてみんなが僕を真寛だと思ってた。両親や真寛の死亡は確認されていたし、今ごろ違うんだって主張したって誰も信じてくれないんじゃないかって思ったんだ。僕らはもともと、父さんでさえ見分けがつかないときがあったくらいよく似た双子だったから」
「でも」
思わず透子は、別の道があったのではないかと言いたくなってしまった。それほどまでに、千寛の選んだ道は過酷だった。
「仮に真寛くんと間違えられたとしても、性格や行動まで真寛くんを真似て生きなくてもよかったんじゃない? あなたと真寛くん、正反対の性格をしていたんでしょう?」
暁真寛という名前だけを借り、千寛の人格のまま生きることができない環境ではなかった。県を跨いで転校し、新しい学び舎には真寛と千寛がともに生きていた頃を知っている者はいなかったのだ。真寛がどんな性格だったのか、どんな風に周りと接してきたのか、誰一人知らない世界で千寛が真寛を演じて生きる必要はなかったはずなのに、なぜ千寛は真寛になりきり、真寛としての人生を歩もうとしたのか。
「壊したくなかったんだ、暁真寛という男のことを」
真寛の影をその目にとらえたかのように、千寛は遠く窓の向こうを見つめながら語った。
「昔からあいつはみんなのヒーローだった。スポーツ万能、成績優秀、リーダーシップもある人気者。同じ日に、同じ母親から生まれたはずなのに、僕とは真逆で、あいつはずっと、僕の憧れだった」
憧れという言葉が透子の胸を突く。姉のようになりたかった。姉のようなピアニストに。姉のように、いつだって堂々と自分に胸を張れる人になりたかった。千寛の気持ちは、透子にも痛いほどわかる。
「ずっと思ってたんだ、僕も真寛みたいに生きられたらいいのにって。嫉妬してたわけじゃなくて、どうせ僕には無理だってわかってたから、純粋な憧れだけがあってね。そうしたら驚いたよ。火事に遭って、命からがら逃げ延びて、目を覚ましたらみんなが僕を『真寛』って呼ぶんだ。真寛みたいになりたいなって思ってたら、本当に真寛になっちゃった」
笑いごとのように千寛は語る。だが、六年間に及ぶ彼の苦悩の日々はここから始まったのだ。
「迷ったんだ、本当は真寛じゃなくて千寛なんだって告げようか。でも、できなかった。真寛が死んだのは、僕のせいだったから」
「千寛くんのせい?」
力なくうなずき、千寛は「真寛は僕を助けてくれたんだ」と言った。
「一階から火の手が上がって、激しい炎は一気に階段を駆け上がってきた。真寛が先に異変に気づいて僕を起こした。僕はパニックになって、父さんと母さんを助けに行こうとしたんだ。父さんたちのいる階段の下から火が上がってきているのにね」
「それを、真寛くんが止めた」
「あぁ。当然だよね。そのときにはすでに大量の煙を吸っていた僕の手を取って、窓から外へ逃がそうとした。早く、早く、って真寛に何度も言われたのに、僕、足が竦んじゃって」
当時のことを思い出したのか、千寛の声と吐息が震え始める。
「隣の家の木は、手を伸ばせば届きそうなくらいの距離まで枝が伸びてきてたんだ。だけど、そのときはなぜかものすごく遠くに見えて、失敗したら地面に激突するし、一階は燃えてて、真寛の声もだんだん遠くに聞こえて……。そこから先のことは、正直よく覚えてない。はっきり思い出せるのは、真寛が僕の背中を突き飛ばして、『跳べ、千寛!』って叫んだことだけ」
決死の覚悟で千寛を逃がし、真寛は炎の犠牲になった。千寛は今でも、そのときのことを悔やんでいるのだ。
千寛の頬を、一筋の涙が静かに濡らした。
「僕がもっと早くあの木に飛び移れていたら。真寛みたいに、僕も大事なときに勇気の出せる人間だったら。真寛が死んだのは僕のせいだ。僕が意気地なしだったから」
「そうじゃないよ、千寛くん」
「そうだよ!」
千寛の張り上げた声が音楽室じゅうに響き渡る。この火災事故と、真寛の勇気ある行動をきっかけに、千寛の心にある決意が宿った。
「真寛の分まで生きなきゃいけないって思った。真寛は死ぬはずじゃなかったんだ。真寛と間違えられていると知ったとき、チャンスだと思った。真寛の代わりに、僕が真寛として生きればいい。神様がそうするように命じたんだよ。僕と違って、暁真寛はみんなに求められる存在だから」
ここまで苦しげに語られていた千寛の口調が、一転、穏やかなものに変わる。
「最初はやっぱり難しくて、家に帰っては一人で泣いたりしたんだよ。でも、慣れてきたらだんだん楽しくなってきたんだ。こういうとき、真寛ならこうするだろうなって考えながら行動していくんだけど、これがけっこう勉強になるんだよね。そういえば真寛は言霊を信じてる人だったよな、とか、改めて真寛がどんな男だったのかを知ることもできたし、真寛みたいに堂々としていればたいていのことはうまくいくんだ、とかね」
千寛の表情がどんどん明るくなっていく。胸に秘めていた想いを透子相手に吐露できて、それだけで彼の心はいくらか軽くなったのだろう。
「真寛として生きていると、真寛と一緒に生きているみたいな気持ちにもなれるんだ。未熟な僕に、真寛が力を貸してくれる。ひとりぼっちになっちゃったけど、真寛が影で支えてくれてるんだって思えるから、どうにかこれまで生きてこられた。真寛と間違えられていなかったら、僕、こんなに前向きには生きられなかったと思う。だから、これでいいんだ。きみには本当のことを知られちゃったけど、僕はこれからも暁真寛として生きるよ」
千寛の固い決意は、透子が真実を知ってもなお揺らぐことはなかった。千寛ならそう言うだろうと、透子ははじめから思っていた。
だからこそ、この場所を選んだ。透子には、ピアノがある。
椅子を引き、ピアノの前に座る。「蓮見さん」と千寛が言う声にかぶせ、『乙女の祈り』の冒頭部分を精いっぱいの気持ちを込めて力強く奏でた。そのあとに続くメロディーは繊細に、先日千寛が弾いた音色よりも澄んだ音を目指して。
有名なワンフレーズを、千寛とは圧倒的な力量の差をもって弾き終え、透子はピアノから離れた。呆気にとられる千寛とまっすぐに視線を重ね、透子は透子自身の想いを伝えた。
「ピアノはどうするの」
「え?」
「医学部を目指しているのは、お医者さんになることが真寛くんの夢だったからでしょ。あなたの夢は? 千寛くんが思い描いていた未来は、どうするの」
「僕の」
千寛の瞳が揺らぐ瞬間を透子は見逃さなかった。たたみかけるように透子は言う。
「ピアノ、本当は続けたいんじゃないの」




