3-2.
「……まいったな」
これ以上ないほど驚いた顔をしていた彼は、ふっと肩の力を抜き、困ったように笑った。
「おばあちゃんならともかく、家族でもないきみにバレちゃうとは思わなかった」
真寛――いや、この六年間、暁真寛として生き続けてきた弟の千寛は、特に言い訳をすることもなく、自分が真寛に化けていたことを認めた。そうするだろうと透子にはなんとなくわかっていた。そのためにピアノを弾いたのだ。長く続いていた暗闇の中から、彼の魂を解き放ってやるために。
「どこで気づいたの」
真寛を演じていたときとはすっかり違った口調で、暁千寛は右手を腰に当てて透子に尋ねた。
「おかしいでしょ。バレるわけがない。きみは本物の真寛には会ったことがないんだから」
当然の疑問だろう。片割れのことを知らないで、もう一方が本物か偽物かを見極めることはほぼ不可能だ。
確かに透子は本物の真寛に会ったことがない。だが、千寛の演じる真寛と、真寛を演じていた頃の千寛が暁千寛として生きた瞬間には出会っている。
はじめて撮れた心霊写真を見せたとき、千寛は千寛に戻った。ほんの数分のできごとだったけれど、その時間こそ、透子に真実を気づかせるきっかけを作った。
「足音が違ったの」
「足音?」
「うん。真寛くんを演じているときの足音と、千寛くんの本物の足音、音の響きが微妙に違って聞こえたの。二回目に心霊写真が撮れたとき、千寛くんは真寛くんを演じたままだったのに、足音は千寛くんのものだった。おかしいでしょう? あなたが正真正銘の暁真寛くんで、二週間前、わたしの前で本当に千寛くんと魂が入れ替わってしまったなら、あなたの鳴らす足音は常に真寛くんのものじゃなければ辻褄が合わない。だから」
ほんの些細なことだったのだ。どれほど腕のいいピアニストでも、ちょっとした感情の揺らぎや体調の加減に演奏が左右されることはある。
先日彼が立てた足音も、その程度の誤差だった。透子は偶然気づいただけだ。大それたことはなにもしていないし、起きてもいない。彼の感情がわずかに揺らいだ。それだけだ。
「へぇ」
千寛はおもしろいオモチャを見つけた少年のような顔をした。
「耳がいいんだね、きみは。いや、ピアニストなら当然か」
「足音だけで気づいたわけじゃないよ。先週、美弥先輩に協力してもらって、千寛くんたちの故郷へ行ってきたの。昔お隣に住んでいたおばあちゃんからお話が聞けて、真寛くんはピアノに全然興味がなかったって教えてもらったから、あんなに上手な『乙女の祈り』が弾けるあなたが真寛くんであるはずがないってわかったの」
「なるほどね。結局ピアノに足を引っ張られたわけか、僕は」
一人で勝手に納得して、千寛は「仕方がなかったんだ」と続けた。
「きみに真寛の影が写った写真を見せられたとき、本当に嬉しくてね。あまりにも突然のことだったし、なにより、久しぶりに真寛に会えて、僕のすぐそばにいてくれてるんだってことがわかって、気持ちが昂るのを抑えられなかった。僕、昔からうっかりミスが多くてね。あのときもそうだ。うっかりきみの前で『真寛』って口走っちゃった。まずい、やっちゃった。そう思ったときにはもう手遅れさ。どうにかごまかそうとした結果が、あの日のできごとのすべてだよ」
透子の思ったとおりだった。あの日、生徒会室で起きたことは、すべて千寛の一人芝居だったのだ。
「だからとっさに、魂の入れ替わり現象なんてことを演じてみせたんだね。みんなが真寛くんだと思っている人が、写真に写る自分を見て、自分の名前を口走るのはヘンだから」
「ご明察。ああする以外にうまくごまかす方法が思いつかなくてね。なかなかの名演技だったでしょう?」
「うん、すっかり騙された。死んだ人の魂が生きている人に宿るなんて、あるはずないことだってわかってたのに」
「人間って案外簡単に騙されるよね。僕が本当は千寛だって、六年も気づかれずに生きてこられた」
朝の冴えた空気と同じくらい、千寛の浮かべる笑みは清々しかった。透子にだけでも知ってもらえてよかった。肩の荷が下りた。そんなことを考えているのがわかる。
「どうして今まで、真寛くんを演じていたの」
根本的な疑問だった。きっかけは例の火災事故だったのだろうが、なぜ千寛は真寛として生きていくことを選んだのか。
「間違えられたんだ、真寛と。運ばれた病院でね」
千寛からもらった答えは、想像以上にあっさりとしたものだった。