3-1.
不快な早朝の通勤ラッシュも、二度目になればそれなりの心づもりができていた。イヤホンで耳をふさぎ、Jポップの最新ヒット曲を流す。ただ流しているだけで、歌も楽器の音もまったく入ってこなかったが、それでよかった。じっくり聴くつもりははじめからない。
ゴールデンウィークが明けた月曜、午前七時三十分。朝一番の教室で、今日も真寛は黙々と自習に励んでいた。透子が声をかけるよりも先に、真寛が透子の気配に気づいた。
「おはよう」
さわやかに挨拶をされる。顔がこわばり、うまく微笑み返すことはできなかった。
「早いんだね、今日は」
勉強の手を完全に止め、真寛は自分の席へと向かう透子を見つめながら言う。自分に用があることを悟っているような口調だった。実際、彼の想像したとおりだ。
机の上にリュックを下ろしてから、透子は真寛を教室から誘い出した。
「ピアノを練習してきたの」
「え?」
「ドビュッシーの『月の光』、聴いてもらえますか」
美弥とともに真寛の故郷へ取材に出かけた日の夜から、本当にピアノの練習を再開した。両親にはたいそう驚かれたが、父は特に「一年以上弾いてなかったのに、全然衰えていないな」と透子の演奏を褒めてくれた。
真寛は静かに席を立ち、「喜んで」と言って第三音楽室へと移動した。真寛が透子をエスコートするように、一歩先を歩いた。
先週とは打って変わり、音楽室内にこもった空気は太陽の熱にあたためられて生ぬるかった。細く開けた窓から吹き込んでくる優しい風が爽快で心地いい。
椅子の高さを調整してからピアノの前に座り、鍵盤蓋を開ける。心が揺らいでしまわないうちに、透子は鍵盤に指を乗せた。
淡い月明かりが、漆黒の夜空に溶け出すような曲の始まり。静かに、繊細に、しかし音の一つひとつが紡ぎ出す力は失わせず、しっとりとした闇夜の情景を丁寧に描いていく。
真寛はコンサートホールの聴衆を演じるように、グランドピアノの向かい側に整然と並んだ席の一つに腰かけ、透子のピアノを聴いていた。目を閉じ、からだ全体で音色を感じ取るように、呼吸すら止めてしまっているかのように耳を澄ましている。
演奏を終え、透子が息を吐き出した。真寛による拍手が第三音楽室を包む。
「言葉にならないな」
椅子から立ち上がった透子のもとへ、真寛も座っていた席を離れて歩み寄った。
「感無量だよ。こんなにも美しいメロディーを俺のために弾いてくれたんだと思うと、余計に」
宝物を手にして胸がいっぱい、というような顔で真寛は微笑む。あのときと同じだ。姉の演奏をホールで聴いたときと同じ。音楽を心から愛し、音楽を身近に感じられることこそなによりの幸せだと思っている人の顔。
演奏中と変わらない真剣な目をしたまま、透子は真寛に告げた。
「わたし、音大へ行くことに決めました」
窓から吹き込む初夏の風が二人の間をすり抜ける。真寛は目を見開き、「本当?」と無理やり絞り出したような声で言った。
「受けるのか、音大」
「うん」
「どうしたんだよ、急に。ピアノはやめたんだって、あんなに……」
「やめるつもりだったよ。でも、やめちゃいけない理由ができたの」
「理由?」
透子はうなずき、白い鍵盤の上を指でなぞった。
「わたし、本当はピアノが好きなの。好きで、好きで、大好きでたまらない。その気持ちに、これまでずっと嘘をついてきた。思いどおりにならなくて、うまくいかないことばっかりで、どうせできないならやめちゃおうって、思った」
中学三年生のときだ。進路に迷った弱い心が、透子をピアノから遠ざけた。
「でも、ダメだったの。好きって気持ちに、ピアノを弾きたいっていう気持ちを完全に切り捨てることはできなかった。わたしにはピアノが必要だった。その気づかせてくれた人がいたの」
今、透子の目の前にいるその人と、透子はまっすぐ視線を重ねた。
「その人のためにも、わたしはピアノを続けなくちゃいけないんだって思ったの。わたしの気持ちが変われば、その人もきっと、本当の自分に戻ってくれるんじゃないかって思って」
自分から彼とまっすぐに目を合わせるのはこれがはじめてのことだった。心臓が張り裂けそうなくらい緊張して、指先がかすかに震えている。
それでも、伝えなくちゃいけない。この目で真実を、本当の彼の姿を見極めると決めたのだ。
ありったけの勇気を振り絞り、透子は言った。
「わたしと一緒に、もう一度ピアノを始めませんか、千寛くん」
真寛ではない。
今透子の前に立っているのは、真寛の双子の弟、暁千寛。
六年前の火事で唯一生き残ったのは、真寛ではなく、千寛だったのだ。




