プロローグ(2)
「すごいな。驚いたよ」
拍手を続けたまま、その人はゆっくりと透子のいるピアノのほうへと歩いてくる。切れ長なふたえの瞳。小さな顔。風になびけばさらりと揺れる癖のない黒髪は整った頭の形に合わせた自然なシルエットにカットされ、前髪は軽く左側に流されている。
顔見知り程度の関係だけれど、同じクラスの生徒だったことにまた驚いて、透子はガタンと椅子の脚で床を鳴らしながら立ち上がった。
「プロの演奏を聴いているのかと思った」
「暁くん」
クラス一、いや、学校一の人気者と言っていい。透子のかようここ名璋高校で生徒会長を務める暁真寛は、クラシックのコンサート会場でピアニストに割れんばかりの拍手を贈る観客のように、きらきらと輝かせた目をして透子に言った。
「こんなにも重くて苦しい『ラ・カンパネラ』を聴いたのははじめてだよ。でも、心にストレートに響いた。感情の波に殴られたような気分」
真寛は肩をすくめるけれど、なぜか嬉しそうに笑っていた。それより、あの曲を聴いたことはあっても、『ラ・カンパネラ』という曲名がすぐに出てくる高校生はあまり多くないだろう。クラシックに精通していることへの驚きは確かに感じたが、さすが暁真寛、とも思った。まったくと言っていいほど、彼には隙がない。
「大学は音大に?」
緊張のあまりもたついた透子がありがとうと伝えるよりも先に、真寛が話を前に進めた。透子は「まさか」と首を横に振り、視線を下げた。
「ピアノは、もうやめたから」
高校受験を控えた中学三年生の夏。透子はかよっていたピアノ教室をやめた。音大受験を視野に入れた意欲的な生徒ばかりがかよい、先生の実力も、生徒たちの修めた実績も確かな教室で、何人ものピアニストを輩出している名門だった。
そのうちの一人は、透子のよく知る人物でもある。
「そうなんだ」
真寛は透子のすぐ隣まで歩み寄る。とくん、と大きく脈打った心臓の鼓動がみるみるうちに速くなる。
透子が場所を譲るように椅子の前から離れると、真寛の右手がふわりと鍵盤に載せられた。
「もったいないな、これだけ弾けるのに」
右手一本で、真寛は『ラ・カンパネラ』の主旋律をなぞるように弾いた。初心者の指づかいではない。ピアノが好きで、一生懸命練習してきた指だった。
「弾けるんだね、暁くん」
右手だけで奏でられたリストの調べは美しかった。真寛は淡々と「習ってたんだ、小学生の頃」とこたえ、演奏をやめた。
「意外?」
まっすぐに目が合う。透子はすぐに視線をはずし、首を振った。
「わたしのかよってた教室にも、男の子、たくさんいたから」
「そうだよな。別にめずらしくもないか。世界で活躍するピアニストには男性が多いし」
まだ弾く? と真寛に尋ねられる。透子が否定すると、真寛は鍵盤蓋を静かに下ろした。埃っぽいにおいがかすかに鼻の奥を突く。
「知ってたんだ、ここの鍵が壊れてること」
責めるような口調ではなく、なにげない日常会話といったトーンで真寛は言う。怒られているのではないとわかっているのに、透子はとっさに「ごめんなさい」と返した。
「ダメだよね、勝手に入っちゃ」
「いいよ、問題ない。俺もたまに、ここへ来るから」
「ピアノを弾きに?」
訊いてから、野暮な質問をしてしまったと気づく。透子は慌ててピアノから離れた。
「ごめんなさい。わたし、邪魔してるよね」
「まさか。……いや、本当は弾きに来たんだ、ピアノを。でも、きみの演奏を聴いて満足した」
真寛はさわやかな笑みを透子に向けた。本当に満足したのか、透子に花を持たせてくれたのか、どちらの意味の微笑なのか、透子には判断できなかった。
始業五分前の予鈴が鳴る。「戻ろう」と声をかけてくれた真寛とともに、透子は首からカメラを提げて第三音楽室を出た。彼とはクラスメイトなのに、まともに言葉を交わしたのは今日がはじめてだった。
でも、今日はもう一度、彼と接する機会がある。
放課後、透子は真寛の写真を撮ることになっている。クラスメイトの、ではなく、生徒会長の真寛をだ。