2-1.
五時間目、六時間目の授業と、透子はまるで集中できなかった。握ろうとしたシャープペンは床に落とし、板書を何度も写し間違えた。もっとも最悪だったのは、担任教師による数学の授業で、彼に当てられていることにしばらく気がつかなかったことだ。
「おーい、蓮見!」
おそらくは二度目、あるいは三度目の呼びかけだったのだろう。隣の席の女の子が肩をたたいてくれたおかげで透子はようやく顔を上げ、睨む担任教師に「すみません」と謝罪した。教室内に妙な空気が流れる。
「大丈夫か」
チョークの粉でスーツが汚れることを嫌い、数学の教員なのに白衣を着ている中年の担任教師は、教壇に立ったまま透子に心配そうな目を向けた。
「顔色がよくないぞ」
「大丈夫です」
「そうか。じゃあこの問題、どうやって解く?」
黒板に書かれた数式を、担任はチョークの先でトントンとたたいてみせる。幸い、それほど難しい問題ではなかった。
「えっと……まず、素因数分解をして」
「うん、素因数分解ね」
ほんの一言だけ答えると、あとは担任教師が一人でスラスラと問題を解き、解説を加え始めた。いつもなら解法のほとんどすべてを答えさせる人なのに、どうやら気づかってもらえたらしい。優しい先生だ。
「蓮見さん」
放課後になると、帰り支度をしている透子の席に真寛がまっすぐ近づいてきた。真寛は今週、教室の掃除当番だった。
「大丈夫? 調子悪いの?」
素直に心配してくれている目を向けられた。そのおかげでむしろ心拍数が上がり、呼吸が浅くなりかける。
「平気」
顔を伏せるように、透子は帰り支度を再開した。
「ごめんなさい、心配かけて」
「それはかまわないんだけど……」
その先に続く言葉には耳を傾けず、透子はリュックを背負い、真寛の前から立ち去った。目を合わせることはもとより、うまく話すことさえも今はできそうもなかった。
足早に教室内を横切り、前方の扉から廊下へ出る。昇降口へ向かって右に折れた途端、見知った顔とぶつかった。
「あれ、透子ちゃん」
「美弥先輩」
美弥だった。昼休みに会えなかった真寛を再び訪ねて二年四組の教室へとやってきたところらしかった。
「暁くん、いる?」
「はい。今日は掃除当番なので」
二人して廊下の窓から教室の中を覗くと、真寛はちょうど黒板の掃除を始めたところだった。美弥に呼ばれてその手を止め、容赦なく教室内に踏み込んだ美弥から手渡された新聞記事に目をとおすと、「さすがですね、永澤キャップ」と調子よくオーケイの返事をした。美弥は鼻高々といった風に「永澤デスクと呼んでくれてもいいんだけど」と返す。美弥の新聞作りは基本的に彼女一人でやっているのでどちらもあまり正しい敬称とは言えないような気がしたが、誰も指摘しないまま美弥は勢い込んで「じゃ、印刷所いってきまーす」と教室を出ていった。学校新聞生徒会特別号は、来週中にも全校に配布される予定だという。
「美弥先輩」
今にもスキップをし始めそうなほど軽快な足取りで階段を下っていく美弥を、透子は後ろから追いかけて呼び止めた。美弥は別に急いでいる風でもなく「どうしたの」と透子のために足を止めてくれた。
「一つ、教えてほしいことがあるんですけど」
「一つでいいの?」
「ひとまずは」
一を訊けば五が返ってくるような人だ。「伺いましょう」と美弥は階段の踊り場まで下り、透子の話を聞く態勢を整えた。
「過去の事件について調べたいんですけど、スマホじゃうまく検索できなくて。こういうとき、どうしたらいいですか」
「過去の事件?」
ピンとくるものがあったようで、美弥の顔つきが変わった。
「ひょっとして、暁くんの?」
「はい。どんな火事だったのか、知りたいんです」
「なるほどね。本人が自分から話さない限り、こっちからは訊きにくい話題ではあるからなぁ」
「美弥先輩ならどうします? 暁くん、火事に遭った実家とは学区の違うおばあちゃんの家で暮らしてるから、もともとどこの小学校にかよっていたのかもわからなくて」
ふむ、と美弥はどこかの小説に出てくる探偵のように顎の下に手を添え、なにかを思いついたように言った。
「透子ちゃん、あたしが印刷所に行ってる間に、調べておいてほしいことがあるんだけど」
「え?」
頼みごとを頼みごとで返されるとは思わなかった。けれど美弥の指示どおり、透子はこのあと、放課後の学校内を駆けずり回ることになった。




