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スワップ・スナップ  作者: 貴堂水樹
第三章 同じ音色 〈透子〉

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17/33

1-1.

 暦が変わり、あさってにはゴールデンウィークを迎えるためか、月曜の学校とは思えないほど浮かれた空気が校舎のあちこちに流れていた。今年は五月三日から七日まで五連休で、透子にもいくつか予定があったが、他の生徒たちほど浮かれ気分ではいられなかった。

 昼休みに入り、なるべく急いで弁当を食べた。普段から食が細く、一段の小さな弁当箱で十分腹は満たされるのだが、おかげでからだは大きくならなかった。手も小さめで、ピアニストとしては致命的だった。

「透子ちゃん」

 廊下からかけられた声が美弥だと、顔を向けずともわかった。窓側の透子の席まではっきりと届く声に透子は箸を握る右手を挙げてこたえ、食べかけの弁当を机の上に放ったまま廊下へ出た。

「こんにちは」

「ねぇ、暁くんは?」

「え、っと」

 尋ねられるまま、透子は教室内を見渡す。美弥が探していなかったのだから、透子がやっても同じことだ。真寛の姿は教室になかった。

「知らないよねぇ、どこに行ったかなんて」

 美弥は困ったようにつぶやいて、手にしていたクリアファイルを掲げるように透子に見せた。

「生徒会用の号外、これでいいかどうかチェックしてもらおうと思ったんだけど」

「もう書いたんですか」

「うん。土日のうちにちゃちゃっとね」

 さすが敏腕新聞記者。美弥が手渡してくれたので、透子はざっと目を通させてもらう。

 透子の撮った写真は三枚採用されていた。インタビューを受ける真寛のソロショット、生徒会執行部の集合写真、それと、これはインタビューが始まる前に撮ったものだが、生徒会室の黒板に記された今年の文化祭のテーマ『TOYBOX』の題字。のちに公募で作品を集め、全校生徒の投票で正式なロゴとイラストを決定する。

 記事の内容は文化祭についてをメインに、六月の生徒総会で取り上げられるいくつかの議題についても小さく掲載されていた。美弥は湧き出てあふれ続ける好奇心だけで記者をやっているわけではなく、要点を端的にまとめた読みやすい文章を綴る力も日々鍛え、すでに卓越した文章力を習得している。彼女の持つ高い技量が将来社会の役に立つ日が来ることを透子は心から楽しみにしていた。

「バツをつけるところなんてなさそうですね」

 透子が言うと、美弥は「決めるのは生徒会長さまですからね」と返してきた。

「しかし、どこ行っちゃったんだろう。生徒会室かな」

 透子はなにも言わなかった。本当は違うことを知っているけれど、教えられない理由もまた透子にはある。曖昧に首を傾げてごまかすと、美弥は「ちょっと覗いてくる」と言い残し、颯爽と透子の前から立ち去った。相変わらずフットワークの軽い人だ。

 残り三口ほどだった弁当を流し込むように平らげ、カメラを提げた透子は第三音楽室へ向かった。そこに真寛がいることを知っているのはおそらく透子だけだろう。

 音を立てないよう慎重に扉をスライドさせると、一人で室内にいた真寛がグランドピアノの鍵盤蓋を開け、ポーン、と右の人差し指でソの音を鳴らしたところだった。

「ひどい音だ」

 扉を閉めて教室に入った透子を振り返ることなく、今度は三音の和音をアルペジオで弾く。ド、ミ、ソと三つの音を下から順に一つずつ鳴らし、最後には響きが重なって美しい和音に聞こえるはずが、特にミの音のゆがみがひどく、透子のようなピアノの音に耳が慣れている者が聴けばすっかり不協和音だった。

「生徒会費からこっそり調律代を捻出したいくらいだよ」

「似合わないよ、真寛くんには。悪徳生徒会長なんて」

「力を持つと、つい欲に目が眩んでしまうんだ」

「だから似合わないってば」

 二人の笑い声が音楽室に優しく響く。真寛がピアノの前に座ると、透子はカメラの電源を入れた。

「一曲、お願いできますか」

 千寛がフレームに収まってくれるような一枚と考えたとき、真っ先に真寛にピアノを弾いてもらうことを考えた。シチュエーションだけを整えるのではなく、本物のピアノの音色が千寛をこの場に導いてくれるのではないか。そう思ったのだ。

「いいけど、ヘタだよ」

 どうも真寛はピアノのことになると後ろ向きになるようだ。口を衝く言葉や口調からはいつもの自信が感じられない。

「もう何年も弾いてないし」

「でも、ときどきここで練習してるんでしょ?」

「ときどきね。練習というより、好きな曲を好き放題に弾いてるだけ」

 ぶっきらぼうに言うところから、もしかしたら千寛のことを意識しているのではないかと透子は思った。他のことでは勝てても、ピアノだけは千寛のほうが実力は上だったという。どうやら真寛には負けず嫌いな一面があるらしい。ちょっと意外だった。

「どんな曲が好きなの、真寛くんは」

 質問しながら、透子は鍵盤を指でなぞっている真寛の写真を撮った。今日の真寛は最初から撮られるつもりで来ているから、特に文句は出ない。

「ゆったりと流れるような、スローテンポの曲が好きかな」

 黒鍵の一つを静かにならしながら真寛は答えた。

「ショパンの『ノクターン』とか、ドビュッシーの『月の光』とか」

「ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』とか?」

「うん、それも好き」

 もう二、三枚撮って、背面モニターで撮りたての写真を確認する。千寛の影は写っていない。

「得意な曲は?」

「どうだろうな。小学生の頃、『乙女の祈り』はけっこうがんばって練習したっけ」

 ポーランドの女性作曲家、バダジェフスカの曲だ。子ども向けのピアノ教室である程度弾けるようになった生徒に、発表会用の楽曲として講師がすすめることの多い有名な一曲で、透子も小学生の頃にはじめて弾いた。この曲は両手ともに一オクターブ離れた同じ音を同時に鳴らすところからスタートするのだが、小学生の小さな手では思いどおりの音が出せず苦労したことを覚えている。曲調自体はゆったりとしていて、しかしオープニングだけは力強さを求められる曲だ。

「今でも弾ける?」

「覚えてはいるよ。ただ、指がうまく動くかどうか」

 難易度こそ高くないが、二本の指を交互に動かし、隣り合った二つの音を素早く弾くトリルという奏法が多用される曲のため、真寛の懸念どおり、日常的に指使いの練習をこなしていないとなかなか思いどおりの演奏にはならないかもしれない。素早く弾くといっても、やみくもに速く鍵盤をたたけばいいわけではもちろんなく、曲の情感を失わないような美しいトリルを入れていくことが求められる。久しくピアノから遠ざかっていた真寛の表情が冴えないのも無理はないなと透子は思った。

 真寛の両手が鍵盤に覆いかぶさる。大きく距離を取った親指と小指で、最初の音を力強く、音楽室いっぱいに響かせた。

 ゆったりと落ちついた、一般にも馴染みのあるフレーズに入ると、真寛の表情も曲調に合わせて和らぐ。左手は静かに、祈る少女の胸の鼓動を表現し、右手は優しく、歌うように祈りのメロディーを奏でていく。

 シャッターを切るのも忘れ、透子は真寛の紡ぎ出すピアノの音色に聞き惚れた。小学生の頃にちょっとピアノを習っていました、というレベルではない。好きで、好きで、毎日ピアノと向き合ってきた日々を経験していなくては出せない音が、二人きりの空間を少しずつ満たしていく。

 我に返り、透子は真寛とピアノをバランスよくフレームに収め、何度も何度もシャッターを切った。真寛がよりカッコよく写る構図を模索し、光の取り入れ方にも気を配った。

 流れるような美しい旋律の中で、一つひとつの音の粒がはっきりときらめいている。本人の申告どおり、指の動きにはやや鈍さを感じるが、それでも曲のムードを失うほどではない。女性作曲家らしい繊細さも表現しつつ、真寛はおよそ四分間の演奏を最後まで走りきった。

 丸みを帯びた、声にならない感嘆を漏らしたのは透子だった。鍵盤から指を離した真寛に、透子は心からの拍手を贈った。

「すごいよ、真寛くん! うまい!」

「ダメ」

 上がらない真寛の顔に、細い黒髪が影を作る。

「全然ダメ」

 丸まった背中は、ひどく悔しそうだった。透子にも覚えのある感情が透けて見える。思いどおりに、理想どおりに弾けないと、納得できない心のやり場にいつも苦慮した。

 かけられる言葉が見つからず、透子は首から提げていたカメラを手にした。演奏中の写真を背面モニターで一枚一枚確認していく。

 全部で三十枚ほど撮った。意識的にシャッターを多く切った。真剣に演奏する真寛の表情、横顔、後ろ姿、あえてグランドピアノをメインに写した一枚。あらゆる角度から撮影した。千寛の影を呼び込むように、頭の中で彼の存在を強くイメージしながら。

「あっ!」

 曲が終盤に差しかかったあたりで撮影したうちの一枚を見たとき、そう声を出さずにはいられなかった。

 クライマックスを真剣に演奏をする真寛を右側面から写した一枚。開いた天板の向こう側にうっすらと、ピアノに両腕を、その上に顎を預けて真寛のことを見つめている千寛の影が写り込んでいた。

「真寛くん!」

 透子が声を上げると、真寛は勢いよく椅子から立ち上がった。透子は首からストラップをはずし、真寛にカメラごと手渡す。

 目を見開いた真寛は、食い入るようにカメラのモニターを凝視した。真寛の演奏を嬉しそうに、優しげな眼差しで見つめる千寛の影は、今にも真寛に「うまいね」と話しかけそうな雰囲気をまとっているように見える。

「……どうして」

 千寛が現れて喜ぶかと思ったのに、真寛の表情はみるみるうちに暗くなっていった。千寛に会いたいと願い、あきらめかけていた透子を励ましさえしてくれた真寛だったはずが、待ちわびた瞬間を切り取った写真から目を背けるように、彼は静かに顔を下げた。

「どうして、そんな顔をするの」

 かすかなつぶやき。真寛の声か、あるいは。

 手にしていたデジタル一眼を透子の胸に無理やり押しつけ、真寛は音楽室を飛び出した。「真寛くん!」と透子が呼び止めたときにはすでに走り去ったあとで、彼の姿が再び音楽室に戻ってくることはなかった。

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