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スワップ・スナップ  作者: 貴堂水樹
第二章 ピアノときょうだい 〈透子〉
16/33

4-2.

 母が余計なことを言ってくれたおかげで、それっきり真寛との会話はなくなってしまった。なくなったという表現は適切ではない。できなくなった、が正しい。

 一つ一つの座席はゆったりと余裕を持って座れるよう設計されているはずなのに、右隣にいる真寛の体温がブラウスの袖越しにバンバン伝わってくる。真寛はただそこに座って、まだ誰も乗っていない舞台をじっと見つめているだけなのに、透子の心臓だけが先ほどのアナウンスくらい大きな鼓動を打ち鳴らしていた。

 五分前、満席の会場はざわざわと騒がしかった。観客それぞれがそれぞれの期待を胸に、音楽談義や世間話に花を咲かせている。緊張しているのは透子ばかりで、客席の九割以上が楽しみな気持ちで満たされていた。

 不意に右肩をたたかれる。顔を向けると、真寛の右の人差し指が頬に刺さった。

「……!?」

「聞いてた? 今の」

「えっ。その……ごめんなさい」

 全然聞いていなかった。話しかけられていたのか。

 いたずらされた右頬に思わず手をやった透子に、真寛は嫌な顔をすることなくもう一度言ってくれた。

「月曜日、またきみのピアノが聴きたいって言ったんだ」

「え?」

「お姉さんのピアノを聴いたら、またきっと、きみのピアノを聴きたくなる。だから、今から予約しておいていい?」

 刺さった指の感覚が残る右頬が、かぁっと一気に熱を帯びる。期待され、嬉しい気持ちは確かにあるはずなのに、透子は返事をすることができなかった。

 開演のベルが鳴る。まずはオーケストラの団員たちが席に着き、続いて指揮者が登壇。会場じゅうがあたたかい拍手の音に包まれる中、客演ピアニストの姉、蓮見明穂が指揮者の紹介でステージに立った。

 右の胸もとに輝かしいスパンコールの刺繍をあしらった漆黒のオフショルダードレスを身にまとい、姉は誰よりも堂々と胸を張り、客席に向かってお辞儀をした。たったそれだけで彼女は自分のペースと空間を作り出し、いざピアノの前に座って指を鍵盤に載せると、また少し舞台上の空気が変わる。

 指揮者がタクトを振り始めるよりも先に、姉の指先が鍵盤を静かに鳴らした。最初の曲目は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番。重々しくドラマチックなピアノの音色から始まる短調の調べは、最初の和音が響いた瞬間にはすでに、客席のすべてが呼吸を止めてしまうほどの圧倒的な雰囲気を醸し出していた。

 第一楽章から第三楽章まで、三十分強の演奏。透子は本当に息をするのを忘れるくらい集中し、姉の奏でるピアノの音一つひとつにしっかりと耳を傾けた。

 曲が始まった瞬間から、あぁ、またお姉ちゃんはうまくなったなと思った。女性の演奏とは思えないほど重厚な音が出せることが姉の強みの一つだったが、留学以前よりも一段と音に重みが増している。力まかせに弾いているわけではもちろんなく、抜くところはとことん抜き、それでいて音の粒を際立たせて響かせる技術はより巧みになっている。音の重さとは裏腹に、指の動きは一年前と比較してかなり軽やかになったように見えた。腕をしなやかに、やや大ぶりに動かす弾き方は向こうで師事したピアニストから学んだようだ。

 姉の演奏に聴き惚れながら、父の選択は間違っていなかったと確信した。父は来なくて正解だった。また一歩、世界的芸術家に近づいた今の姉の姿を生で見たら、自らの醜い感情に喰い殺されてしまうだろう。

 あっという間の三十分は、割れんばかりの拍手で幕を閉じた。もう一曲演奏することになっているのに、称賛の拍手がいつまでも鳴り止まない。姉の演奏がオーケストラと完全に一つになったことの証明だった。会場じゅうが、まだ音大生の姉の実力を認めた。

 二曲目のモーツァルトも有名なピアノ協奏曲で、力強いホルンの演奏から始まり、ピアノや他の楽器の音が絡まり合うように激しく主張するオープニングはまさに聴衆の心をつかむために描かれたメロディーだ。作曲家や題名は知らなくても、誰もが一度はどこかで耳にしたことがあるはずだと言いきれるくらい広く知られている一曲を、透子はからだ全体で受け止め、感じ、楽しんだ。姉のピアノだけでなく、オーケストラの演奏も見事だった。

 演奏が終わり、盛大な拍手が再び会場を包み込む。改めて指揮者からの紹介を受けた客演ピアニスト・蓮見明穂は、透子にはとても真似できない自信たっぷりの笑みを浮かべ、客席に対して深々と頭を下げた。弱冠二十歳。未来ある若き才能は、二年後に再びドイツの地で羽ばたき始める。

 終演後、真寛はしばらく座席から立ち上がれずにいた。すっかり放心した彼は舞台上のグランドピアノをぼーっと見つめ、「すごかった」と小さく漏らす。

 その姿は透子の知っているキラキラな生徒会長・暁真寛とは少し違って、好きなものを好きなだけからだに浴びたごく普通の男子高校生にしか見えなかった。ようやく透子は真寛の本当の姿を見たような気がした。

 姉を迎えに楽屋へ向かった母とは客席で別れ、透子は真寛とともに会場をあとにした。母から預かった車のキーを使い、おととい借りた真寛の傘を返す。

「ありがとう。すごく助かりました」

「どういたしまして。というか、俺のほうこそ大きな借りができちゃったな。こんなにも最高な時間を過ごさせてもらって」

 透子の折りたたみ傘と交換で自分の雨傘を受け取った真寛は、コンサートの余韻をまだ引きずっているようだった。やはり、姉はすごい。彼女は魔女で、彼女の奏でるピアノには悪魔的な力が宿っている。

「誘ってくれてありがとう。すごく楽しかった」

 真寛は透子の目をまっすぐに見て微笑んだ。夕方の涼しい風が二人の間を優しく吹き抜けていく。

「こちらこそ、今日は来てくれてありがとう。喜んでもらえて嬉しい」

 それじゃ、と透子に手を振って、真寛はJRの駅に向かって歩き始めた。母と一緒に車で帰宅する透子とは違い、真寛は電車で帰路につく。雨降りでもないのに傘を持たせてしまったことを、今ごろになって申し訳ないと感じた。

 ゆっくりと階段を下っていった真寛が不意に足を止め、見送る透子を振り返った。

「覚えてるよな、明日の約束」

「もちろん。第三音楽室で写真を撮ること」

「違う」

 え、と透子は両眉を上げる。真寛は「言っただろ、さっき」とあきれたような苦笑を浮かべた。

「きみのピアノ。明日、ちゃんと聴かせてくれよ」

 忘れていた。そういえば開演前、そんなことを言われていたっけ――。

 約束はしていない。透子はイエスと答えていない。

 今さら期待されたって遅い。だから、こうこたえるしかない。

「わたし、ピアノはもうやめたの」

 彼には一度、そう伝えている。はじめて言葉を交わしたあの日の第三音楽室で。

 階段の中腹から透子を見上げる真寛は、真剣な目をして言った。

「きみの心が、本当はピアノを弾きたいって叫んでいるのが聞こえるよ、俺には」

 見つめ合う二人の空間だけが世界から切り取られ、音が消える。

 閉じた箱の中で、真寛の言葉だけが何度も何度もくり返される。

 やがて真寛は、きれいな微笑みを残して帰路についた。雑踏に紛れ、真寛の姿が見えなくなるまで透子はその場に立ち尽くし、真寛にかけられた最後の言葉だけを耳の奥で感じながら、自分自身に問いかけた。

 本当は、やめたくなかった?

 本当は、続けたい?

 本当の気持ちは、どこを探せば見つかるのだろう。

 ひんやりとした夕刻の風が、黒い髪と、スカートの裾を静かに揺らす。

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