4-1.
昨日いっぱい降り続いた雨は上がり、コンサートに花を添えるかのような晴天に恵まれた日曜だった。雨上がりにただよう大地のにおいも今はすっかり薄らいでいる。
午後一時三十分。休日の真寛も、学校にいるときとまったく変わらないさわやかさで透子と母の前に現れた。白いノーカラーシャツにベージュのベスト、黒いクロップドパンツ。クラシックのコンサートということを意識してか、カジュアルすぎない小ぎれいな格好でキメてきた真寛に、母は「あら、イケメン」とストレートな感想を真寛に聞こえる声の大きさでつぶやいた。
すっかり舞い上がった母が「娘がいつもお世話になってます」だの「生徒会長をなさっているんですって? ご立派ね」だの「やだ、お母さんお邪魔かしら」だのとほとんど一人でしゃべりまくっていたので、透子は顔を真っ赤にして「早く楽屋の挨拶に行ったら」と無理やり母を真寛から遠ざけた。どうせあとから会場で一緒になるのだから結果は同じであるような気もするが、母はそそくさと「それじゃ、ごゆっくり」などと言い残して先に会場へと入っていった。
「ごめんなさい」
コンサートが始まる前からすでに疲れてしまった透子は、母の非礼を真っ先に詫びた。
「お母さん、調子に乗るといつもああなの」
「優しそうなお母さんじゃないか。性格は……きみとは全然似ていないみたいだけど」
「うん、似てないなって自分でも思うよ。お母さんはお姉ちゃんとそっくりで、わたしはどちらかというとお父さんに似てるかな」
そうなんだ、という真寛の返しを聞いてようやく、透子は自身の失敗を悟った。火事で家族を亡くしている真寛の前でする話ではなかった。かといって、謝るのもなんだか違うような気がして、透子は「おとといは傘、ありがとう。車に積んできたから帰りに渡すね」と取り繕うように真寛に言った。真寛は「うん。じゃあ俺も帰りに」と背負っているボディバッグをポンポンとたたいた。透子の折りたたみ傘を持ってきてくれたらしい。
会場入り口につながる階段を上がりきる。このホールにはかつて足を運んだことがあり、入り口のガラス扉には『本日の公演』としてコンサートのポスターが貼られていた。オーケストラの楽団名と演奏風景の写真、演奏される曲目のほか、指揮者のソロショットと並んで『ピアノ:蓮見明穂』と姉の写真が大きく載せられているのを見て、真寛は「納得だよ」とつぶやいた。
「きみの『ラ・カンパネラ』を聞いていなかったら驚いていたかもしれないけど、あれだけのピアノが弾けるきみのお姉さんがプロのピアニストだって聞かされても、そりゃあそうだよなとしか思わない」
「わたしの演奏とは比べものにならないよ、お姉ちゃんのピアノは」
謙遜ではなく、思ったままを透子は真寛に伝えた。
「重くて、激しくて、それでいてガラス細工を扱うみたいに繊細で。一音目から、他のピアニストとの音の違いがわかるの。それくらいすごい演奏家なんだ。我の強い性格だから、ときどき『個性が強すぎる。作曲家の意図をわかっていない』っていう批判をもらったりもするんだけど、わたしはやっぱり憧れちゃうかな。フジ子・ヘミングと同じくらい」
「フジ子・ヘミングが好きなの?」
「大好き。わたしの一番の憧れだもん、フジ子さんのピアノは」
一度だけ、彼女の奏でる音を生で聴いたことがある。圧倒的な美しさの中に、暴力的な一面がときおり顔を覗かせる独創的な演奏に、世界がひっくり返るほどの衝撃を受け、涙があふれて止まらなかった。
こうはなれないとわかっていても、彼女の背中を追いかけずにはいられなかった。ピアノから離れた今でも、彼女への憧れの気持ちだけは廃れていない。
「僕はやっぱり辻井さんかなぁ」
父の分のチケットを見せて会場のロビーに入った真寛は、その横顔に笑みを湛えて言った。
「辻井伸行?」
「うん。聴いたことある? 彼の『水の戯れ』」
辻井伸行とは全盲の日本人ピアニストで、『水の戯れ』はモーリス・ラヴェルというフランスの音楽家が作曲したピアノ曲だ。澄んだ水の流れる様子、雫の落ちた水面に波紋が広がっていく様をピアノの音で描いた名曲で、透子は音源でなら彼の演奏を聴いたことがあった。
「言葉にならないくらい美しいんだよ、彼のピアノは」
透子の隣を歩きながら、真寛は恍惚とした表情を浮かべて語った。
「どうしたらあんな音が出せるんだろうっていうくらい、音の一粒一粒が澄んでいて、キラキラしてる。はっきりと聞こえない音は一つもないし、指の動きもずっと見ていられるくらい芸術的だ。彼の演奏を聴いていると、こう、心が洗われるっていうかさ。現実を忘れさせてもらえるし、救われたような気持ちになれるんだ。きみがフジ子・ヘミングに憧れるように、僕も辻井さんの演奏に憧れてる。ピアノをやめてだいぶ経つけど、あんな風に弾けたらいいなって今でも思うよ」
わかる気がした。辻井伸行が特別だと評される理由は、彼にしか出せない音があるからだ。作曲家の思い描いた、出すべき音をよく理解し、そのとおりに出せる。盲目だから特別なのではなく、卓越した演奏技術ゆえに彼は天才と呼ばれるのだ。
「いつか聴いてみたいな、真寛くんのピアノも」
ホールの中に入ったところで足を止め、透子は言った。「俺?」と真寛は肩をすくめた。
「ヘタだよ、俺は。音が汚いって、昔先生によく怒られた」
「そうかな。この前音楽室で少しだけ弾いたとき、そんな風には思わなかったけど」
「ありがとう。優しいね、きみは」
チケットに印字された座席番号を探して、真寛はゆるやかな段差を下っていく。開演までまだ二十分以上あるが、場内はすでに半分近くが埋まっていた。観客の年齢層は高めで、端のほうの席とはいえ、高校生の透子と真寛が並んで座るとなんとなく浮いた感じになった。
「きみは本当に、音大に行かないの」
右隣、会場中央に近いほうの席に座る真寛が唐突に尋ねてきた。透子ははっきりと首を振った。
「行かないよ」
「じゃあ、大学はどこに?」
透子は二度も首を振ることになった。真寛と違って、進むべき未来はまだ定まっていない。
「真寛くんは、いつから医学部に行くことを決めてたの?」
透子が尋ねると、真寛は少し驚いた顔をした。
「どうして知ってるんだ、俺が医学部を目指してること」
「美弥先輩から聞いたの。あの人、なんでも知ってるから」
恐ろしい先輩だな、と真寛は苦笑を漏らし、透子の質問に答えてくれた。
「小学生の頃にはもう決めてたよ。本当は医学部受験に強い中高一貫校を受験するつもりだったんだけど、あの火事のせいでそれどころじゃなくなったから、今はもう自力でなんとかするしかなくてさ。無利子の奨学金がもらえたり、特待生で入れてもらえる公立の大学だったり、そんなところを目標にしてるから、今からもうすでに苦学生の道まっしぐらって感じ」
真寛は笑うが、一緒になって笑うわけにはいかなかった。祖母に頼ることなく、あくまで自分の力だけで幼い頃からの夢を叶えようと奮闘する真寛の心がけは素直に尊敬できるし、応援せずにはいられない。
「真寛くんなら大丈夫。第一志望の大学、きっと受かるよ」
「だといいんだけど」
めずらしく自信がなさそうに言った真寛に透子が首を傾げたところへ、楽屋に挨拶に行っていた母が透子の隣の席に姿を見せた。
「お姉ちゃん、全然怒ってなかったよ、透子ちゃん」
上機嫌で席に着いた母は、真っ先に透子にそう報告してくれた。父が来ないことで姉の機嫌を損ねるのではないかと心配していた透子だったが、どうやら杞憂だったようだ。
母はなにやらニヤニヤと笑みを浮かべながら、透子と真寛を交互に見ながら続けた。
「代わりに透子の彼氏が来てるって教えたら、急にやる気出しちゃってね。『気合い入れ直すから背中たたいて、おもいっきり』なんて言って。ウフフ」
なにが「ウフフ」だ。透子は「お母さん!」と頬を赤らめた。
「何回も言ってるでしょ、真寛くんとはそういう関係じゃないんだってば! ねぇ、真寛くん?」
真剣なのは透子ばかりで、真寛はハハハと笑い声を立てた。
「まぁ、お姉さんのやる気につながったのなら、今日のところはそういうことにしておけばいいんじゃない」
「そういうことって……!」
「そうよ、透子ちゃん。透子ちゃんの大事なお友達が来てくださったことに変わりはないんだから、少しくらいの脚色はご愛敬よ。ねぇ、真寛くん?」
透子の母が相手では真寛は同意するしかなく、無理やり作ったような笑みを母に向けている。間に挟まれた透子が大きなため息をつくと同時に、開演前の案内アナウンスがホール全体に響き渡った。




