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スワップ・スナップ  作者: 貴堂水樹
第二章 ピアノときょうだい 〈透子〉

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14/33

3-2.

「明穂は……」

 揚げ物の載った大皿をテーブルに置くと、父に話しかけられた。透子が考えごとをしていたのと、父が顔の前で立てて読んでいた新聞のせいで最後のほうがよく聞こえず、透子は「え?」と聞き直した。父は新聞から顔を上げ、もう一度口をはっきりと動かして言った。

「明穂はあさって、なにを弾くのかって訊いたんだ」

「あぁ、えっと……」

「ラフマニノフとチャイコフスキーよ」

 冷蔵庫から出してきた麦茶のポットを片手に母が答えた。「ラフマニノフかぁ」と父は複雑な表情を浮かべて苦笑した。

「人気曲だけに実力が問われるなぁ」

「大丈夫よ、あの子なら。昔コンクールでも弾いた曲なんだし」

 そうだよなぁ、と父は気があるのかないのかわからない返事をし、新聞を片づけた。食卓にすべての料理が並び、三人揃って「いただきます」と唱和してから食べ始める。

 この場に姉の姿がなくても、姉はよく話題に上がる人だ。特に母の興味は姉に強く向いている。ドイツに留学していた頃は毎日のようにみんなで姉の話をした。素晴らしい先生に師事しただとか、今度のコンクールはどうだろうかとか、先生の口利きで演奏会に参加できることになったらしいだとか。海の向こうでも姉の評判はすこぶるよく、ピアニストとしての将来をより確かなものにする留学だった。

 おもしろいのは、姉の活躍を誰よりもひがんでいるのが父だということだった。母には内緒で、父がこっそり透子にだけ打ち明けてくれた話だ。教員免許の取得は最初から視野に入れていたものの、本当は自分もピアニストになりたかった、でもなれなかった。娘に嫉妬するなんてみっともないよな、と父は力なく笑ったが、一番の理解者が透子だと知って話してくれたことが嬉しかったし、実際、父の気持ちは透子にも痛いほど理解できた。

 本番に弱いことがピアニストをあきらめた原因の一つではあるけれど、もしも透子に姉の存在がなかったら、今でもピアノを続けていたかもしれない。夢をあきらめたところでピアノを嫌いになることはできないし、比較される人、すごすぎる人が身近にいなければ、もっとのびのびと弾くことができていたかもしれない。

 たらればを並べたところで生まれついた環境を変えることはできない。やめると決めたのなら潔く別の道へ進むべきなのだ。けれど透子にはまだ、この先どのような進路を選ぶか決められていなかった。秋の学校祭が終われば、同級生たちは大学受験に向けて本格的なスタートを切る。学びたいこと、行きたい大学がまったく定まっていない透子は、勉強こそ嫌いじゃないものの、なにを目標に受験勉強に励めばいいのかわからないまま受験生になろうとしていた。

「真寛くん、と言ったか」

 前触れなく父が真寛の名前を出し、箸を握る透子の手がぴたりと止まった。

「傘を貸してくれた男の子」

「うん」

「優しい子がいるんだなぁ。感心したよ」

 父は少し驚いたような声の響きで言った。自身が高校教師だからか、思春期の子ども同士のあたたかいやりとりに心が和んだようだった。もしかしたら父は普段、殺伐とした空気の中で教鞭を執っているのかもしれない。

「昔、ピアノを習ってたんだって」

 ピーマンのフライに箸を伸ばしながら透子が言う。

「クラシックにも詳しいみたいだよ。『ラ・カンパネラ』っていう曲名がすぐに出てくるくらい」

「へぇ。高校生でクラシック好きとはめずらしいな」

「あんまり練習熱心ではなかったみたいだけど、ちらっと聴いた演奏は上手だったよ」

「そうか。お姉ちゃんがピアニストだってことは話したのか」

「言ってない。お父さんが音楽の先生だってことも」

 言われてみれば、真寛とはゆっくり音楽の話をしたことがない。音楽の話題より、今は例の心霊写真、千寛の存在のことで二人とも精いっぱいだ。はじめて話をした場所こそ第三音楽室だったが、透子と真寛、あるいは千寛を含めた三人をつなぐものはピアノではなく写真だった。

「なぁ、透子」

 なにかを思いついたらしく、父の目がきらりと光った。

「どうだろう、あさってのコンサートのチケット、おれの分を真寛くんに譲るというのは」

「えぇ?」

「ちょっと、なにを言い出すのお父さん!」

 透子よりも、隣に座る母のほうが色めき立った。

「娘が久しぶりに日本の演奏会に出るのよ? それを聴きに行かないなんて」

「わかってるさ。おれは別に、明穂の演奏を聴きたくないわけじゃない。ただ、高校生ではクラシックのコンサートになんてなかなか行けないだろう。せっかくファンの子がいるんだったら、ぜひ生の音を楽しんでもらいたいなと思ってさ。透子に傘を貸してくれたお礼ってことで、な?」

「それは……お礼はきちんとするべきだと思うけど」

 母は納得できない顔で言う。「それに」と父は意味ありげに口角を上げ、もっともらしい理由を続けた。

「ラフマニノフなら腐るほど聴いてきたし、なにより、ピアニスト・蓮見明穂のファンを増やすことも父親の役目ってもんだろ」

 母の顔色が少し変わった。姉がプロのピアニストであることは母のなによりの誇りだった。

「訊いてみようか、真寛くんに」

 母が口を開く前に透子が言った。

「日曜日だし、なにか予定があるかもしれないでしょ」

「そうだな。なにもなければ、ぜひ誘ってあげてくれ」

「ちょっと二人とも! 勝手に話を進めないでよ」

「いいじゃないか、母さん。母さんだって気になるだろう、透子に傘を貸してくれた男の子がどんな子か」

 母の表情がまた変わる。「そうね」と言った口調はどこか明るい響きだった。

 食事を終えると、透子はリビングのソファを陣取り真寛にメッセージを送った。連絡先を交換したのは今日のことで、もちろん彼に連絡をするのははじめてだった。緊張で指先が震えるのを感じながら、透子はメッセージを打ち込んだ。

 傘のお礼、日曜の予定はどうか、姉がピアニストであることなど、伝えるべき内容が盛りだくさんでとてつもなく長いメッセージになってしまった。初回からこれではさすがに引かれるのではないかと心配したが、送らないわけにはいかない。腹をくくって、透子は送信ボタンを押した。

 返事は五分と待たされずに来た。〈予定はないけど、傘のお礼にしては高額すぎるよ〉とすっかり気後れしてしまっているようで、透子は二階の自室に引き上げ、真寛への説得を試みた。

 高鳴る心音に耳をふさいで、真寛に電話をかける。コール音は長く続かず、すぐに『やっほー』と明るく言う真寛の声が聞こえてきた。

『こんばんは』

「こ、こんばんは。ごめんなさい、突然。今、忙しい?」

『大丈夫。ねぇ、どういうこと? コンサートのチケットなんて、俺、そう簡単にもらえないよ』

 善意のつもりが、真寛をかなり困らせてしまっているようだった。当然だ。高校生にもなれば金銭感覚はしっかりしている。おこづかいで払おうにも、多くのことをあきらめなければ捻出できない額のチケットを、友達になったばかりの透子の親から譲られようとすれば警戒心も湧くだろう。

 だが、透子の父に悪意はない。むしろ、真寛がチケットをもらってくれることで父は救われるのだと透子はうすうす勘づいていた。

「違うの、真寛くん。お父さんも、真寛くんがもらってくれなくちゃ困るっていうか」

『どういうこと?』

「お父さん、自分も昔はピアニストを目指してて、お姉ちゃんがピアニストになったことがうらやましいの。だからたぶん、お姉ちゃんが活躍する姿をあまり見たくないんだと思う」

 留学から戻った姉にとって、今回の客演はドイツで鍛えた腕前を日本で披露する最初の機会だ。どのくらい成長して帰ってきたのか、父はおそらく、知るのが怖くなってしまったのだろう。嫉妬の虫が腹の底で首をもたげてしまった父は、その悪い虫とうまく付き合っていくために真寛を利用したいのだ。ていよく姉から距離を取る絶好のチャンスを、透子は知らないうちに父に与えていた。

『なるほどね』

 事情を察した真寛は『わかった』と父に救いの手を差し伸べる決意を固めてくれた。

『そういうことなら、お言葉に甘えさせてもらおうかな』

「ありがとう! お父さんも喜ぶよ」

『俺にはもったいないチャンスだけど、実はめちゃくちゃ嬉しいお誘いだったんだ』

「本当?」

『うん。プロの演奏を生で聴けるなんて、今から楽しみで仕方がないよ』

 声を弾ませる真寛に、透子は心から安堵して「よかった」と言った。ピアノ好きだった千寛と違い、真寛は勉強やスポーツに力を入れていたと聞いていたから、もしかしたら断られるかもしれないと思っていたのだ。

「お姉ちゃんの演奏、聴けば絶対ファンになること間違いなしだよ」

『へぇ。楽しみだな。なにを弾くの?』

「ラフマニノフのピアノ協奏曲と……」

 少しだけ音楽の話をし、当日、会場となるコンサートホールの前で待ち合わせる約束を交わして、二人はそれぞれ「おやすみ」と言って電話を切った。透子の頬はすっかり火照り、胸は相変わらずドキドキと激しく鳴っている。

 次は月曜日だと思っていたのに、まさか休日にまで真寛と顔を合わせることになるなんて。透子が休日に会う友人といえばもっぱら美弥で、同級生の友人が少ないことを母が心配するのももっともだと自分でも思っていた。

 一階に降りると、父は風呂に入っていた。扉越しに「真寛くん、お父さんの代わりに行ってくれるって」と父に報告すると、やはり父は「おぉ、そりゃあ助かる!」と母が聞いていないのをいいことに本音丸出しの回答を透子によこした。お姉ちゃんは怒るかもしれないなと内心思ったけれど、どちらかというと透子はいつも父に味方したくなってしまう。父ほどひどくはないが、透子も父と似た感情をかかえる者の一人だ。

 再び自分の部屋に戻り、ベッドにうつ伏せで倒れ込む。あさってのことで頭の中が埋め尽くされる。

 真寛はどんな服を着てくるだろう。私服の彼に会うのははじめてだ。

 わたしはなにを着ていこう。先日母に買ってもらった紺色のワンピース? それとも、お気に入りの白いブラウスにロングスカート?

 パジャマを脱ぎ捨て、透子はあれこれ試着しながらあさってのコーディネイトを考え始めた。

 今ごろになって、さっきの母の気持ちがわかったような気がした。

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