3-1.
駅の北側が広く住宅地になっている透子の住む街は、夜を待つまでもなく真っ暗だった。まだ十八時にもならないのに、雨雲が厚く夕空を覆い、車のヘッドライトや街灯の光を頼らなければ心許ないくらい視界が悪い。
駅から徒歩五分という好立地に両親が家を建てたとき、透子は母親のおなかの中にいた。その頃にはもうすでに、四つ年上の姉はピアノの申し子と呼ばれるくらいの才能を発揮していたと聞いている。
学校から最寄り駅までの間に濡らしてしまったローファーと靴下は、玄関をくぐったときにはぐしょぐしょでずっしりと重くなっていた。玄関先で靴下を絞っていると、二階の寝室にいたらしい母が「やだ、透子ちゃん!」と目を見開いて飛んできた。
「ちょっと、ベタベタじゃない! 電話してくれたら学校まで迎えに行ったのに」
「大丈夫。ほら、友達が貸してくれたの、大きな傘」
「えぇ?」
扉の脇に置かれているスチールの傘立てに、濡れそぼった真寛の傘が刺さっている。母に教えると、母は「そうなの」とどうしてか嬉しそうな顔で言った。
「知らなかった。透子にもいるのね、そういう男の子が」
「そういうって、なに」
「なによ、もっとストレートに言ってほしい?」
「もう、やめてってば」
なにを勘違いしているのか、母は一人でキャッキャと楽しそうに笑い、「お風呂、すぐ沸かすから待っててね」と言って浴室のほうへと歩き出した。今ごろになって気づいたが、母はなぜかよそ行きのワンピースを身にまとっていた。
「お母さん、そのワンピース」
人目がないのをいいことに、母はワンピースの裾を片手で雑にたくし上げ、浴槽に洗剤を拭きかけていた。絞った靴下を洗濯機の中へ放り込んでいる透子を振り返った母は「あぁ、これ?」と握っていた裾から手を離し、透子に見せるようにしゃんと背筋を伸ばして立った。
「あさってのコンサート用に新しく買ったの。どう、似合う?」
ラベンダー色のシンプルなワンピースだった。色もデザインも年相応でよく似合っている。
「うん、似合ってる」
でしょう、と自慢げに口角を上げた母だったが、「でもね」とすぐに表情を暗くした。
「やっぱり、前に着ていった赤いドレスのほうがいいような気がしてきたのよ。ほら、今回ははじめてお世話になる楽団さんじゃない。挨拶回りのとき、このワンピースじゃ恥ずかしくないかしら」
風呂場の鏡で自分の姿を映しながら真剣に悩んでいる母の姿がおかしくて、透子は半笑いで「どっちでもいいと思うよ。主役はお母さんじゃないんだから」と言った。
日曜日、日本国内で活動するプロオーケストラの公演に、姉の明穂が客演ピアニストとして出演することになっていた。まだ音大の三年生である姉だが、高校生だった十六歳のときにはすでにピアニストデビューを果たしている。去年は約一年間ドイツの音楽学校へ留学していて、二月に帰国したばかりだ。向こうでもいくつかのコンサートで演奏を披露し、高い評価を得た。姉の希望で、大学卒業後は当面ドイツでピアニストとして活動することが決まっている。
そんなわけで、日本で姉の演奏を聴ける貴重な機会となる今回の公演には、父、母、そして透子の三人で足を運ぶことになっていた。今や姉は音楽事務所と契約して活動をマネジメントしてもらっているけれど、子どもの頃はその役をすべて母が担ってきた。その頃の感覚が抜けきらない母は、今回も開演前に楽団長をはじめオーケストラの関係者に挨拶して回るつもりらしい。姉がどんな顔をするか、どんな言葉を母にかけるか、聞かなくてもわかる。「お母さん、いつまでわたしを小学生だと思ってるの」。
「そうよね」
透子の助言でようやく納得できたらしく、母はすっかり上機嫌で鏡に映る自分に笑いかけた。
「やっぱりこっちのワンピースで行こうっと」
「お風呂、わたしが洗うよ。汚れちゃうから、着替えてきたら」
「そう? 悪いわね、透子ちゃん」
ありがと、と言い残し、母は足取り軽く二階へ上がっていった。裸足に濡れた制服のまま、透子はスポンジで軽く浴槽をこすって汚れを落とした。
透子が生まれる前から、蓮見家は音楽であふれる家庭だった。父は音大卒の高校教師、母も元高校教師で、学生時代は合唱部で音楽に親しんできた過去がある。勤め先の高校で出会って結婚し、はじめて同棲した家にはすでにピアノが置かれていたという。姉が生まれ、自分の足で立って歩けるようになった頃にはピアノの前に座っていたそうだ。両親がそうさせたのではなく、姉は自分からピアノに興味を持ったらしい。
今住んでいるこの一軒家は、姉のために建てたようなものだった。一階の一室を防音仕様にし、グランドピアノを置いた。幼稚園に行っているとき以外、姉はずっとピアノの練習をしていたそうだ。
姉がピアノを選んだのではない。ピアノが姉を選んだのだと透子は本気で思っている。象徴するエピソードとして、姉は演奏会で必ず黒いドレスを着る。「わたしはピアニストじゃない。わたしがピアノなの」。凡人には理解しがたい思考回路は、姉を本物の、日本が世界に誇るべきピアニストの一人に仕立て上げた。
いつからあきらめていたのか、今ではもうよく思い出せない。あるいは最初から無理なのだとなんとなくわかっていたのかもしれない。
ただ、姉のようになりたいと思っていた時期があったことだけは確かだ。お姉ちゃんみたいなピアノが弾けるようになりたい。大きすぎる姉の背中を懸命に追った透子の幼少期も、ピアノとばかり向き合っていた日々だった。そのせいだろう、当時から友達は少なかった。
風呂から上がってリビングに入ると、一番に揚げ物のにおいが鼻を突いた。揚げ物は父の好物だ。とんかつからコロッケまで、蓮見家では揚げ物が食卓に並ぶ頻度が高く、おかげで父の中年太りは年を追うごとに着実に進行していた。
「透子!」
知らないうちに帰宅していた父が、ダイニングテーブルを鳴らす勢いで透子を呼んだ。
「おかえり、お父さん」
「よかったなぁ、透子。彼氏ができたんだって?」
「は?」
満足げに微笑む父と、味噌汁を作りながらニヤリと意味ありげに笑う母。「もう、お母さん!」と透子は柄にもなく声を張った。
「違うの、お父さん。真寛くんとはそういう関係じゃなくて」
「ほう、真寛くんというのか」
「あ、いや、だから……」
まごつく透子に、父は快活な笑い声を立てた。
「まぁ、なんにせよいいことだ。透子から友達の話を聞けることはあまりないからな」
「そうよ、透子ちゃん」
悪びれもせず、母は父の発言に乗っかった。
「お母さんも安心したの。新聞部の先輩とばかり仲よくしてるのかと思ったけど、ちゃんと他にもお友達がいたんだから。それも、男の子の」
「その言い方はやめて、お母さん」
母はどうしても色恋の方向に持っていきたいようだが、実際、真寛とはそういう関係ではない。傘を貸してもらったのもたまたまだ。透子はただ、真寛の願いを叶える手伝いをしているだけ。
母を手伝い、炊飯器から炊きたてのごはんを椀によそう。頭の中は真寛ではなく、千寛のことでいっぱいだった。
千寛は今でも真寛とともにいるだろうか。月曜の第三音楽室で、ファインダー越しに彼の姿をとらえることはできるだろうか。
真寛の落ち込んだ横顔が脳裏をよぎる。なんとか彼を喜ばせてあげたい。一度目がただの偶然ではなく、真寛のそばにはいつだって千寛の存在があるのだということを示してあげたい。
改めて、真寛はすごいなと思う。想像を絶するつらい経験をした彼こそ他人に優しくしてもらうべきなのに、自己犠牲を厭わず、透子に優しくしてくれる。
どれだけのものを返したら、彼の優しさへのお礼になるだろう。むしろ迷惑がられるだろうか。彼の優しさは見返りを求めて傾けられるものではない。
とはいえ、なにかそれなりのものを返さなければ透子の気が収まらないのも確かだった。傘と一緒にささやかな贈り物ができればベストだが、こういうシチュエーションに対する経験値が圧倒的に低い透子だ。気の利いたお礼の品がぱっと思い浮かばない。




