2-2.
「撮影スポット、変えてみる?」
透子は首から提げていたカメラに両手を添え、真寛に提案した。
「同じ場所で撮ろうとしたの、逆効果だったのかも」
「そうかもな。よし、じゃあ次は場所と時間帯を変えてチャレンジしてみようか」
うん、とうなずいて返してから、「そういえば」と透子はあることを思い出した。
「真寛くん、ピアノを習ってたんだよね?」
「あぁ。四歳の時から始めて、六年半くらいやってたかな」
「それって、千寛くんも一緒?」
「そうだよ」
なにか思い当たる節があるようで、真寛は懐かしそうに目を細めた。
「ピアノだけは、あいつのほうがうまかったんだよな」
「千寛くんのほうが?」
「そう。ほら、兄弟ってなにかと比べられるだろ。まして俺たちは一卵性の双子だから、親だけじゃなくて、学校の先生や友達からも比べられたんだ。自慢してるって思われたら困るんだけど、勉強もスポーツも、どちらかというと俺のほうが成績よくてさ。でも、ピアノだけは違った。俺はあまり熱心に練習しなかったけど、あいつはピアノが好きだった。あいつが唯一自信を持って兄に勝てると言えたのがピアノだったんだ。学校の友達に腕前を披露する機会はなかったし、あいつもみんなに見せびらかすつもりはなかったみたいだけどね」
そうなんだ、と透子は微笑ましい気持ちで真寛の話を聞いていた。性格が違ったり、得意なことが違ったりと、双子とはいえ二人それぞれにちゃんと個性があることがおもしろい。双子だからと単純に一括りにされてしまうこともあるだろうが、いかに愚かなことかということがよくわかる。双子に限らず、一人ひとりに個性があるから人間なのだ。
と、そんな話はいい。透子は一つ真寛に提案した。
「来週は、第三音楽室で撮影してみない?」
「第三音楽室?」
「うん。千寛くんはピアノが好きなんでしょう? もし千寛くんが常に真寛くんのそばにいるなら、ピアノのあるところに連れていってあげれば喜んで出てくるんじゃないかと思ったんだけど、どうかな」
なるほど、と真寛は大きくうなずいた。
「いいかもしれないな。放課後は吹奏楽部が使うから、チャンスは昼休みか」
「そうだね。生徒会長の真寛くんがいれば、先生に見つかっても怒られずに済むかも」
「どうかな。俺の存在なんかより、きみのピアノを一曲聴かせてあげたほうが先生を説き伏せるにはよさそうだけど」
「そんな、わたしのピアノなんて、なんの効果も……」
視線が下がる。ため息が出そうになる。
今のセリフを、笑い飛ばすように言えたらよかった。わたしのピアノなんて全然ダメだよ。わたしのピアノなんて。わたしなんて。
ピアニストとしてのわたしなんて必要ない。
お姉ちゃんがいれば、世界は美しい旋律を失わないのだから。
諦念の笑みを浮かべて顔を上げると、窓の外で音がした。予報どおり、雨粒が窓をたたき始めたようだ。
「降ってきたな」
真寛が窓に目を向ける。今はまだどうにか凌げそうな降り方だが、夜中にかけて大雨になると天気予報は伝えていた。
「傘、持ってる?」
真寛は帰り支度を始めながら透子に尋ねた。
「今のうちに帰ろう、ひどくなる前に」
「真寛くんも電車通学?」
「そうだよ。きみも?」
そうだと答え、二人一緒に生徒会室を出る。廊下を行き、昇降口に差しかかると雨の日特有のペトリコールが鼻を突き、靴を履き替える間にも雨脚はどんどん強まっていった。
「こっち、使って」
透子が折りたたみ傘を開こうとしていると、真寛が大きな濃紺の傘を差し出してきた。
「でも」
「いいよ。駅までだけでも、交換」
真寛は透子の手からレモンイエローの折りたたみ傘を奪い、自分の傘を透子に無理やり握らせた。戸惑う透子を置き去りにして、真寛は透子の折りたたみ傘を差して校舎を離れた。
明らかにサイズが合っていなくて、リュックが雨ざらしになっている。そんなことなど気にも留めず、真寛は昇降口の屋根の下にいる透子を振り返り、「行こう」と言った。
その声は一瞬にして雨音にかき消され、口の動きを見ていなければなんと言ったのかわからなかった。透子は真寛の濃紺の傘を差し、彼の後ろに続いた。
最寄り駅は同じでも、二人がそれぞれ乗る電車は違うホームに乗り入れる。改札をくぐったところで真寛は「じゃあ、また来週」と言って微笑んだ。リュックやズボンの裾だけでなく、肩まで濡れてしまっている。
透子はスカートのポケットからタオルハンカチを取り出し、真寛のブレザーの肩や腕で光る雨粒を払うように拭った。自分の制服に少し飛んでしまったが、まったく気にならなかった。
「ありがとう」
まっすぐ透子を見つめてお礼を言ってくれた真寛と目が合い、透子の胸に大きな罪悪感が宿った。
「ごめんなさい。わたしのせいで、制服……」
「いいんだ。ちょうど明日は休みだしね」
真寛の乗る電車のホームから「まもなく電車がまいります」というアナウンスが聞こえてきた。「それじゃ」と真寛は今度こそ透子に手を振り、他の利用客が作り出す流れに乗ってホームへと続く階段を駆け下りていった。
真寛の背中が見えなくなるまで、透子は濡れたハンカチを握りしめたままその場に立ち尽くしていた。ホームに電車が入線してきたらしく、階段の下からぬるく湿った空気が吹き上げてくる。
ハンカチ越しに真寛の肩をなぞった感覚が手の中に残っている。よく考えもしないであんなことをしてしまったけれど、迷惑じゃなかっただろうか。それも、こんなにも多くの人の見ている前で。
頬が熱くなるのを感じ、慌ててハンカチをポケットに押し込む。そのときになってようやく透子は、手首にかかったままになっている真寛の傘の存在を思い出した。
「どうしよう……!」
真寛の下りていったホームに急いで向かう。降車した乗客が改札へ向かう波に逆らい、転がるように階段を下る。
たどり着いたホームには、すでに電車の影はなかった。閑散としているホームに透子の弾んだ吐息が溶ける。
手もとの傘に目を落とす。なにも言わなかった、黙って透子の折りたたみ傘を持ったまま別れた真寛の顔を思い出す。
わざと交換しなかったのかもしれない。降りる駅から家に帰るまでの間も透子がこの大きな傘を使えるように。
「暁くん」
そういう人なのだと改めて思う。見返りを求めず、誰かのために尽くせる人。
下ってきた階段をゆっくりと上り、反対側のホームへ向かう。透子のものより一回り大きな傘の重みで腕の筋肉に走る刺激が、今はなぜか心地いいと思えた。




