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スワップ・スナップ  作者: 貴堂水樹
第一章 撮れるはずのない写真 〈透子〉
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プロローグ(1)

 ファインダーを覗き、ピントを被写体に合わせる。十時頃までバタバタと激しく地面を打ち鳴らしていた雨が上がり、まぶしいくらいの太陽の光が中庭の木々を濡らす雨露をプリズムのようにきらめかせている。

 淡紅色の花はすっかり落ちきり、芽吹いた新緑が中庭にさわやかな陰影を作り出している桜の木。よく陽の当たっている一枚の葉を中心よりやや右手に、校舎と青空が左手に見切れる構図でカメラをかまえる。レンズを囲う筒の外側についている絞りを捻り、背景のぼかし具合であるF値を丁寧に調節した。

 シャッターを切る。葉の上で静かにたたずむ雨粒は、風に揺られ、太陽光を乱反射させながら葉先を伝い落ちていく。

 遠近の具合をほどよく変えつつ、もう三枚ほど、少しずつ初夏に近づき始めた風景をカメラに収める。桜はいい。四季の移ろいを残すのにうってつけの題材だと父も言っていた。

 父からお下がりとして譲り受けたニコンのデジタル一眼レフを、透子とうこは慣れた手つきで操作する。背面モニターで今撮った写真を確認した。うん、よく撮れてる。納得して、カメラの電源をオフにする。

 音大を卒業し、音楽科の教員になった父が写真を始めたのは、愛娘を授かったことがきっかけだったと聞いている。主な被写体は家族、人だ。透子が風景をメインに撮るのは、家族の思い出を残そうとする父とは違う写真が撮りたいと思う気持ちの表れだった。

 写真部の活動として、昼休みを使って撮影しているわけではない。カメラの調子を確かめるために動かしてみただけだ。本番は放課後。新聞部の取材に同行し、とある人がインタビューを受ける様子を撮影する約束になっている。

 考えただけで全身に緊張が走り、手のひらにじわりと汗がにじんだ。同じクラスで日々勉学に励んでいるはずなのに、普段はなんとなくその存在を意識しないように過ごしている。

 透子にとって、彼は少しまぶしすぎた。人前に立ち、輝くために生まれてきたような人。

 彼を見ていると嫌でも思い出してしまう。彼と同じように、大勢の観客から割れんばかりの拍手と賛辞を送られるために生まれてきた姉のことを。透子が物心ついた頃にはすでに天才だともてはやされていた、音楽の神様の寵愛を受ける人。

 まっすぐ教室に戻る気にはなれなかった。こういう時、向かう場所はいつも決まって、三号館の四階だった。

  南から、一号棟、二号棟、三号棟と並ぶ校舎の中で、最北の三号棟は閑散とした建物だった。一階には一年生のホームルームがあるため人の出入りがあるが、二階から四階までは特別教室しかなく、昼休みになっても人影はほとんどない。特に四階の西の角、第三音楽室は今や授業ですら使われず、吹奏楽部が放課後のパート練習で利用する以外には備品倉庫としてしか機能していなかった。

 それでも音楽室という名がつくだけあり、室内は防音壁に囲まれ、黒板の前にはグランドピアノが置かれている。『無断入室厳禁』という貼り紙が入り口の扉にされているのは鍵が壊れているからで、いつまで経っても直そうとしないのは学校側の怠慢だと聞いた。扉がいつでも開くことを知っているのは教職員と吹奏楽部員くらいで、たいした害はないだろうと放置しているらしい。写真部員の透子がこの事実を知っているのは、学校の裏事情に精通している者と親しいおかげだ。その人の片腕として、放課後、透子はカメラマンを務めることになっている。

 なるべく音を立てないように扉をスライドさせ、作ったわずかな隙間にからだをすべり込ませるように入室する。首から提げていたカメラをあいている席の一つに置き、ピアノに一番近い窓を細く開けると、さわやかな春の風が白いカーテンの裾を揺らした。

 鍵盤蓋を開け、右の人差し指で鍵盤を一つポーンとたたく。低い。また少し低くなっている。鳴り響いたソの音に、透子はわずかに顔をしかめた。

 扉の鍵を直す人がいなければ、ピアノを調律してくれる人はなおのこといない。放置されたピアノはすっかりやさぐれ、正しい音を見失っていた。それでもどうにか音を響かせ、鍵盤をたたけば音が出るピアノという楽器の体裁だけは守り続けてくれている。透子にはそれで十分だった。

 椅子に座り、鍵盤に両手をそっと載せる。奏でたい音を頭の中に強くイメージして、右手からゆっくりと鍵盤をたたき始めた。

 静かに、悲しげに始まる曲。抑圧された苦しみを音の粒の一つ一つに乗せ、丁寧に、正確に奏でていくことが求められるこの曲を、透子は意図して歌うように、波が連なってうねるように弾いた。

 ハンガリーの作曲家、フランツ・リストの名曲『ラ・カンパネラ』。憧れのピアニスト、フジ・ヘミングの感情的で物語が見える演奏に魅了され、透子も技術だけを追うのではなく、あえて重めに、速く軽やかには弾かない演奏に変えた。リストは超絶技巧で美しく奏でる曲をいくつも書いた天才で、演奏家も彼の意をくみ、正確なタッチと透き通るような音の響きを保った上でテンポを上げるなど、巧みな演奏技術で魅せるアレンジをする者が多い。そうした演奏の素晴らしさも、それこそが聴衆の求めるところだということももちろん理解しているけれど、芸術とは受け手の好みによって評価が大きく変わるものだ。透子にとっては、あえてゆっくり、ドラマチックに弾くフジ子・ヘミングの演奏が、どのピアニストの『ラ・カンパネラ』よりも好きだった。

 フジ子・ヘミングの『ラ・カンパネラ』は、中盤までずっと苦しみの中をもがき続けたのち、クライマックスで一気に感情を解放し、叫ぶような演奏に変わる。小さな波の集まりが、最後には大波となって聴く者を襲い、まるごと一息に飲み込んでしまう。心の奥深くに突き刺さる彼女の叫びは他の追随を許さない。序盤の静けさが嘘のように、圧倒的な激しさとストーリー性を維持したまま駆け抜けるように終わっていく。拍手をすることを忘れるくらい、心を持っていかれる演奏。

 あんな風に弾けたらいい。そんな夢を見ながら、透子はいつもこのやさぐれた鍵盤と対話した。絡まりそうになりながら指を動かし、譜面どおり音を鳴らすことを心がけ、その上で自らの感情を音に乗せ、歌うように弾く。この想いにピアノがこたえてくれることを祈りながら。

 少し前までは、今よりもずっとなめらかに指が動いた。終盤に入るトリルの音の粒ももっときらびやかだった。このピアノそのものに問題があることは別にして、音が濁り、強弱のつけ方が甘くなってしまっているのはひとえに、透子の技術が衰えた証だった。

 最後の和音をやや乱暴にたたき、ふわりと腕を高く浮かせて鍵盤から指を離す。約五分間の演奏を終え、軽く息が上がっていた。

 教室内に吹き込む風が頬を撫でる。演奏中は少しも感じなかったのに、涼しくて気持ちがいい。

 細く息を吐き出すと、背後から誰かが拍手をする音が聞こえてきた。誰もいないはずのこの部屋から、なぜ。

 飛び上がりそうなくらいびっくりして、全身の毛穴が一瞬にして開くのを感じながら、透子は背後を振り返った。閉めた扉の前に立っていたのは、まったく知らない人ではなかった。

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