第31話 加瀬宮黒音
加瀬宮黒音。
kuonという名前で活動しているシンガーソングライター。
その人気は社会現象と称されるほどで、今のテレビやネットで見ない日はない。歌だけではなく、ドラマや映画にまで活躍の幅を広げており、どの分野においても絶賛されるほどの多彩な才能を発揮している。確か去年は年末の歌番組にも出場してたっけ。
現在は大学に通いながら芸能活動をしていて、その大学は来年の志望者数が倍になったとか。まあ、つまり、大雑把に言えば超がつくほどの有名人。
居間で流れているテレビ画面に映っている顔と、インターホンのモニターに映っている顔を見比べてみる。
加瀬宮そっくりの整った綺麗な顔つき。加瀬宮そっくりの金色の長い髪。加瀬宮と違うところといえば……金色の髪に混じってブルーのメッシュが入っていること。そして、右目が金色、左目が蒼色のオッドアイになっている点だろうか。
まさしく今、テレビで流れている顔と同じ。これが変装だとしたら怪盗でもやれそうなものだが、この人は言った。加瀬宮小白は妹だと。
「お、お姉ちゃん……?」
加瀬宮が混乱しているところを見ると、どうやら姉の訪問は予想外のものであるらしい。
「えっ? 小白ちゃんのお姉さん? それって?」
「kuonさんだよね? 家の前にいるの? えっ?」
母さんと父さんはテレビとモニターを何度も交互に見ては、そわそわとしはじめた。
まあ、そりゃそうか。こんだけの超有名人が我が家の前に居ますともなればそうもなるか。
「二人とも、落ち着いてください。兄さん、とりあえず対応を」
「……すみません。ちょっと待っててください。すぐに出ます」
とりあえず待ってもらうように告げてモニターを切る。
琴水は案外冷静だな。そういえばこいつが芸能人とかに興味を示したことって見たことないかも。
「……加瀬宮、お前も来るか?」
「……うん。行く」
まだ状況に頭が追い付いていないらしい加瀬宮は戸惑いながらも頷き、琴水が両親を落ち着かせている間に玄関へ向かい、ドアを開けた瞬間……。
「こ・は・く・ちゃ――――――――んっ!」
歌手として存分に鍛えられているであろう、腹式呼吸からの発声と共に、金色の物体が加瀬宮めがけて飛び込んできた。
「あぁ~~~~! 小白ちゃんだ小白ちゃんだ小白ちゃんだ~~~~! よかったよかったほんっっっとうによかった! 無事でよかったぁ~~~~!」
「ちょっ、お姉ちゃんっ!?」
「あのクソババアが家から追い出したとかほざいた時は心配したんだよ! だって夜に一人で家を出るなんて危なすぎるし! どこ行ったんだろうって! もし何か事件に巻き込まれたりしたらって……!」
「……ごめん。私が考えなしだった」
「そうだよ。ちょっとは考えてよっ。はぁ……もう心臓が爆発四散木端微塵しちゃうかと思ったよおぉ……小白ちゃんがそうしたかった気持ちも分かるから、っていうか掛け値なしに一番悪いのはあのクソババアだからあんまり強くは言いたくないんだけど……やっぱりもしもってことはあるからっ!」
涙声になりながら加瀬宮を抱きしめる加瀬宮黒音。その姿から、どれだけ妹のことを心配していたが十分すぎるほど伝わってきた。
「うぅ……小白ちゃん…………」
「お姉ちゃん……あの、ほんとうにごめ……」
「…………すんすんすーはーすーはー」
「お姉ちゃん。やめて」
「あぁ~……キくぅ……もうこれで七徹できる……疲れた時には小白ちゃん……元気な時でも小白ちゃん……オールシーズン小白ちゃん……」
「お姉ちゃんっ!」
もしかしたら、この人はちょっとやばい人なのかもしれない。
「ん? 小白ちゃんの神聖な匂いに紛れて知らない男の匂いが…………もしかして彼氏でもできた?」
「できてないしっ! てか、もう離れてよっ! 友達の前なんだからっ!」
「あぁんっ。感動の再会なのにぃ……」
ちょっと問題のありそうな姉は妹の手によって引き剥がされた瞬間、俺とばっちり目が合った。
「うちの小白ちゃんがお世話になっております。姉の加瀬宮黒音です」
「…………クラスメイトの成海紅太です」
今更そんなキリッとした芸能人オーラ全開の顔を出されても……いや。何も見なかったことにして進行しよう。
俺は何も見なかった。テレビやネットで見ない日はないkuonが、ちょっとやばそうな(オブラートな表現)人だったことは忘れよう。
「このまま立ち話もなんですし……とりあえず上がっていきます……?」
☆
「…………というわけで、クソバ……母とはもう話をつけてありますので」
「そう。お仕事の都合で家には誰も……確かにお忙しそうですものね」
「夏休み中、家にずっと女の子一人か……確かに心配ですよね。分かりました。加瀬宮さんのことは任せてください」
「急なお願いでご迷惑をおかけしてしまったにもかかわらず、快く受け入れてくださってありがとうございます。夏休みの間、私の大切な妹をよろしくお願いします」
芸能人オーラ全開の外面を張り付けた加瀬宮黒音は、父さんと母さんには完璧な『保護者』としての振る舞いを見せ、捏造したであろう事情を説明し終えた。
「家から小白ちゃんの着替えとか、生活に必要なものは粗方持ってきましたので」
わざわざ加瀬宮黒音が家から運んできたであろうスーツケースが二つもある。
「はいこれ。小白ちゃん、お財布忘れてたでしょ。私からお小遣いと……カードも入れといたから。夏休みの生活費に使ってね。現金とカードと電子マネーが揃ったし……うん。これだけあれば大抵のことはなんとかなるよね」
「ありがと……」
ファミレスで何度か目撃したことのある加瀬宮の財布。
だがいつも見るものとは分厚さが段違いだ。まるで札束を無理やりねじ込んだようで、明らかに『お小遣い』の範疇を越えている……入れといた、らしいカードの限度額とか考えるのはやめておこう。
「……お姉ちゃん、流石に多すぎ」
「お姉ちゃんからの愛がひとつまみ入ってます」
「ひとつまみ……?」
首を傾げているのは琴水だ。玄関での所業を目撃した俺は『ひとつまみ』ではなく『ひと掴み』だろうなと予想はつく。
「あ、ちょくちょく小白ちゃんの様子を見に来てもいいですか? もちろん、手土産持参で!」
「ええ、勿論よ。いつでも歓迎するわ」
「ありがとうございます……っと、そろそろ時間だな。じゃあ、私はこのへんで失礼します」
不意に注がれた視線。それが合図であることが、不思議と察することができた。
「……送ります。ついでにコンビニ寄りたいんで」
「ありがと。それじゃ、お言葉に甘えちゃおっかな」
「あっ……わ、私もっ」
「加瀬宮。お前、その格好で外に出る気か」
今のTシャツ姿の加瀬宮は、外を出歩くにはやや目の毒だ。本人も恥ずかしいだろう。
「じゃあ、すぐに着替えるから」
「できればじっくり眼に焼き付けたいところだけど、次の撮影の時間もあるから。ごめんね」
やや強引に切り上げた加瀬宮黒音の背中についていくようにして、俺は家を出た。しばらくは無言の間が続いて、最低限声が届く程度の距離を保ったまま、静かに歩く時間が続く。
「…………それで。俺に何か用ですか」
「あはっ。君、察しがいいね。視線だけで意図が伝わるなんてさ」
「まぁ、なんとなく」
加瀬宮黒音が俺と二人で話したがっていることが何となく分かってしまったのは、自分でも不思議だ。正直、実際にこう言われるまで俺の自意識過剰とすら思っていた。
「用事っていうか……前から一度、見ておきたかったんだ。新しくできた小白ちゃんのお友達を」
「そうですか。……で、どうでしたか?」
「んー? 何が?」
「あんたから見て、俺は合格ですか――――加瀬宮の友達として」
横切った車の走行音が大きく響くほど、朝の道路が静けさに包まれた。
「…………へぇ」
前を歩いていた女性が振り向いた時。そこに在ったのは『テレビやネットで大衆の心を掴むシンガーソングライター、kuon』ではなく。『加瀬宮黒音』という生き物としての貌。
「君、思ってた以上に察しがいいね」
「加瀬宮とじゃれてる間とか、リビングで話してる間とか、ずっとあんな値踏みするような眼を向けられてれば嫌でも解りますよ」
「たいていの人は解らないもんだよ。ていうか、初対面でそこまで見抜かれたのは初めてじゃないかな」
加瀬宮黒音の金と蒼のオッドアイは、俺の全身を捉えていた。
深淵。いや、違う。逆だ。天をも衝くほどの高みから、俺という生き物を見下ろしているような。そんな、眼だ。
「うん。そうだね。合格。ていうかそれ以上かな。君という存在は、私の想定してた以上の収穫だった」
「…………」
やばいな。テレビで見ている以上に明るい笑顔を見せているはずなのに、こっちはちっとも笑えない。冷や汗すら出てきた。
「もう聞いてるかもしれないけどさ。私目当てで小白ちゃんに近づく奴とか、けっこーいるんだよね。……いやほんと、君がソレと同じ物じゃなくてよかったよ。小白ちゃんの周りから君を消すのは大変そうだし」
「消すってそりゃまた物騒ですね」
「ちょっとお話したり、知り合いに頼み事をするだけだよ」
本当に『ちょっとお話するだけ』なのかは怪しいが、突っ込まないでおくか。
触らぬ神に祟りなし。
「……大切にしてるんですね。加瀬宮のこと」
「大切だよ。世界で一番。誰よりも」
俺の言葉に対し、加瀬宮黒音は一息の間すら挟まず、何の迷いもなく言い切った。
「私さ。幼い頃からなんでもできたんだよね。いわゆる……天才とか、神童的な感じ。でも、一つだけどうしても才能が無いって指摘されたものがあったの。それが――――歌だった」
意外、としか言いようがなかった。
今や社会現象を巻き起こしているシンガーソングライターが、歌の才能が無いと言われてたとは。
「そりゃあもう酷い音痴でさぁ。たいていのことは才能があるし、楽器はいくらでも弾けたんだけど、『歌だけは諦めた方がいい』『才能が無い』ってハッキリ言われてた。……でも、私は他の何よりも歌うことが好きだったし、将来は歌手になるのが夢だった。それを伝えても、周りの大人は猛反対。なんとか他のことをやらせようって感じだった。ま、気持ちは分かるけどね」
本人に向いていないことではなく、向いていることをやらせてやろう、というのは自然な反応だ。周りの大人たちが間違っていたとまでは言えまい。それは加瀬宮黒音本人も分かっているのだろう。
「賛成してくれる大人は一人もいなくて、みんなが口を揃えて吐く言葉は『諦めろ』。負けじと練習を重ねてもぜんぜん上手くならない。報われない努力を続けることにも疲れて、私自身、もう本当に諦めちゃおうって思ったけど……でもね。この世界で唯一、小白ちゃんだけが私の夢を応援してくれたんだ」
大切そうに。思い出を慈しむように。
「『諦めるなんて、お姉ちゃんらしくないよ』――ってさ」
加瀬宮黒音は、どのテレビ番組やネット、雑誌でも見せたことのない微笑みを浮かべる。
「『お姉ちゃんの歌声は綺麗だし、私は好きだよ』とか。『私も練習に付き合うから』とか。当時から既に、私と比較されて陰で泣いてたりしてたくせに、私のことを励ましてくれたんだよね」
……ああ。俺にも覚えがある。
自分だって家族と上手くいってなくて、家から逃げているくせに。
あいつは俺が家族と向き合えるように背中を押してくれた。
「加瀬宮らしいですね」
「でしょ? 自分の方がもっと傷ついてるはずなのに。なんでもできる私と比べられて辛いはずなのに。劣等感で押しつぶされそうになってるはずなのに。それでもあの子は、私のことを応援してくれたんだよ。……それが何よりも嬉しかった。どんなトロフィーよりも、表彰状よりも、大人からの称賛よりも価値のあるものだった」
想像がつくな。思えばあいつは姉への劣等感を口には出しても、だからといって姉を嫌いにはなってなかった。むしろその逆……姉に劣等感を抱く自分を嫌いになっていた。
「……それから練習していくうちに、少しずつ歌も上達するようになって、今じゃ他の何よりも得意なものになった。あとは見ての通り。シンガーソングライターkuonになって、大成功を収めましたとさ」
「なるほど。あんたが加瀬宮のことをどれだけ大切に想ってるかは分かりました」
「うん。小白ちゃんはね。私に大切なものをくれた、大切な家族だよ。だから私は、私の人生を利用して、どんな手段を使ってでも、小白ちゃんを幸せにするって決めてるの。けど、小白ちゃんにとっての幸せは、小白ちゃん本人が決めることでしょ? 私が幸せを用意してあげることはできないし、仮にできたとしても、それって幸せの押し付けでしかないから。だからね、決めたんだ」
そして、加瀬宮黒音は思い出を語る時と何ら変わらない笑顔のまま。
「小白ちゃんの人生に要らないものも、小白ちゃんを不幸にするものも、全部私が消し去ってしまおうって」
危うい影を落としながら、その言葉を吐いた。
「さっきも言ったけど、君は合格。それ以上。だけど、うちの母親は不合格だね。あれはもう要らない」
その声はぞっとするような冷たさを孕んでいて、夏なのに全身に寒気が走った。
「あんなのでも私たちの親だし、小白ちゃんの家族に対する未練に免じてここまで見逃してやったけど……流石に今回ばかりはね。アレがどういう人間か理解してたつもりだけど、まさかここまで救いようのないバカだとは思わなかった。……ほんと、煩わしいよね。家族っていう鎖は」
方法は分からないし、具体的に何をどうするかも分からないが、この人はその何かを実行に移すだろう。それほどの本気がひしひしと肌に突き刺さってくる。
「……結構お喋りなんですね。なんでわざわざ、こんな話を俺にしたんですか」
「嬉しかったから、かな」
「嬉しかった?」
「うん。ここまで小白ちゃんのためを想って行動してくれる人が、私以外にもいたことが嬉しかったんだ。……ありがとね、成海紅太くん。これでもう思い残すことはなくなった」
道路脇に一台の車が停まり、加瀬宮黒音はその車に乗り込んだ。
あらかじめ呼び出しておいた事務所の迎えだろうか。
「小白ちゃんの人生に要らない人間。小白ちゃんを不幸にする人間は、うちの母親と――――もう一人残ってる。そいつらを消せば、ようやくおしまい。計画よりも少し早いけど、この夏休み中にカタが付くようにしとくから。……それまでは。私の大切な妹のこと、お願いね」
別れの言葉と共に、加瀬宮黒音を乗せた車は走り去っていった。
最後に残した、今にも消えてしまいそうな儚げな表情が、俺の頭の中にこびり付いて離れなかった。