第16話 加瀬宮小白の悩み
「またな、加瀬宮」
「……またね、成海」
たった二人きり。たった二人しかいなかったクラス会。
成海は今日も、いつものファミレスから家までの道を送ってくれた。
薄ら寒いほど清潔かつ高級感のあるエントランスを通り、そのままエレベーターに入る。
綺麗にラッピングされたようなタワーを登る鉄の箱。天を衝くように聳え立つ建物の最上階にある我が家。
鍵を開けて入る。そこには灯り一つない真っ暗な部屋。華やかな外観の腹の底に横たわっている冷たい闇。パパもママもお姉ちゃんも、今日はみんな仕事なのだろう。むしろ家に揃っていることの方が珍しくて、この真っ暗な家が私にとっての『普通』だ。
鞄を置いて、制服のままベッドの上に倒れこむ。シワがついちゃうだろうけど、構わない。
それどころじゃない。それどころじゃなかった。
「……っ……はぁ――――……」
息と一緒に胸の内にたまっていた言葉に出来ないナニカを、ようやく吐き出せた。
「…………」
心臓の鼓動がうるさい。身体が熱い。特に顔。窓を閉め切って冷房も切った真夏の部屋みたいに、熱が全身にこもっているみたいだ。
わかんない。どうして自分がこうなっているのか。皆目見当もつかない。
「なんで来ちゃうかな……」
先ほど送ってもらったばかりで、今頃きっと家までの道を一人で歩いているであろう男子の顔が浮かんでくる。
普通は家族のことを優先するべきなのに。自分の家族のことを蔑ろにしてまで、私のところに来てくれた。
きっと必死になって走ってくれたんだろう。髪はぐちゃぐちゃだったし、汗もかいてたし、制服だって乱れてたし。
どれだけ必死に走ってきてくれたんだろう。
「本当にばかだよ。ばか。ありえない。踏み込まないのが主義のくせして。あんな必死なカオして、走ってまで、来てくれるとか……大ばかでしょ」
成海は、ばかだ。優先順位すらつけられない大馬鹿者だ。
家族よりも友達を優先なんてありえない。
ばかだ。ばか。ばか。ばか。成海の、ばか。
「…………でも……嬉しかったよ」
こんなこと思っちゃいけないのに。こう思っちゃいけないことは分かっているから、必死に成海は、ばかだと言って、誤魔化していたのに。
「成海が来てくれて嬉しかった。会えないって思ってたから、会えて嬉しかった。一緒にお喋りできて嬉しかった」
一度、口にしてしまえば、あとは堰が切れたように溢れ出てくる。
「傷ついてる時に来てくれて嬉しかった……泣きそうなぐらい辛い時に来てくれて、嬉しかった……」
止められない。胸の奥底から溢れるまま、私は喜びを口にする。
「……………………私を選んでくれて、嬉しかった」
昨日。タイミング悪く、帰ってきたママと、家の下で鉢合わせてしまった。
成海には話していた。家族と折り合いが悪いことぐらい。散々、愚痴っていたのに。
――――こんなとこ、見られたくなかった。
別れ際にそう思った。成海に見られたくなかった。成海にだけは見られたくないって思ってしまった。なんでかわからなかった。でも、泣きたくなるほど嫌になった。
私はお姉ちゃんよりも劣っていて。ママにとっては足を引っ張るだけの子供で。
家族から必要とされていない。
そんな子供であることを、成海に見られたくなかった。
成海が――――私のことを見なくなるかもしれない。もう一緒にいてくれないかもしれない。私のところから離れていくかもしれない。
そう思ったら怖かった。成海の顔をまともに見ることすらできなかった。
朝になって、学校に行っても、そればかり考えていた。今日は放課後に成海に会えないことも気分を落ち込ませた。
仕方がない。成海には成海の家族がある。居心地は悪いかもしれないけれど、それでも家族は家族だ。だから、仕方がない。
金曜日が過ぎて、土曜日と日曜日のお休みが明けて、月曜日になればまた会える――――本当に?
あんな姿を見て、私がどんな子供かを見て、成海はまた、私と一緒にいてくれる?
あの放課後が心地の良い、ただの夢になってしまわないか。
手元から消えてしまう残酷な幻になってしまわないか。
考えるだけで怖かった。学校での時間が長く感じた。いっそのこと今日はファミレスに行くことはやめようかと思った。でも、足はゆっくりでも自然と動いて、気が付けばいつもの席に座っていた。
「ドリンクバー二つ」
注文をしてから気づいた。今日は成海が来ないから、二つも頼まなくていいことに。
「…………ばかだな、私」
目の前に成海はいない。ただ時間だけが過ぎていく。
今頃、成海は家かな。家族と一緒にいるのかな。居心地も悪くなくなって、もうここに来ないって思ってるのかな。
そんなことばかりを考えていた、その時だった。
「…………?」
手元のスマホに通知が入った。
成海からだ。
「えっ……?」
アプリを開くまでもなかった。
通知のバナー部分だけで全てのメッセージが表示されていたからだ。
『今から行く』
文面はシンプルで。端的で。
これだけで、伝わった。
私が今日も、いつもの店のいつもの席にいることを知っているということ。
家族をほったらかしにして、私のところに来てくれるということ。
だから、そこで待っていてほしいということ。
全部が伝わった。
これは夢なのだろうか。私が私自身に、都合の良い夢を見せているだけなのではないか。
自分で自分を疑って、それはすぐに否定された。
「……ほんとに来た」
成海は。成海紅太は、息を切らしながらここまで足早に近づいてくる。
「今日って、家に居なきゃいけない日じゃ……」
「そのつもりだったんだけどな」
テーブルを挟み、この五日間ですっかり『いつもの席』になった椅子に、成海は座った。
「今日は、加瀬宮の愚痴を聞くことにした」
…………ねぇ、成海。
「私の愚痴を聞くことにしたって……え? なんで?」
「なんでって……学校のこととか、プライベートのこととか――――家族のこととか。そういう愚痴を言い合って、聞く。そういう同盟を結んでいただろ、俺たちは」
成海が来てくれた、この時。この瞬間……私がどれぐらい嬉しかったか分かる?
「――――……」
「…………何か言えよ」
「ごめん。なんだろ。……わかんない」
「わかんない?」
本当に嬉しかったんだよ。この時、成海が来てくれたの、嬉しかった。
言葉にはできないぐらい嬉しかった。たぶんどれだけ言葉を重ねても、尽くしても、表現できないと思うぐらいに。
「なんか…………来るとは思ってなかったから。今日は、会えないって思ってたから……なんでだろ。自分でもわかんないぐらい、混乱してるっていうか……」
混乱してたのは本当。でもそれ以上に、嬉しくて。
泣かないように必死にこらえていたんだよ。
「…………やば。顔、あつすぎ」
なんでだろ。成海が来てくれた時のことを思い出すだけで……ううん。成海のことを考えるだけで、顔が熱くなってきた。心臓の鼓動もさっきからどんどん早くなってきて。
わかんない。何も。なんで、こんなことになってるんだろ。
誰か教えてほしいと思う。私の中にあるこの熱の正体を。
けれど同時に、教えないでとも思う。
知ってしまったら、何かが大きく変わってしまいそうだから。
……たぶん、これも逃げだ。私は正体不明の何かから逃げている、ということだけは分かる。
大丈夫。落ち着けるはず。時間をかけて、少しずつ。
幸いにして明日は土曜日だ。成海と顔を合わせることもない。
だからそれまでに、なんとしてでも、この熱を落ち着かせよう。
問題は、その後だ。これからのことだ。
「…………成海と、どんな顔して会えばいいんだろ」
それだけが、今の私を悩ませていた。
家族以外のことで悩むなんて、ずいぶん久しぶりだった。