ドレスを脱ぎ捨てた伯爵令嬢は犯罪を見過ごせません!正義感にのっとって悪人を逮捕したら、王子の心まで逮捕しちゃいました!
兄は警察官だった。父も警察官だった。
母はひったくりに遭い、父に助けられたのを機に惚れ込んで結婚した。そんな漫画みたいな話しって思うかもしれないけど、実際にあった話しだ。
父は母を溺愛していたし、末っ子のわたしが十七歳になったいまでも行ってきますのチュウをおくびもなくする。
友人はそんな両親を羨んでいた。どちらかと言えば母の立場に立つ人が多い。
警察官に溺愛される母。運命的でかつロマンティックな出会いを果たした母。
それは女の子の夢なんだそうだけど、わたしは違う。
その話しを聞いた時に思ったのは、お父さん格好いい! ということだけで、母の立場はほとんど考えなかった。
兄が警察官の道を選んだ理由は知らないけれど、わたしも高校を卒業したら警察学校に行くつもり。
おそらく子煩悩な両親はそう言ったら止めるかもしれない。
父は警察官は誇れる仕事だけど危険も多く伴うと言っていたから。母も兄が警察になる時は止めなかったけれど、わたしには別の道を選んで欲しそうにしている。
そういうのは、だいたい空気でわかる。
合気道を習いたいと言った時も困った顔をしていたし、剣道や柔道を習いたいと言った時も素直にうんとは言わなかった。それより英会話やピアノ、水泳などを勧められた。
水泳は体力がつきそうだと思ってやったけど、他は断った。
わたしはエリート官僚になりたいわけじゃない。現場に出て、悪者を捕まえるお父さんみたいな勇ましい警官になりたい。
その夢は幼い頃からずっと抱えていたものだったし、そのためにいくつも習い事を掛け持ちしてわたしなりに頑張ってきた。
それなのに――
「レイラ様。今日もとても素敵ですわ」
一歩でも歩んだら裾を踏んづけて転んでしまいそうなドレスに身を包み、鏡の前に立つわたしは「お淑やか」でいることが義務づけられたご令嬢になってしまった。
なぜこうなったのか知る由はない。
だけどあの日。街中で嫌がる女子高生を無理やり引っ張って、どこかに連れていこうとするチンピラを見つけたわたしは、溢れんばかりの正義感をもって間に割って入った。
呂律も回ってなかったし、少し目がイッちゃってたからドラッグでもキメていたのかもしれない。
薄々気づいてはいたけど、先に逃げて! と彼女を突き飛ばしたわたしの背中に鋭い痛みがはしったのは覚えてる。振り向いた先に、ナイフを突き立てる男の姿があった。
確か、最後に放った言葉は「不覚……!」だったと思う。
で、次に目覚めたらここにいた。
数日前のことだけれど、どうも高熱を出して寝込んでいたらしい。大きく背伸びをして起き上がったら、そばにいた医者が悲鳴をあげて椅子から転げ落ちた。
「脈が戻った! 軌跡じゃ!」なんて言っていたから、多分元のレイラは死んだのだと思う。この歳で病死なんて可哀想だと思ったけれど、人生を引き継いだのはわたしだ。
それならわたしがこの先の人生を清く正しく立派に生きてあげます。
そう誓った。
ここは西洋のお城みたいな家で、使用人は数えられないほどいる。主はバルト伯爵公というらしい。よく聞けば、わたしの父にあたる方だそうだ。
その妻ロイアンは、お母さんとよく似ていて可愛らしく「ふふふ」と控えめな笑い方をする人。わたしにはとてもじゃないけど真似できない。
ふふふ、ってなに。フフフ、なら言えるかもしれないけど。
ニュアンス次第では使える笑い方だけど、基本的には無理。そもそも男らしく生きることを信条としてきたのに、正反対の令嬢になれだなんて無理がある。
「ねえ。ズボンとかないの? これ動きづらいんだけど」
このヒラヒラのドレス。コルセットで胸や腰をぎゅうぎゅうに締め付けられて固定されるわ、スカートは足にまとわりつくわで、やたらと暑苦しい。このヒールもちょっと立っただけでつま先や踵が痛む。基本スニーカーで過ごしてきたから、こういう靴って慣れないのよね。
顔をしかめながら、ぽいぽいっとヒールを脱いでスカートを煽ると、お付きのメイドは目を丸くしてわたしを見た。その顔といったら、0点を取った才女みたいで。ショックのあまり言葉を失ってしまったようだった。
「ず、ズボンですか? 男性がはくような?」
「そうよ。あるでしょ?」
「ございますが……でも、急にどうされたのです? 今日は貴族学園の入学日なのですよ。皆様めかし込んでいかれるのに、ズボンで行かれるおつもりなのですか?」
「入学日? それってドレスじゃなきゃダメなの?」
「いえ……そのような決まり事はありませんが、でも」
「決まってないならいいじゃない。早く持ってきて」
新たなわたしの家族には息子がいない。子供はわたしひとり。だからメイドが用意してくれたのはお父さんのだった。さすがに丈が合わなかったので、慌てて縫い直してくれたけど。
それにドレスを重ねられるわけもなくて、これまたお父さんのシャツとジャケットを借りて、盛られた髪もほどいてポニーテールにした。
本当はショートカットが好きなんだけど、まあいいでしょう。これで快適に動けるってものだわ。
鏡の前に立ってご満悦のわたしの背後では両親が顔を青くする。
「れ、レイラ……その格好で貴族学園に行くつもりなのかい?」
「貴族学園は社交の場でもあるのよ。もしかしたら将来の旦那様も見つかるかもしれないのに……ねえ、やはりドレスにした方がいいのではなくて?」
両親は時間ギリギリまでわたしを説得しようと試みた。両親だけじゃなく、メイドや執事。騒動を聞いて駆けつけた庭師までが目を丸くして説得に乗り出した。
ドレスを着ないだけで、おおごとだ。
わたしにはそれが信じられなかった。
この世界の女性はみんなドレスを着て生活しているんだろうか。
ふふふって笑って?
無理。だから頑なに拒んだ。だいたいスカートって柄じゃないし。
順応力はある方だと自負していたけれど、この世界に馴染むには少し時間が必要かもしれない。
結局根負けした両親はなぜかハンカチを握りしめ、馬車に乗るわたしを泣く泣く見送ってくれた。
「せっかく豪華なドレスでしたのに……」
「モリー。しつこいわよ」
「だって! レイラ様ったら、入学当日になってどうされたのですか?」
「気分よ」
「気分って。そんなお姿では他のご令嬢になにを言われるか……ああ、どうしましょう。伯爵家のご令嬢がこんなお姿で入学に赴かれるなんて、前代未聞ですよう! うわあん」
ハンカチを握りしめるモリーから顔をそらし、泣き言は右から左へ流してゆく。
窓から流れる景色はレンガ造りの建物がずらっと並ぶ西洋の街並み。道は石畳だし、多くの馬車が行き交っている。
通りを歩む女の人はやはりドレス姿で、豪華だったり質素だったりデザインはバラバラだけど、目を皿にして探してみてもズボン姿の人は誰もいなかった。
「ねえ、学園って遠いの?」
「ぐすっ。学園ですか? いいえ……ほら、あそこです。あの緑の三角屋根の」
「あれ?」
いまだに泣き止まないモリーが指をさす。
見てみれば、てっぺんに大きな鐘が掲げてある緑の三角屋根が目に入った。だいぶ大きいようで、街並みから突出して聳えている。
てっきり教会だと思っていたけど……
わたしは頬をひきつらせる。
「近っ!」
ここから見えるんだから徒歩で15分もあれば着くんじゃないの? それなのにわざわざ馬車で行かなきゃならないなんて。こんなことを続けていたら体が鈍ってしまうじゃない。
この世界に合気道といった習い事があるのかも不明だし、将来のためにも、いまはできるだけ自分で鍛えるしかない。こういうのは日々の積み重ねが大事なのよ。
「ちょっと! 馬車を止めてくれない!」
身を乗り出して御者に声をかけると馬車が急停止した。
即座にドアを開いて飛び降りたわたしにモリーが目を丸くして叫ぶ。
「レイラ様⁉」
「わたし、歩いて行くわ。モリーは荷物をお願いね。じゃあね!」
「ええっ⁉ 待って! 待って下さい‼ レイラ様っ!」
「行きなさい」
手を伸ばすモリーを閉じ込めて、パンッと馬の尻を叩く。
御者はオロオロしていたけど、馬が動き出したものだから仕方なく進むことにしたようだ。何度も不安そうに振り返っていたけれど、わたしはにこやかに手を振った。
「さあ。探検がてら歩きましょうか」
浮き足だって歩み始めたのはいいけれど、行き交う人々がわたしを見ては目を丸くする。失礼なことに指をさす人までいた。この格好はそんなに目を引くのかしら。
少々居心地は悪いけれど、別に罪を犯しているわけじゃないし。開き直って歩くことにした。
警察は現地に強くなくてはならない。その情報は歩いて手に入れるもの。お父さんからそう教わっていたから、できるだけ地図をあたまに叩き込む。
「しっかし、服屋は多いけどドレスばかりね」
街はとても華やかだ。人も多いし活気がある。
高級ブティックとでもいうのかしら。出店率はそれが一番多いようで、豪華な刺繍の入った色とりどりのドレスが窓際にディスプレイされてある。
わたしは動きやすい格好ならなんでもいいので、あまり興味がない。
それよりもパン屋の方が好きだ。
数多くのブティックの合間にいくつかパン屋がある。
わたしの目線は主にそちらに向けられていた。どの店からも焼き立ての甘い香りが漂ってくる。ほのかに温かみを感じる、なんとも食欲をそそる匂い。
「お腹空いたわ……」
服の手直しや説得に時間を割かれてしまって朝ご飯を食べ損ねてしまったのよね。
わたしはお腹をさすりながら物欲しそうにパン屋を見つめる。
お金なんて持ってないけど、もしかして試食くらいあるかも。早めに出てきたから時間はまだあるし。
そう思って、とりあえず一番人気のありそうなパン屋に足を向けた。
店は一見して混雑しているように見えたけど、店の中にいたのはほぼ女性。それも大きな羽根つき帽子をかぶってドレスの裾を無駄に広げているような人ばかりだ。
しかも観察してみれば、パンを選んでいる人はあまりいなくて、うふふ、おほほと歓談に花を咲かせている。イートインがあるわけじゃないんだから、雑談するなら外でやって欲しい。おかげで全然前に進めないし。
しかめっ面のわたしに気づいて、何人かが振り返る。
「まあ、なんですの。あの格好……あの方、女性よね。信じられませんわ」
誰からともなくそんな声が聞こえ、マダム達が一斉に振り向いたので、わたしは憮然として言い放った。
「通してもらえませんか」
「あなたね。ここは貴族御用達のパン屋なのよ。見たところ……平民ではないようだけれど、ここはそのような格好をしてくる所ではないわ。お帰りなさいな」
マダムのひとりが顔をしかめてそう言った。
それに同意して周囲の女性たちまでうなずく。
わたしは反射的にマダムを睨みつけた。
たかだかパン屋じゃないの。
わたしだって貴族なのだから、別にいいじゃない。
「パン屋に入るのにTPOが必要なんて聞いたことがないわ。そりゃ食品を扱う店だから汚い格好はダメでしょうけど、わたしの服は汚くありません」
「てぃ……なんですって?」
「TPO。その場に相応しい格好ということです。なんならここの店主に尋ねたらどうです。店主がダメだと言うなら、わたしも引き下がりますから」
「言ったわね。いいでしょう。ちょっと! 店主を呼んできなさいな!」
マダムが目をつり上げ、奥に向かって叫んだ。
この世界のことはよくわからない。万が一ダメなら諦めるしかないけれど、男性の服を女が着ているからって、それだけで追い返されるのは納得がいかない。
気の強いわたしは、こういうところで引くことができない。ただでさえお腹が空いてイライラしているのに、理不尽な物言いをされて大人しく引き下がれるような子ではないのだ。
ざわざわと客が騒ぎ出し、みんなが汚物でも見るような眼差しをわたしに向ける。
(できれば負けて帰りたくないなあ)
顔だけは気丈にしていたけど、内心では情けない声が出る。
そんなわたしの背後に近づく気配があった。
前世では背後から不意打ちを食らったので、胸の前に両手を構え、即座に振り返る。
後ろに立っていたのは金髪の美青年だった。髪はサラサラ、肌はすべすべ。目は澄んで青く、利発的かつ優しげな眼差し。
目鼻立ちのすっきりとした貌立ちで、足も長くウエストも引き締まっている。スレンダーな体型ではあるけれど、わたしの目は誤魔化せない。
金糸の施された真っ白なスーツを着て爽やさを演出していても、胸板はしっかりしているし腕も筋肉質なはず。
(なかなか鍛えてあるわね。どうやったらこうなれるのかしら?)
顔の出来よりもそっちの方が気になる。
(ちょっと触りたいな……さすがに初対面の人の体を触ったら不謹慎よね。どうしよう)
そんなことを必死に考えながら、じっと彼を見つめる。
「なにごとだい? だいぶ騒がしいようだけど」
「リューシュ王子! まああ! ここで王子に会えるなんて光栄ですわ」
さっきまでゴミでも見るような目つきをしてくせに、マダムは急に目の色を変えた。声まで2オクターブは上がった気がする。恭しくお辞儀をしながらも顔はとても嬉しそうだ。
その変わりようにわたしは目を据わらせる。
「聞いてくださいませ、そこにいる女性がパンを買いたいと言うのですよ。男性の格好をして、まるで道化ではありませんか。ですから帰るように言ったのですが、分別のない方で困っていたのです」
マダムはすっと眉をひそめてわたしを見た。
その視線に誘導されて王子もわたしを見る。
わたしの目線は王子の腕に固定されていたのだけれど、視線に気づいて顔をあげた。
きょとんとしてじっと見つめ合うこと数十秒。
王子の瞳が徐々に大きくなる。
……ん?
わたしは眉を寄せた。
次に王子の頬が熱を持ったように赤らんだ。お肌が白いからすぐわかる。
わたしの眉間のしわはさらに深くなった。
最後に口を片手で覆って顔を背けた王子に、額にまでしわが浮かぶ。
人の表情から感情を読み取ること。それは警察官に必要な大事なスキルだ。
だから、じっと。じーっと見つめたんだけど。
(多分……風邪ね。わかった。うつしたくないんだわ。なんていい人かしら)
そう理解して、ならば少し離れた方がいいかと背を向けて歩み出したわたしの手首をパシッとつかむ手があった。
少し驚いて振り返れば、王子が顔を真っ赤にしながら手首をつかんでいる。
「なにか? 熱があるなら帰って寝た方が……」
「いや……熱はないよ。それより、どうしてきみはそんな格好を?」
「動きやすいからです」
即答すると王子は黙りこんだ。それからわたしの格好をまじまじと見て、顎に指を当て納得したようにうなずく。
「なるほど。確かにドレスよりは動きやすいだろうね」
「はい。この格好でパン屋に入ってはいけないのですか?」
「……そうだね。前例はないけれど、ダメということはないと思うよ」
少し間を置いてから、リューシュ王子はふっと笑ってそう告げた。
綺麗な唇に軽く乗せた微笑ではあったけど、さりげない笑顔が印象的な人だ。
王子が否定しなかったこと。店内にいたマダムたちはきっと驚いたに違いない。けれど、それに勝る王子の微笑にそろって瞳を潤ませ、桃色の吐息をもらしていた。
わたしもまた、虚をつかれて王子を見る。
王子というからには偉い方なんでしょう。多分、いえ間違いなくパン屋の店主より発言権は強いはず。それに貴族の中の貴族様。貴族の見本たる人物のはずだ。それなのに、そんな人がこんなことを言っていいのかしら。
なーんて、つい余計な心配までしてしまった。
だって体面ってあるでしょう? それがわからないほど子供じゃない。王子ならそう言うしかないよねって、納得したくないけど納得することだってできる。
やっぱり熱があって朦朧としてるんじゃないのかしら……
わたしの意見を肯定してくれたのだし、本来なら喜ぶべきところだったけれど、わたしの眉間からしわが取れることはなかった。
この人、大丈夫? そんな疑念ばかりが浮かんでくる。
人のことを言えた義理ではないのだけど、そう思っても仕方ないと思うのよね。
けれど王子は、わたしが失礼な眼差しを向けていることに気づかなかったらしい。むしろまだ不安がって、納得していないとでも思ったのでしょう。にっこりと微笑んで、手を差し伸ばした。
「一緒に買いに行こう。それなら文句も言われないだろうしね」
「え?」
王子がわたしの手を引く。つられて足を動かした。
気のせいか、握られる手のひらが熱い。細く綺麗な指だけど握り締められる手は大きくて力強い。でも痛くないように加減してるのもわかる。
その気遣いが、この人が優しい人なんだっていうことを伝えてくれるようだった。
王子は主人に頼んでパンを出させ、わたしに選ばせてくれた。目の前には数々のバスケットと山盛りになったパン。みな焼き立ててまだ湯気が立っているものもある。
もうこのまま焼き立てパンの香りに包まれて安楽死したいと願うほどいい匂いが立ち込める。
けれど残念なことに、この世界には試食というものはないらしい。パン屋に寄る予定はなかったのでお金も持ってこなかったし……だから致し方なく。わたしは指をくわえて眺めた。危うくヨダレが垂れそうになって、慌てて口を拭いたけれど。
どれほど物欲しそうに見えたのか、王子がくすりと笑う。
「好きな物を選ぶといいよ」
「でも、わたしお金ないんです」
「僕が買ってあげるよ。気兼ねせずに選ぶといい」
「いいんですか?」
「もちろん。初めてのプレゼントがパンなんて、王子としては恥ずかしいけどね」
「そんなこと全然ないです! すごく嬉しい! じゃあ……これとこれと~これとこれ!」
人様のご厚意には甘えなければ。わたしは目を輝かせてパンを選んだ。あまりにお腹が空いていたので、数日は保つだろうという量になってしまったけれど。それでも王子は嫌な顔ひとつせず、ずっとにこにこして、わたしが選ぶのを楽しそうに見ていた。
袋いっぱいにパンを抱えて、わたしは満面の笑みを浮かべる。王子もまた嬉しそうにわたしを見ていた。
王子は注文していたものを取りにきたんだって。だからなにかを買うことはしなかったけれど、一緒にパンを選ぶのはとても楽しかったし、初めてできた友達みたいで嬉しくなった。
ほくほく顔で店を出ると馬車の前で王子が片手を伸ばして振り向いた。
「家まで送るよ。乗っていきなさい」
「あり……」
つい、ありがとう! と言いかけてハッとする。
マダムたちを黙らせてたんまりパンを奢ってもらって浮かれていたけれど、そんな場合じゃなかった! 王子との買い物が楽しくてゆっくりしすぎたわ。いま何時⁉
「いえ。わたし貴族学園に行かなきゃならないんです。まずいわ、早く行かなくちゃ!」
大袋を胸に抱えてわたしは走り出した。背を向けたのをいいことに、袋からパンをひとつ取り出してぱくり。
「待って! きみは貴族学園の学生なのかい⁉ 名前は⁉」
慌てるわたしの背中に声がかかった。
「ふひっ、わしゃし、へいらです! 王子、まふねえ!」
もぐもぐ言いながら手を振った時。目の端にきらりと光るものが映った。それがなにか、反射的に悟る。
急いでいたし、しゃべっていたし、頬はリスみたいに膨らんでいたけど、体が動いたのは無意識だった。これもそれも全ては前世の賜物!
わたしは横を通り過ぎた男の横腹にすかさず蹴りを入れた。
「ぐっ……!」
男はよろめいて駆ける足を止めた。けれど残念なことに吹き飛ばすことは出来なかった。腹を押さえて睨みつける男に冷たい眼差しを向けながら、わたしは首をひねる。
おかしい。蹴りには自信があったんだけどな。
「あ。体がひがうんだわ……」
失念してたわ! これ、わたしの体じゃないじゃない。ずっと馬車で移動してた軟弱お嬢様じゃないの。まったく、だから歩かなきゃダメだっていうのよ。
「邪魔をするなっ!」
「ひほ殺しは犯罪でふ」
「なにを言ってるかわからんぞっ!」
男がわたしに刃物を向けて飛びかかる。
そこでようやく咀嚼が終わり、ゴクンと最後のパンを飲みこんだ。それから袋を丁寧に地面に置き、
「銃刀法違反。逮捕おおおっ!」
素早い動きで男の懐に潜り込んだわたしは突き出された腕を取って肩に抱え、手首を軽く捻って刃物を落とす。その時、かすかに変な匂いがした。
パンを食べたばかりで相容れぬ香りに眉をひそめたけれど、足を払って全身のバネを使い放り投げる。男の体はわたしの背中で綺麗に宙を半回転し、地面に叩きつけられた。
「ぐはっ!」
見たか。素晴らしきかな一本背負い!
男はなにが起きたのか理解できなかったらしい。仰向けに倒れたまま茫然として空を見ている。
パンパンと手を叩いて鼻息ひとつ。男の腕を捻り上げたわたしは、どかっと腹の上に跨がった。
「警察いませんか~」
「ヘイラッ!」
少し遠くからリューシュ王子が駆け寄ってくる。後続には護衛の方だろうか。帯剣した男の人が数人。慌てた様子で王子の後を追ってきていた。
「なんてことを! 無事かい⁉」
王子は男に見向きもせずに、わたしの肩をつかんで揺さぶった。声にも目にも痛いほど必死さが滲んでいて、驚きのあまり言葉が繋げなかった。王子の顔は青ざめ、肩をつかむ手には力がこめられる。少し痛いほどに。
「怪我はっ⁉」
「あ……えっと。全然大丈夫です。それよりこの男を……」
「捕らえろ! ヘイラ、来なさい!」
「はい?」
考える暇すらなかった。ついでに名前間違えてますと突っ込む余裕もなかった。体がふわりと浮いたかと思えば、目の前に王子の唇があったから。
「ひっ」
わたしは男を顔で判断したりしない。それでも一般的な美意識くらいは持ち合わせてるつもりだ。
リューシュ王子は綺麗な顔をしていらっしゃる。危うく唇が顎に触れるのではという距離まで近づいてしまい、反射的にのけぞって悲鳴が喉をついて出た。
「おおおおお、王子っ! ご勘弁をっ!」
「医者に診てもらう! 王宮医を学園に連れてこい!」
「はっ」
海老反りになったわたしを抱え直しながら、王子が叫ぶ。わたしの声など耳に入っていないようだ。わたしを抱えまま、ずかずかと進んであっという間に馬車に乗りこんでしまった。
「急げ!」
馬車が進み出した。なんというか、勢いが凄まじい。止める隙さえなかった。
王子の気迫に押されたというのもあるんだけど、このわたしに隙をみせないとは……なかなかやるわね。
いや、それよりも。
「あ、あの。王子?」
「どうした。どこか痛むか?」
口調までさっきと違う。急に男らしさが増した王子に少し息を飲んで、わたしはそっと視線をそらした。だって気まずかったから。
「その……そろそろ下ろしてもらえませんでしょうか……」
もう馬車の中だ。わたしの家の馬車より豪華で広い。ビロード張りの椅子はふかふかで、長時間乗ってもお尻は痛くならなさそう。なのに、わたしは王子の膝の上に乗ったままだった。
さすがにお恥ずかしい……
その。実はあまりこういったことに免疫がない。
女友達より男友達の方が多いし、男性不信でもなんでもないけど、なんだか妙に心が落ち着かない。
冷や汗を垂らして小さくこぼすと王子は眉を寄せてじっとわたしを見つめた。気まずいので視線は横にそらしたままだ。不意に王子の指先が顎に触れた。くいっと顔を向き合うように直されて、疑問を抱くより先に前髪を軽く掻き上げだ王子に額を押し当てられた。
「……⁉」
声にならない悲鳴がでた。
王子の額がわたしのおでこにっ、おでこにぃいいいいい!
ピシッと固まったわたしの睫毛に王子の睫毛が触れる。澄んだ青い目が至近距離でわたしをとらえていた。
呼吸? なんですか、それ。
口臭を気にしたわけじゃないわよ。無意識に呼吸を止めて、宝石のような瞳に食い入った。だって、そうするしかなかった。動けなかったんだもの!
「汗をかいているよ。額も妙に冷たい。やはり怖かったんだね。あんなことをするから……大丈夫、学園に着いたら医師に診てもらおう。すぐに着くよ」
吐息すら唇にかかる距離で、真底真面目そうな顔をした王子がそんなことを言う。
ひくっと頬がひきつった。これは冷や汗です。王子。
馬車はあっと間に学園に到着。王子はわたしを抱きかかえたまま馬車を降りた。
学園の前には大勢の人だかりができていた。煌びやかなドレスに身を包んだご令嬢ばかりが目につく。王子が馬車を降りたとたん、キャーッという黄色い悲鳴があちこちから聞こえ、みんな一斉に王子を見て破顔し、そして固まった。
その視線は王子の胸の中にすっぽり収まっているわたしに向けられているわけで。生まれて初めて針のむしろという意味を体現することになった。
王子に抱かれているだけでも目を引くのに、この格好だ。
注がれる視線は嫉妬やら戸惑いやら侮蔑やら。綯い交ぜとなった感情がとぐろを巻いて突き刺さった。メンタルが強靭なわたしも、ここまでくるとさすがに血の気が引く。
いますぐに下りなければ‼
「レイラお嬢様っ⁉」
不気味なほど静まり返った空気を引き裂いたのはモリーの声だった。
大荷物を抱えて門の前に立っていたモリーはわたしを見つけて顎が外れそうなほど口を大きく開け、茫然としてた。
「あ、モリー! たすけ……」
「王子、王宮医が到着いたしました」
「すぐ行く」
「こちらです」
人混みを掻き分けてきた男にうなずいた王子はモリーに背を向けてまたもや勝手に歩き出す。
ああ……モリーがどんどん遠ざかってゆく。
「モリーッ‼」
わたしの叫びは届かなかった。人混みに飲まれたモリーの後に残るのは、嫉妬にまみれた令嬢たちの大きな声である。
「誰よ、あの男っ!」
「よく見なさいよ、あれは女よっ!」
「女⁉」
すごく、すごくいたたまれない。わたしはひきつり笑いが止められなかった。
パン屋の時も思ったのだけど、リューシュ王子はすごく人気者なのだ。マダムから妙齢の令嬢まで人気を博しているし。
この世界での記憶は三日しかないので、わたしは王子のことを全く知らない。
でもなんとなく。やっちゃった感がある。うん、あるわ。理由はわからないけど、すごくある。しかももう手遅れな感じよ。
諦めの境地に片足を突っこんでいたけれど、せめてもう片方は守りたいなあ……なーんて甘い期待をかけて、王子に声をかけてみたり。
「あの。王子? ずっと抱えていては重いでしょう? わたし、歩けますからここで下ろし……」
「ダメだ。もう少しで着くからこのままでいてくれないか」
「はあ」
ダメでした。もう諦めます。そうします。
王子の胸の中でバカでかいため息をつくと扉が開かれた。ベッドがたくさん並べてあって、かすかに医薬品の香りがする。部屋にはすでに何人か男の人たちがいて、王子の到着を待ち構えていたようだった。あれが王宮医なのかしら……
それにしても、ここはどこですか?
学園なんて初めてきたし、道なんてわからない。
王子は初めてではないのかしら。迷わず進んできたものね。
王子はわたしを優しくベッドに下ろし、王宮医に向き直った。
「彼女だ。怪我などないか、よく診てくれ」
「かしこまりました」
医師たちが動く。カーテンを閉じられて、問診から始まり脈を取られ、関節の動きなどを確認されたけど、当然答えはひとつ。
「問題ありません」
何度そう返したことやら。全ての診察が終わった頃にはどっと疲れてしまった。その時、入り口から失礼しますという声がけがあり、男性が入室してきた。
「おそらく王子の命を狙ったのだと思いますが、頑なに口を開こうとしません。どうしたものでしょうか」
カーテン越しにそんな会話が聞こえる。ベッドの上で背伸びをしていたわたしは思わず聞き耳を立てた。余計なお節介かもしれないけど、こういう話に食いつくなという方が無理なのである。
あいつ。てっきり無差別殺人でも企んでるのかと思ったら…… 王子の命を狙ったですって?
とにかく王子が無事でよかったけれど……
リューシュ王子は考えごとでもしているのか口を閉ざしていたけれど、代わりにわたしが口を開いた。
「牛糞の匂いがしたわ」
ひょこっとカーテンから顔をのぞかせてそう言うと、王子が驚いたように振り向いた。
「なんだって?」
「多分、畑仕事か酪農をしてる人だと思う。しかも徒歩だったし、そう遠くない場所からやってきたのよ。街中にそんな場所はなかったし。衣類からも臭っていたから毎日扱っている人なのよ。だから酪農の線が濃厚だと思うわ。農家なら時期が違うもの」
「酪農……確か王都の東に大きな農場があったな。管轄は確か……」
「王子。それ以上は……確認して参ります。ご報告は後ほど」
「ああ。頼む」
従者が厳しい顔つきで王子の言葉を遮った。
多分、わたしにこれ以上は聞かれたくなかったんでしょうね。さっさと部屋から出て行ってしまった。
王子もまた厳しい顔をしていたけれど、従者がいなくなるとすっと力を抜き、わたしにやわらかな表情を向けた。
「体は……大丈夫だったかい?」
「ええ。隅々まで診てもらいました。健康そのものですよ、ねえ?」
後ろに控えていた医師に同意を求めるとにっこりうなずいて答えた。
「はい。レイラお嬢様には怪我ひとつございません」
「そうか。よかった……ご苦労だったな」
「いいえ。とんでもございません。では我々はこれにて失礼致します」
「ああ」
医師たちが去り、部屋にはわたしと王子の二人きり。
微妙な沈黙が場に訪れ、わたしはおずおずと口を開いた。
「ええと。ありがとうございました。では、わたしもこれで……」
「あの体術。実に見事だった」
「はい?」
「あの時は動転してそれどころではなかったが、いま思い起こせば見事な動作だった。きみは普段なにをしているんだい?」
普段…ですか?
前世の話しならいくらでも話してあげれるんだけど、そんなことを言ったって頭のおかしい女と思われそう。まあ、こんな格好をしている時点でそう思われているかもしれないけど。
この世界の令嬢って普段、なにをしてるのかしら。よくわからないので適当に答えることにした。
「ええと……普通のご令嬢と変わりませんよ。もともと運動神経がよいので、あの時はとっさに体が動いただけです」
「とっさに? 刃物を持った男に恐怖も抱かず?」
「犯罪は許せません。わたしの場合、恐れより憤りが先にくるのです。そこは少し……他のご令嬢とは違うかもしれませんけど……」
そう言ってうなだれると王子がくすっと笑いをもらした。
「なぜ小声に?」
「だって珍しいでしょう? 女の子がすることじゃないって、よく叱られていましたし……」
「そうだね。その意見には大賛成だ。きみが強いのはわかったけど、やはり女の子だ。いざとなったら男には敵わない。あんなことはすべきじゃないよ」
「でも……」
「ぼくがどれほど心配したかわかるかい? あいつがきみに刃物を向けたのを見た時、本当に心臓が止まるかと思ったよ」
「……ごめんさい」
しゅんとうなだれると、王子の手があたまを優しくなでた。
「きみが大事なんだ。だからもうあんなことはやめておくれ」
顔を上げれば王子が優しい眼差しを向けて、少し困ったような顔を浮かべていた。言葉の響きまでどこか悲しくて胸がちくりと痛む。
いままでお父さんやお兄ちゃんにも何度もやめろって言われたけど、こんなふうに感じることはなかったのに。
「大丈夫です。あとは学園に缶詰ですもの。ご令嬢やご子息ばかりのこの学園で犯罪なんて起きるはずもありません。あとは大人しくしますから」
照れ隠しにふへっと笑うと王子も小さく笑みをこぼした。
「そうだね。ここにいればきみの動向も見ていられるし、何かあっても守ってあげられる」
「え?」
「貴族学園二年、リューシュ・アルベルトだ。これからよろしく頼むよ、レイラ」
「先輩でしたか。こちらこそよろしくお願いします」
そっか。王子もここに通っていたのね。どうりで道に迷わなかったわけだわ。
それに初めて友達ができた!
満面の笑みで答えると王子は眩しそうに目を細めた。
学園は五年制だ。やっていけるか少し心配だったけど、なんだか上手くやっていけそうな気がする。
わたしは差し出された手を握り返した。
◇
翌日。
「郊外のコックナード農場の主が数日前から行方不明となっていました。妻に顔を確認してもらったところ、夫と認めました。最近経営が上手くいかず、借金が増えていたようです。しかし妻の証言によれば、最近急に夫の金遣いが荒くなったと」
「そうか」
「王子……もうおわかりでしょうが、コックナード農場は第五王子ノーラント様が所有されています」
「わかっている」
「お父上に報告されますか」
「いや。大事には至らなかったのだ。報告は不要だよ」
「ですが……」
「そんなことをすれば、いますぐ王宮に戻ってこいと言われかねない。ぼくは、もう少しここにいたいんだ。気になるひとができたからね」
深刻な表情を浮かべる従者にリューシュは首を横に振る。
きっと彼女は何もわかっていない。
この国の第一王子を命の危機から救ったということも。はかりごとを企んだ黒幕をほんの僅かな情報で解き明かしたことも。おそらく、自分がどれほど美しいのかということも。
初めて会った時、翡翠色の瞳に見つめられて体が急に火照りだし、心臓は信じられないほど高鳴って、まともに目を合わせることもできなくなってしまった。
男性の格好をした彼女は凛とした佇まいで、まるで女騎士のように見える。それなのに妙に扇状的でもある。
ぼくの顔を見ても他の令嬢と違って色目を使うこともない。唯一目を輝かせたのはパンを買ってやると言った時だけ。この世界のどこにヨダレを垂らしてパンを見つめる令嬢がいるのだろうか。
大っぴらに笑うことが恥とされる中で、彼女は実に嬉しそうに笑った。屈託のない飾らない笑顔。純粋で明るくて。パンを選んでいる時は本当に嬉しそうで、見ているこちらまで頬が緩んでしまった。
体術も洞察力も並外れたものがある。悪漢に立ち向かう勇気は賞賛に値するが、やはり心配だ。そんな彼女に興味を引かれない方が不思議というものだろう。
だけどもう分かっている。興味どころの話ではない。ぼくはレイラに恋をした。
「明日からの学園生活が楽しみになってきたよ」
いまごろはパンを食べているだろうか。
あの笑顔をもう一度見るためなら、少々危険が伴ったところで構わない。
彼女の笑顔を思い出し、リューシュはやわらかな笑みを浮かべるのだった。
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警察官を夢見るご令嬢を書いてみたくて投稿しました。
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