第二十三話:彼女を守るため
疲れている、というわけではないはずだったが、身体を横たえて祈りの姿勢をしていると自然に眠りに引き込まれたようだった。昼過ぎまでは起きていたはずだったけれど、と記憶では僅かに西に傾きかけた日が差し込んでいた窓を見やれば、既に夕焼けの終わりに近く、夜が始まりかけていた。ヒューイはまだ戻らない。
彼が出掛けに夕方には戻る、と言っていたのを思い出して、ローレンシアは扉の方へと目を向ける。何かあったのでなければいい、とそれだけを願っていた。
だから彼女の耳に蹄の音が響いた時は全身がすうっと冷たくなった。ヒューイは馬を持っていない。オフォスのアジトにも徒歩で向かったはずだった。それなら、まさか――? 動かない自分の身体が歯痒く、こんなことなら剣だけでも手元に置いておけばよかったと歯軋りをする。上半身を起こすのだけでも精一杯で、僅かなその動きでも痛みが身体を貫く。ローレンシアが扉を睨みつけたときと同時に、それが勢いよく開かれる。
「――ロージー!」
金色の蝶が迷い込んできたかのようだ、と最初にローレンシアは感じた。青く澄んだ瞳にはみるみる涙が溜まって、そばかすのある頬にぽろぽろと零れていった。
「ロージー……!」
上半身を起こしていたローレンシアにリンティアが抱きつく。それは彼女の怪我を思えば随分と乱暴だったが、ローレンシアにとっては痛みよりも何よりも安堵と嬉しさの方が何十倍も強かった。
抱きしめる腕を緩めると、リンティアは涙も拭かずにローレンシアの至近距離に顔を寄せ、その両頬を手のひらで包む。まるで母親が子にするようだ、とローレンシアは苦笑を禁じえない。
「ああ、本物だわ、本物のロージーね……? ああ、無事でよかった……!」
リンティアはなかなか泣き止まず、涙に濡れた頬をべたべたとローレンシアに押し付ける。さすがにギヴ・アップを感じたローレンシアが戸口でその様子を見守っているヒューイに視線を移すと、彼は心得たようにそっとリンティアの肩を抱いて椅子に座らせる。
「ありがとう、ヒューイ」
「お安い御用だ。数日後、また送っていく」
ローレンシアは微笑んで頷いた。まさかリンティアを連れてくるとは思わなかったが、ヤンやテリーを連れてくるよりは道中疑われにくいだろう。リンティアはどこをどう見ても戦闘に向いているとはいえないし、今でもまだ「アンシアン」のメンバーといっても違和感がある。
枯れるほどに泣いたはずのリンティアは二日滞在し、またアジトに戻る日の朝にローレンシアに抱きついてまた枯れるほど泣いていった。
リンティアが何事もなく(目は真っ赤に晴れ上がってはいたものの)アジトに戻ってきたあと、テリーは丁重に礼を言うと、話があるといってヒューイを近くの酒場に連れ出した。人の多いところの方が紛れるのだということを二人とも良く知っている。こんなところで誰が何を喋っていたかなど気にする者はいない。
最初の杯を半分ほどあけたところで、テリーが用件を切り出した。ヒューイはその話の内容がどういうものか、うすうす感じてはいたがまずは相手の言葉に黙って耳を傾ける。
「『アンシアン』に力を貸す気はないだろうか?」
これ以上なく率直な質問は、テリーの人柄を思わせる。騙したり嘘をついたりすることが出来ない男だ、とヒューイは口元に僅か笑みを浮かべて杯に手を伸ばした。
「きみが剣を扱えるかどうか僕は知らないけれど……でも、僕たちは剣で戦うだけが抗いではないと思っているんだ」
その主張はリンティアが象徴的となっている。武力だけではなく、大切なのは気持ちなのだということ。
「どうだろう? 考えてみてくれないかな?」
「テリーは」
問いに被せるようにヒューイが質問を返す。
「何故、参加している?」
その質問に対するテリーの最初の反応で、彼には理由があるようだ、とヒューイは感じた。思い出したくないものを目の前に突き出されたような、困ったように視線を伏せたテリーが、ぼそぼそとその理由を簡単に説明する。元々は国王軍にいたこと、育った町の状況、その町を壊滅させる命に逆らえなかったこと。
テリーには理由がある、とヒューイは考える。テリーがそのあと補足するように少しだけリンティアの話もしたが、彼女にもエストレージャを憎む理由がある。……今彼女はその憎しみよりもテリーの傍にいたいという思いの方が強いようだけれど。
「残念だが、私には国を憎む理由がない」
それは本当だった。時折剣士として遊軍に参加することはあったがヒューイ自身、国の政策に不自由を感じたことはなかったし、悪政であると断言できるだけの知識もなかった。現状で国に不満はないのだ。
「そうか…」
ふう、とテリーは溜息をつく。決起に失敗したとはいえヤンがこのまま引き下がるとは思えなかったし、ローレンシアが生きているのなら恐らくは次の計画を考えるに違いない。それなら、仲間はひとりでも多い方がいい。
しかしヒューイの言うことも理解出来る。不自由を感じていない人間に憎しみを持てというわけにもいかないし、憎むことを強制したくはなかった。
「残念だ。僕はきみと一緒に動いてみたかったんだ」
僅かな接点しかなかったが、テリーはヒューイの誠実さが好ましかった。熱くはないが穏やかで誠実で、そして今の自分の提案に対する回答もとても公平なものだった。誘われたから、という安易な理由で国を憎むような不公平さは実はあまり好きではない。
テリーが諦めて他の話を幾つかし――それは主に、ヒューイの生活についての質問が多かったのだけれど――テリーが席を立とうかと考え始めた時だった。唐突に、ぽつりとヒューイが呟く。
「憎む理由はないが、守る理由なら、ある」
その言葉の意味をテリーが理解し、咀嚼し終えるまで数秒かかった。青い瞳がまっすぐにヒューイを見つめる。
「彼女を守るためという理由でなら、私は貴方たちに協力したい」
テリーはその言葉を頭の中で二度反芻した。彼女――つまりヒューイはローレンシアを守りたい、と言っているのだ。そのために『アンシアン』に参加してもいいと思えるほど、彼女を。
「わかった。早速ヤンに連絡を取ろう」
優れたリーダーがそれをなんと言うか……テリーには想像出来るような気がしたが、あえてここでは触れなかった。自分とリンティアと同じだ、ヒューイとローレンシア――まったくタイプの違う同士が惹かれあったことを考えると、テリーはこみ上げる笑いを堪えきれない。それが幸福だ、と、唐突に感じた。