第十六話:後ろ髪引かれる思いで
ヤンは一切振り返らず、休みなくエンテまで駆け通した。途中で身体の方が悲鳴を上げて何度か足取りは緩くなったが立ち止まりはしなかった。止まってしまうと身体中の震えががくがくと音を立てそうだった。実際、彼の歯の根はいつまでもガチガチと音を立て、思い切り力をこめておかないと駆けながら舌を噛み切りそうだった。強く食いしばりすぎて口の中の感覚は麻痺していた。そして少しでも足を緩めれば、きっと自分は今来た道を戻ってしまうだろうことも、ヤンはわかっていた。
ローレンシアを置き去りにしていくことは――確かに、もしかしたら最善の選択かもしれない。けれど感情は別物だ。最善にして最悪の選択を今自分がしてきてしまったことを、ヤンは一生忘れぬために心に刻みつけながら走り続けた。
エンテのアジトに着いたのは翌日の夜中だった。木の扉を四つ叩くと、出てきた不安顔の仲間たちがヤンを見て驚きの声を上げる。
「どうしたんだ、君ひとりか?」
「顔色が悪いな。足が震えているぞ」
「傷の手当てもしないと――湯を沸かそう」
「まさかずっと駆けてきたのか?」
「疲れているだろう、座った方がいい」
「ローレンシアは一緒じゃないのか?」
何気ない言葉は確実にヤンの心臓を抉った。まるで心臓を潰されたかのような圧迫感がヤンを襲い、その大きな身体がよろりと揺れる。
「――ヤン!」
「大丈夫だ。――悪ィが先に休ませてくれ」
ヤンの、ここまで真面目な声音を聞いたことのなかった仲間たちは一瞬詰まり、ヤンが奥の部屋の扉へ向かうのをただ黙って見送っていた。彼の真摯な横顔や、青白い顔色や、低く抑えられた声音が――事実の重さを示していた。