第十五話:客観的最善策
半ば無理矢理、ヤンがローレンシアを抱き上げた。兵がいないとはいえいつこの付近に戻ってくるかわからない。もしかしたら追っ手が向かってくるかもしれない――もしそんなことになったら、確実に自分がヤンの足を引っ張ることがローレンシアには見えていた。
大通りを過ぎて小道に入ると、ヤンの足も少し緩んだ。まだ闇は続いているが城の喧騒を感じているこの辺りの家々はどこかそわそわと忙しない。腕の中のローレンシアが窮屈そうに身体を捻ろうとするのを感じて、ヤンは慌てて小公園へと入り、あまり手入れの行き届いていない木々の間、下草がしっかりとクッションになってくれそうな場所を選んでその身体を横たえた。
くう、と悲鳴か溜息かわからない声を呼気と一緒に吐き出したローレンシアは二三度、大きく呼吸をするとその青白い頬に幾分かの赤みを取り戻し、瞳を開いた。
「ヤン、頼みがある」
その先のローレンシアの科白を、ヤンは予想できるような気がしていた。
「この先、エンテのアジトまではおまえひとりで行ってくれないか」
ローレンシアの瞳はまっすぐにヤンを見つめていた。怒りも、諦めも、悲しみも、なにもなかった。ただそれは指示であるというだけの――
その言葉を予想はしていたが、ヤンは聞きたくはなかった。言葉にされてしまうと自分が抗えないのがわかっていた。もしもローレンシアがここで取り乱して怒りや悲しみをその言葉に込めていてくれたなら――無理矢理にでも引きずっていくのに、彼女の声にはその片鱗もない。ただ淡々と、いつもどおりの声音で告げただけだ。――出血のせいで少し、呼吸が荒れていた。
「無駄にはしない」
ヤンが黙ったまま見返していると、ローレンシアはふっと口元を緩めてそう呟いた。
無駄にしない、だと?――ヤンは内心、泣き出してしまいそうな衝動に駆られる。何をだ? 何を無駄にしないと言ってやがる? お前がここでもし死んだりすれば、何もかもが無駄になっちまうってこと――
僅かに、ローレンシアが笑んだままうっすらと頷く。その目許は柔らかい。ヤンはますます悲しげに眉を顰めた。
その様子に、ローレンシアは申し訳ない思いでいっぱいだった。この誠実な男はこの土壇場でも自分を捨てきれないかもしれない。苦汁の決断を迫っている自分が一番、この友に残酷な仕打ちをしているのだということもわかっていた。しかし、情けでは生きていけない。彼女自身もう自分で動けないこともわかっていたし、だんだんと身体が重くなるのも感じていた。このままヤンを巻き込むわけにいかないのだ。彼にはリーダーとしての仕事が残っている。
「……了解」
長い沈黙の後、ヤンがぽつりと呟くとすっくと立ち上がる。その姿を見上げる格好さえもローレンシアには厳しかったが、表情には出さずにもう少し、口角を上げた。
見つめ合ったのは何秒だっただろう。ヤンはきゅっと唇を引き結び、どこか怒っているような表情のままでくるりと背中を見せると一気に駆け去った。後ろは振り返らなかった。
その後姿が小さく消えていくのと同時に、ローレンシアは自分の身体がまるで泥のように重く、ずるずると力が抜けていくのを感じていた。瞼さえも開けられずに目を閉じて、そしてそのまま――闇の中に自分が溶けていくように、感じた。