Chapter[1]
「……あった、あれだ」
肥沃な土を地平線まで覆い尽くす草花。そんな景色を無限に繰り返す丘陵の上にたった一つ、煙突を伸ばした赤屋根の家があった。それは人々が遥か昔の時代に忘れ去った遺物の様であり、或いは絵本の中に描き記した世界そのものであり、一人フォーマルスーツを羽織った彼は立ち止まった所でそこへ馴染むなど到底出来そうになかった。
服装を正し、緩めていたネクタイを締め直す。それから左手首に目を遣ると、昨日まで元気だった腕時計がいつの間にか針を止めてしまっていた。
「ああしまった、また巻き忘れてた。こういう所は不便だけど、でもやっぱりその面倒臭いのが良いんだよなあ」
惚気話にも聞こえる独り言の後、再び赤屋根に向かって歩き出す。太陽は北を過ぎて大きく傾き、そろそろ西の空の色を塗り替えようとしていた。あちこちで碧空を引っ掻く鉤状雲もやがて鮮やかに染まるだろう。
足を進めて近付くにつれ、その家は少しずつ彼に詳細を示していく。煉瓦造りの壁は継ぎ目から苔生し、煙突は所々欠けたまま修理されていない。遠目に見ればはっきり赤かった屋根も、実際には随分と汚れ褪せていた。流石は古き良き時代の跡――いや、単に手入れされていないだけなのか――何にせよそれは長い時間を人々の視覚に訴え掛けそうなものだった。
そして遂に目前まで迫った目的地。暫く見上げて思いを巡らせ、それから彼は思い切ってぼろぼろにささくれた扉を叩いた。少しして扉がゆっくりと開く。
「……一体どちら様だい?こんな辺鄙な所に用があるなんて」
顔を出したのは一人の老婆だった。灰の様に真っ白な髪が纏められもせず自由気ままに乱れている。青年は彼女を見るやいかにも嬉しそうに言った。
「やあこんにちは、マリョ・ミ・ウルスペッロさん。カル・シ・ミオーヅェ?」
老婆が目を見開く。しかしすぐに懐かしむ様な笑みを零し、差し出された右手を取って握手した。精一杯握っているのだろうが何とも弱々しい。
「エリオゲーテ。……一体いつ振りだろうねぇ、その言葉を他人の口から聞いたのは。カペリ・ミ・リェリを話せる人なんて私以外誰も残っちゃいないと思ってたよ」
その言葉に隠れた意味を彼は察する前から知っていた――その更に先で待つありきたりな結末さえも。
「いえいえ、話せるなんてとんでもない。地上のあらゆる文献を漁って、それでもって得られた語彙は挨拶くらいですよ」
「あら、そうかい。でもまあそれだけでも大したもんだ。さ、ずっとこうやって喋ってるのも何だから、暖炉を焚いてじっくり話そうじゃないか。どうにも今晩は良く冷えそうだ」
僅かに哀しそうな表情を見せたものの、彼女はすぐに優しそうな笑みを取り戻し、彼を家の中へと案内した。




