ぜんぺん。
季節は花の盛りも過ぎようかという頃だった。
整えられた中庭では、草葉が緑を濃くしようと一心に陽の光を浴びている。
庭を望める回廊を渡る人は、しかしその花の無くなった中庭を眺めたりはしない。誰も先を急ぎ、足を止めたりはしなかった。
しゃらしゃらと小さな金属片がぶつかり合う楽器を思わせる。
賑やかなようで、それでもその音のもつ雰囲気からか、静謐な感じもする。
乙女たちのささめき合う声は、しゃらしゃらと高く鳴って、中庭を抜け、そのまま青の濃い空へと吸い込まれていった。
『花の渡り』は実に五十余年ぶりのことだと古参の侍従たちは目を細める。
当時その光景を目にしたのは、下っ端も下っ端、小間使いの小間使いをしていた頃だったと懐かしさで眉の両端が下がっている。
今代の王は早々に妃を決めた為にこの『花の渡り』はなかった。
敷地の端にある屋敷は、久方ぶりにその扉を開いた。
次代の王である王太子、その妃の選定のため、姫君たちは用意されたその屋敷から王城へ幾度も足を運ぶ。
大国であるこの国は、内外を問わず、周辺諸国からも広く王太子妃を募った。
将来の王妃、そしていずれは国母に。
自ら野心を持って登城する姫もいれば、野心を持った親に唆された姫、無理にも送り込まれた姫と、その立場は様々だった。
選りすぐられた十二いる姫たちは、血で血を洗う凄惨な争いをしているかといえば、そうでもない。
確かに王太子の寵を得ようと、相手を蹴落とさんとする姫もいたが、それはごく一部。
ほんの数人だけで、その他の姫たちはその生まれからか国民性か、争いを好まず鷹揚そのもの。
むしろ選定から外れて、側室になるか、王族やその他の貴族へ下賜される方が気楽でいいと考える姫が大半であった。
王城の端にある館は、姫たちを迎え入れているその時期だけ解放され、古くからの習いで『花園』と呼ばれている。
花たる美姫を集めた場所であることからそう呼ばれるが、最初にそう呼んだ者は余程の酔狂か、余程ものごとを斜に見る者だったに違いない。
『花の渡り』はそこから派生して名付けられた。姫たちが館から王城に足を運び、王妃教育を受け、王太子と会うことを指していた。
午後の日差しが回廊の柱や天井が作る陰と、白い石床とをくっきり分けている。
からりと乾いた空気は陽に暖められて、本格的な夏はもうそこまで来ていると知らせを寄越す。
姫君たちは回廊の陰の中を、賑やかに進んでいた。
これから王太子に招かれての茶会だから、気分も上がろうという雰囲気。
王太子以外にも身分や年頃の合った男性たちも招かれている。
将来を共にする誰かと出会える期待で、声も少し高くなる。
いつもより少し早足な姫たちの一団から、遅れがちに後ろを付いて来るひとりがいた。
右足を少し引きずるように、ひょこりひょこりと進んでいる。
王城の奥、私的な場所へ差し掛かかる場所。
そこへ訪れる人々の出入りを任されている衛士は、その遅れがちに歩く姫君に少しだけ同情的な視線を送った。
声をかけることはない。
相手は姫君であり、将来には王妃になるかも知れない。話しかけられる立場ではもちろん無い。
でも気にはなる。
痛そうにしている様子はないが、その足は治るものではないのだろうか。
病が元なのだろうか、それとも怪我なのか。
自身が病や怪我とは縁遠いので、気の毒な気がして仕様がない。
それはそれ、これはこれ。
その姫を見るたびにいつの間にか頭の中で繰り返されることばをつぶやく。
いいから仕事に集中しろと、少し遠く、異変はないかと周囲に目をやった。
誰にも聞こえないほどの小さな息を吐き出して、腰にある剣に手をかけて力を抜く。
飾りの金具がぶつかり合って、ちゃらちゃらと音が鳴った。
その日は薄灰の雲に覆われて、午後には小さな雨粒を落としそうに見えた。
先日とは打って変わって、静々とした『花の渡り』だった。
王妃教育を受けるべくやってくるのだから、無理もない。
相応に厳しいという噂は聞いているので、姫君たちの様子も推して知るべしだった。
天気でも良ければもう少し気分も違うだろうが、こればかりは人の力でどうにもならない。
姫たちはみな薄布を頭から被り王城を訪れる。
素顔は夫となる者にしか見せないようにするため、城に仕える男性に無闇に顔を見せない為のものだった。
この中から王妃が決まるのだから、誰ぞに見初められ、まして無用な想いを発展させる訳にはいかない。
衣装も清楚で質素が良しとされている。
姫君同士が無駄に張り合うことなく、選ぶ側も公平に人となりを判断すべしと、これも習いのひとつだった。
とはいえみな年頃で、それなりに着飾りたい思いはある。
派手にならないように、高価に見えないように、それぞれ手間暇かけられたものを身に纏っていた。
考えつくことは似通っているので、結局はそれほど個性を発揮出来ない。
遠目で見ればどこの誰姫なのか、判別は難しい。
しかしその姫たちの中にあって、やはりひとり遅れてひょこりひょこりと後を追ってくるひとりに目が行ってしまう。
薄布に隠れて顔は見えないが、レースの向こう側に見える髪は黒かそれに近い色なのは見て取れる。
布の隙間から見え隠れする手の先は象牙色。
青みがかったような白い肌の多いこの国では珍しい。
その髪といい、肌の色からも他国からやって来たことが推測された。
回廊の先から姫君たちは静々とやって来て、通路の両脇に立った衛士の間を通り過ぎていく。
後から追って来ていた姫は、しかしその回廊の中程で歩みを止めた。
しばらく薄布越しに先を歩く姫たちを見送って、くるりと向きを変えると、反対方向へ歩き出す。
何事かと思っても、気軽に声をかけられるものでもない。
衛士はぱかりと口を開けたまま、ひょこりひょこりと去っていく後ろ姿が小さくなって、やがて角を曲がって見えなくなるまで目で追った。
はと気が付いて口を閉じる。
唇をきゅっと横に引き結ぶと、同時に眉の間にしわが寄る。
午後からは思った通り、小さな水の粒がぽつりぽつりと落ちて、回廊の縁を少しばかり湿らせた。
その日はそのまま、帰っていった姫君が衛士の横を通り過ぎることは無かった。
次の日も、その次の日も。
姫君は回廊の中程までは歩いてくる。
しかし何か見えない壁でもあるかのように、立ち止まると、くるりと背を向けて去って行った。
何かしら行きにくい理由があるのだろうか。
厳しい場所に向かいたくないのだろうか。
そうは見えないが、姫君同士の間で嫌な思いをすることがあるのだろうか。
少し不自由な身に、負い目や引け目を感じているのだろうか。
去っていく後ろ姿は、衛士の目だけではなく、心にも焼き付いていた。
頼りなげな小さな背中。
足を引きずり庇いながらも、真っ直ぐと歩く姿は、仕事を終えた後にもふとした時に思い出される。
五日目を数えた日。
とうとう衛士にも我慢の限界がやってきた。
越権行為というよりはむしろ、王に対する不敬に当たると重々承知している。
王妃候補と接することはならないと、そもそも城に仕える騎士たちの間では暗黙の了解のうちだった。
姫君たちの護衛はそれぞれ実家から連れてきた騎士たちに任されている。
近衛の騎士たる己は、王と城に仕える者。
そうと解っていても、それでも気になってどうしようもない。
姫君の立場を悪くする行いかもしれないが、何かしらお咎めがあった時は、全て自分が引き受ける気で、持ち場を離れて歩き出す。
通路を挟んだ向かい側にいる同僚の声に、すぐ戻るとひとこと返して、回廊の先にいる背中を追いかけた。
「……お待ち下さい」
背後から追いかけて、なんと声をかけるかも決めていなかったと、声をかけてから気が付いた。
ぴたりと歩みを止めた姫君は、周囲を見渡して、やがてゆっくりと後ろを振り返る。
「……申し訳ない、お引止めをして」
「……わたし?」
掠れたような小さな声は、それでも細い笛の音のようで、壁や床をはね返えってよく響いた。
その音は訝しがるようで、薄布は口元の辺りで細かく揺れた。
衛士は小さく息を飲む。
それは当然と自分に言い聞かせて、気を落ち着けた。
いきなり夫となるべく以外の男から声を掛けられるのだ。しかも自らの護衛でもない、城の騎士から。
姫君からしたら、困惑以外の何でもないだろう。
「……その、何故いつも引き返されるのか、気になって」
「……なぜ?」
「あ、いや。何か理由があられるならと」
「貴方に関係が?」
「……いいえ、ありません」
「でしょうね」
ふいと振り返ると姫君は回廊を歩きだす。
ひょこりひょこりと離れていく後ろ姿を見送りながら、心の中だけで唸り声を盛大にあげる。
取りつく島もないとはこのことかと、苦笑いに口の端を歪めた。
がくりと頭を落として、その首の後ろ辺りの髪をぐしゃりとかき混ぜた。
「……参った……やらかしたか」
しくじった。
薄布の奥から見えたその姫君の瞳は、宵の始まりの藍に近い。
布を取ったらどんな色だろうか。
その髪は。瞳は。
日の当たる場所で見たらどう見えるだろう。
あの意思の強そうな瞳は、何を見ているのだろう。
あの声で自分の名を呼ばれたら、どんな気分になるだろう。
しくじった。
想いを寄せてはいけない相手に、心を持っていかれたと、気付いた時にはもう遅い。