3 伯爵令嬢の秘密
オルガは王都の外れに邸を構える、ゼネット=オリバーレス伯爵の養女である。
毎日、ゼネット卿の集めた絵画を並べている画廊にいて、訪れる人たちの芳名を管理しミランダ=オリバーレス伯爵夫人へと報告することを日課として過ごす。
下流貴族の家にオルガは生まれた。姉が二人と弟が一人の、あたたかな家である。しかし、六歳のときに実の親元から捨てられて、このオリバーレス家に養女として迎えられた。生まれ持った不思議な力を、両親が気味が悪いと耐えかねたことが原因である。
生まれてから二年くらいは、子供として可愛がられていた。しかし、物心ついたオルガの周りで不思議な現象が起こり始め、それに家族が気付いたのもそのころだ。
三歳を迎えるあたりになれば、両親から向けられる視線にはありありと嫌悪が混じり、監視するものとなっていた。
そうして、六歳を数えたとき、王都の外れの林の中に連れられて、それっきり。
馬車で遠出するという両親は、珍しくオルガを快く同行させた。王都の外れの林は鬱蒼としていて、そのずっと奥の奥までやってくると、オルガはそこで馬車から降ろされた。
目的地だろうかと母親を振り返る。
しかし、母の顔を見ることは叶わなかった。母親は馬車から降りもせずに、その扉を閉めて馬を走らせるよう声を張り上げたのである。
一瞬に理解したオルガは、弾かれたように馬車を追って走った。涙は出てこなかった。そんなことよりも、あの馬車へ追いつかなくては、呼び止めなければ、その思いで必死に足を動かした。
馬と子供の足の速さは歴然。あっという間に豆粒になった馬車は、微塵の迷いもなくそのままオルガの視界から消えていってしまった。
見えなくなっても、オルガは馬車の姿を求めて走った。どこまでも走った。木の根に足を取られて転んでも、くたくたになっても、馬車を追った。けれども、どこまで行っても馬車の姿があるわけもなく、ただただ木々が続くだけ。涙が零れた。
泣いて泣いて、声が枯れるまで泣いて、それに疲れてどうすることもできなくて、オルガは途方に暮れて周囲を見渡す。
そこは、青々と茂る緑に囲まれていた。馬車を追ったのだから、林の出口には向かっているはず。けれども、前後左右をいくら振り返ってもその光景が変わることはなく、幼いオルガは涙を拭いながら馬車の轍がかすかに残る道を当てもなく歩く。
日は暮れ始め、木々の覆う闇は濃くなるばかり。
どうしようもなく込み上げてきた嗚咽を、我慢できずに零しながら歩いていたオルガ。そんなぐちゃぐちゃな泣き顔の子供を、通りかかって見つけたのがミランダ夫人である。
ミランダは、紙を丸めたような顔でしゃくり上げているオルガを見ると、走らせていた馬車を停めた。散策の帰りだった。
この林はどこかに通じているわけではない。人が通ることは滅多になく、ましてオルガのような幼い子供ではなおさら、この場所には相応しくない。
泣きじゃくっているオルガを鬱陶しいからと馬車に乗せ、親に置き去りにされたとだけ聞き出したミランダは邸に連れ帰ったのだ。
事情を素直に説明することは憚られた。オルガは自分の力が異端であると、家族の様子から十二分に察している。ここで話しても、せっかく手を差し伸べてくれたミランダが軽蔑した眼差しを向けるだろうと思った。
けれども、オルガを捨てる理由を話すためには、その力の話もしなければならない。迷った末、オルガはしどろもどろ話すことにした。
なぜなら、ミランダは面倒臭そうな態度をしていたけれど、オルガが落ち着くのを辛抱強く待ち、幼い子供相手にきちんと聞く姿勢を崩さなかったからである。
ミランダ夫人はこのとき三十代に入ったころ。小柄な体にすっきりとした上品なドレスを纏い、亜麻色の髪を丁寧にまとめて、どう見ても位の高い貴族であることが窺えた。
その彼女が、自ら膝をついてオルガと視線を合わせて耳を傾ける。このミランダのオルガに対する接し方は、怯えて縮こまっていたオルガの胸を打った。
嗚咽をまじえながらの説明を最後まで聞くと、ミランダはちょうどよいからここに留まれと言った。
ミランダとゼネット卿の間には二人の子供がいたが、どちらも男。現在は奉公に上がっていて邸にはいない。夫であるゼネット卿とも不仲であるため、このご夫人は自由気ままに過ごしているのだそうだ。
オルガは夫人の言葉に目を見開く。驚きのあまり、涙さえぴたりと止まってしまった。
お金は有り余っているし、ミランダも気の置けない使用人たちだけでできている限られた生活に、ちょっとした刺激も欲しかったのかもしれない。
このまま外にいても、のたれ死ぬだけなのだから、子供のうちは素直に言うことを聞いておいた方がよろしくてよ? なんて呆れたように言うのに、オルガは戸惑いながらもうなずいたのである。今思うと、彼女なりにオルガのことを哀れんでくれたのだろう。
オルガが養女となることは、もちろんゼネット卿にも知らされ、公になった。
もう十年以上前のことだ。ゼネット卿は反対するのではと思っていたのだが、彼はミランダ夫人の成すことに興味を持っていない様子だった。
ミランダが連れたオルガを、ゼネット卿は頭のてっぺんからつま先まで値踏みするように眺めて、ふんと鼻を鳴らして終わり。彼に害のある話でなければどうでもよいのだろう。
むしろ、息子しかいないこの家だから、娘を養うことでどこかの家に嫁がせることができるという算段もあったと予想している。
ミランダは始めからそれをわかっていた。だからこそ、彼女の好きなようにした。
オルガにはどこへいっても通用するように、と礼儀作法を叩き込み厳しく躾けた。けれども厳しいだけでなく、楽しむことも教えた。そして、ゼネット卿のことも客観的に評価し、物事を見極める目をオルガに養う努力を怠らない。
その結果が、現在のオルガである。
ゼネット卿の狂気ともいえる絵画収集。どういった経緯で我が家にやってきたのか、それは噂に耳を傾ければ簡単に知ることができたし、オルガは進んで画廊に詰めることが多かったから貴族たちの囁く声をミランダへ持ち帰っている。
ミランダは夫の悪事に対して裁きが必要だと常々言っていた。
ただ、自らが動くには貴族の位が高すぎた。取り締まるはずの警官たちは、ゼネット卿に通じている場合も多く、逆にミランダが追い詰められてしまう可能性もある。
だからこそ、義賊として名高いトゥルバが来てくれればとため息をついていたわけだ。
盗賊トゥルバがもしいらしたら、遠慮なく全部持っていってと伝えてくださいね。そうでないと、ゼネット様にはまったく身に沁みないでしょうから。ええ、懲らしめてやらないとつけあがるばかりですもの。ただ、他の貴族たちが盗んでいくのは困りますね。騒動に巻き込まれるのは御免です。だから、オルガ。あなた暇でしたら画廊の様子をみていてくださらない?
ミランダは小柄な体を椅子に納めて上品に笑った。
二年前の、ミランダの部屋でのことである。娘一人が画廊にいたところで、役に立たなさそうなものだから随分と無茶なことを言うものだ。そのときオルガはそう思ったけれど、賢明にも口に出さずにできるだけ力になれるよう努めた。
ミランダの機嫌を損ねるといろいろと面倒なのである。
そうして、オルガは自分のおかしな力を役立てようと考え始めた。
そのためには、まず自分がその力でなにができるのか知らなくてはならなかった。幼い頃から忌み嫌ってきた力だったが、世話になっているミランダに役立つならそれもいいかと思った。
改めて意識してみると、オルガは画廊の扉を誰かが開ける前から、誰がここへ向かっているのか自然とわかったし、ふとした言葉を周りにあったものが吸収していることも多い。
崩れかけていた本の山に、お願いだから倒れないでと独り言を言ったつもりが、気付いたら綺麗に並び直っていたとか、額の傾いた絵にまっすぐ戻ってと言ったら戻っていたことなんかがその例に挙がる。
鍵をかけずにいた扉がオルガの一言でぴくりとも動かなくなったこともあったし、木苺のジャムのビンの蓋が頑なに開かなかったのが、一瞬で開いてしまったとか。まだまだいろいろとあった。
小さなことばかりだが、今まで嫌で嫌で仕方なかったこの力が、使い方を覚えるうちに悪くないかもしれないと思うようになる。周りは気持ち悪いかもしれないから、やはりミランダにしか言わなかったが。
当のミランダは、そんな力は気にすることはないと一蹴されてしまった。
この世界では不思議な力も多く存在しますから、そういうこともあるかもしれませんね。オルガ、あなたが困らないのなら、使いこなせるようになってしまえばよろしいのに。そもそも、あなた自身が不思議な人なのだから、それくらいで戸惑っていたら身が持たないのではなくて?
あっさりと言われ、そんなものかと思っていたのだけれど。
普通に生活するに支障はなかったし、返って便利に思うことも増えてきたため深く追求することはなかった。
画廊の防犯のために、絵を消してしまおうと思ったのも、単なる思い付きでしかない。
そうやって今まで、ミランダと秘密を共有しながら穏やかに過ごしてきたのである。