1 切り離された画廊
2012/05/14
こつ、こつ、こつ、と小さな少し古びた音だけがそこにあった。
何世紀も前から時を刻んでいるような時計が、正確に動く音は均等で狂いもない。
窓の外は晴れていて、鬱蒼と茂る木々の間から陽が差しているのが見える。けれども、室内は薄暗かった。
目に眩しいその光景から切り取られたような錯覚に陥るのは、ここの持つ独特な雰囲気のためかもしれない。不気味さが漂うわけではなく、ただただ落ち着いた静かな空間。
この日も変わることなく、そのしっとりとした世界に溶け込んでいった。
とある王国の、王都の外れの方に一軒の邸があった。
大富豪といわれているゼネット=オリバーレス公伯爵の邸である。
そこには国中から集めた貴重な絵画があり、卿の趣味も相俟って画廊を一般に公開しているという話は有名だった。貴族たちはこぞって彼の自慢の品を眺めに出かけたし、ゼネット卿も大きな太鼓腹を突き出すように胸を張り、新しいものを手に入れれば得意気に壁へと並べていっている。
その話をずいぶんと前から聞いてはいたが。
ようやく訪ねたゼネット卿の邸は、大層立派な佇まいで堂々たる風貌であった。大きな邸、大きな庭、鬱蒼と茂る木々たち。
画廊は邸の一角に離れとして建てられ、そこはとくに木々が森のように植栽されている。まるで、画廊だけが切り離されているかのように見えた。
入り口の前まで来ると、一層その気持ちが強くなる。街からも、邸からも、干渉をされない、そんな不思議な存在感がある。
扉をノックして一歩踏み込めば、その纏う空気を肌で感じることになりなんとも言えなかった。あんなに浮世離れしている空間はなかなかお目にかかれないだろう。
貴族の中でも有数の大富豪と言われるゼネット卿の邸であるにもかかわらず、その画廊はひっそりとした佇まいで、まるで人々に忘れられてしまいそうなほど、とてもとても静かだった。
聞き及んでいた絵画たちは、なるほど。よい作品が並べられている。有名な画家のものが多かったが、見知らぬ雅号の作品もまた悪くない趣味だ。
一枚の、睡蓮が咲き乱れる小さめの絵画の前で立ち止まり、じっと眺める。
緑と水色が基調となった絵は、知らない画家のものだが射し込む陽の光や水面の表情がやわらかく、あたたかさが胸を打つ。
「睡蓮の絵が、お気に召しましたか?」
そっと隣に人の気配がして振り返ると、一人の少女が微笑みを浮かべて絵を眺めていた。
画廊の入り口にいたはずのその娘は、ゼネット卿の邸の者だろう。この画廊に入ったときに芳名を頼まれた。見知った貴族たちの名前の羅列に、それだけこの画廊が彼らの娯楽の一環になっていることが窺える。
「この絵は、時間帯で見え方が変わるんじゃないのか?」
「ええ、よくおわかりになりましたね。こちらの作品は、窓からの陽の光の加減、天気、時間などで表情を変える、とても素敵なものでございます。早朝、日が沈むとき、雨のとき、そのときどきで見え方が違いまして、いつまでも見ていたいような、そんな絵でございます」
この絵が一番好きなので、と笑った娘。彼女は絵を眺めながら会話をする相手が、国中で指名手配されている盗賊頭のトゥルバとは知りもしないだろう。
トゥルバは、国のあちこちで貴族から金や貴重品を巻き上げる盗賊として知られている。特に、後ろ暗い貴族を相手としているため、市井の民たちの間では義賊として名高い。
予告なく現れ、カードをナイフで打ち付けて獲物と一緒に闇に紛れる盗賊トゥルバ。
暗殺者のように抜かりなく、どんな邸にも忍び込め、硬い警備も煙に巻く腕前。躍起になって警備兵たちが行方を追っているが、未だその消息は掴めず、というのが盗賊トゥルバなのである。
ゆっくりご覧になってくださいませ。やわらかく笑った娘は入り口へ戻ろうと一歩下がったが、トゥルバはまた別の絵の話を尋ねて引きとめた。裸体の娼婦が寝そべる絵、女がまるまるとした赤子を抱く絵、鮮やかな花の絵。順に見ては互いに意見を言い合った。
娘はトゥルバに付き合いことに嫌な顔もせず、むしろ嬉しそうに目を細めて知る限りの説明と、彼女の受けた印象や感想も交えて話した。
どうやら、彼女はゼネット卿の養女でオルガという名らしい。
卿に養女がいるとは聞いていない。訝しんで尋ねると、ゼネット卿の奥方が養女に迎えたが夫婦の仲が悪いらしく、オルガの存在はうやむやな扱いなのだとか。
なんてことないようにそう話し、そして貴族の娘というよりも使用人のようにここで対応しているから、貴族たちの間でもオルガの存在はあまり気に止まっていないようだ。
最後に、国王陛下お抱えの絵師であるサリヴァンの描いた絵を眺める。
女が瑞々しい林檎をもいでいる絵だ。ゼネット卿がどういうわけだかいただく運びとなったのだそうです、と苦笑を浮かべたオルガに礼を言って画廊を後にした。
貴族たちに漂う高慢なものでもなく、媚びるようなものでもない穏やかな笑みを浮かべた娘を、不思議な気持ちで眺めたのはこの日の昼のことであった。