最高の、夏休みを魅せて
都内の聖ヶ丘病院の三〇二号室は、『僕』にとってかならず訪れなければならない病室である。しかし、別に、部外者だからと入っているのではない。たとえば、ベッドクリーニングの清掃に雇われているわけでもなく、建物の調査員というわけでもない。
そこにいる、ある少女に用があるのだ。
病室に入ると、窓辺で白いカーテンが揺れていた。
ふわっとした風に僕の白衣のスソも揺れたので、流れた風を追いかけるように病室の奥へと視線を向けると、そこには指を組んだり、開いたりして退屈をもてあそんでいる女の子がいた。
年の頃は、十四才から、五才くらい。外の日差しに、肩のところまである黒髪が照り返していた。
「やあ、遊びたいのかい」
「違うわ」
窓の外側からは、夏休みの子供たちの声が聞こえてくる。彼女は、軽いケガでもしたのだろう、夏休みに入ったそんな子供の声に聞き耳を立てるのだった。耳をそばだたせる顔は、まるで、好奇心を持った猫のようだった。
本人は否定するが、退屈なようだった。
パジャマ姿の服は、もうずっと別の衣替えをしていないのを知っている。『気に入っているのだから』というのが本人談だが、愛着がある服は良いこととして…………その愛着が湧くほどの長期間の入院が、果たしてこの遊びたい盛りであろう女の子にとって、良いことなのか。僕は考えてしまう。
入院してからの生活が六年間。世間でいうと、もう高校生にもなっている時期かもしれない。まだ遊びたい盛りに病院に来て、遊び場はあじけない廊下……身長はあまり伸びていないようだ。
「背、伸びないね」
「余計よ」
ふいっと、顔を背ける。
テレビは部屋にあったが、彼女は本を読んだり、周囲の大人と会話することが多かった。そのためか、妙に反抗的で、しばしば検診を代行する『医師見習い』こと、僕に逆らうことが多かった。
「研修医さん」
「……僕の名前は研修医じゃなくて、賀修院だよ。いい加減覚えてほしいものだが」
「分かったわ。研修医さん」
冗談半分、本気が半分の顔でうなずく。
真っ直ぐ人の目を見て嘘がつけるところが、この子の悪いくせだと看護士の誰かが言っていた気がする。長く病室で過ごしていたためか、からかうことが多くて、大人でも手を焼くとか。
彼女がこの病院に来たのは六年前らしい。僕が来たのは一年と半年前で、彼女からすると新顔の部類に入る。
その頃は廊下で遊んでいた彼女を見て『あんな大きな子が、ボール遊びしているのか』と妙な印象をもったものだ。彼女のほうも、他の医者たちとは違って、若い男が来たことで驚いた顔をして、病室に引っ込んで出てこなくなった。彼女は病院の廊下などで遊ぶうちに、いつしか家のように過ごすようになったという。
『――やあ。僕がどんな人間か、当ててみてごらん』
『知っているわ。研修医よ』
おや、とその当時驚いたのは、彼女の情報の広さだった。
僕が翌日に挨拶に行ったときは、すでに知っていた。彼女がここで過ごすうちに、話し相手をしたり、接する医師たちが家族のように思うようになったそうだ。そこから情報が来ている。
『まぁ、よろしく頼むよ』と僕は、この病院では古参だという奇妙な相手に、気さくに挨拶をすることにした。何事も人間関係は潤滑油のようにスムーズに、の精神である。
挨拶ついでに、『何か欲しいものあれば聞いておくよ。せっかくだし』と僕は話していた。簡単に院内のコンビニや、喫茶店のテイクアウト、遊び道具にトランプなどがほしくなった場合、ついでに買ってくるつもりだった。『どんな大きなモノでもいいの?』と目を輝かせた彼女に、僕は『あんまり大きいモノだと、大変だから。でも一回きりだね』とだけ返事しておいた。難病を抱える患者さんを励ます気持だった。
僕は医師の資格を取るとき、一つだけ覚えさせられていることがあった。それは、大先生のお言葉である。
医術界の権威であり、僕の師でもある大先生によると、患者の病気を治すのは『気持ち』ということである。患者を明るい気持にすれば、病気が良い方向に治癒してゆくというのである。「医術はあくまで『外側』」といい、投薬と同じで、『われわれにそれ以上の仕事ができはしない』と彼は断ずる。
からだの免疫が、そして自分が、自身のからだを治癒してゆくのである。
『なにか、欲しいものはある?』
そういった僕の言葉には、深い意味も、気持はなかった。
少しだけ励まそうとしたのである。
それを、彼女が根深く、ずっと覚えておくとは思いもよらなかったが。
「欲しいものの話。覚えてる?」
「モチロンさ。来週、手術だそうだね」
「……知っているのね」
僕がそういうと、彼女はうなずいた。
来週は手術があるらしい。欲しいものがあるのなら最後の機会になるかもしれない。そう言った僕に、彼女は深く頷くと、
「なんでも、いいのね?」
「……まあ、限度があるけど」
駆け出しの医師見習いに、過分なお給料の施しがあったり、福利厚生があるだなんて思わないほうが良い。日本はそこまで優しくない。
限度はある。
ちなみに、今月の僕は医学書を買って、家計がカツカツだ。
「…………高い買い物とか、フェラーリがほしい、なんて冗談は勘弁してくれよ? 冗談にしても胃に悪い。胃を壊すなんて医師見習い失格だ。絵画もナシ、月の土地契約書がほしいなんてのもナシだ。そういうのが出た瞬間、テレビからの悪影響をうけたものとして院長―――大先生に報告するからね」
「うん。言わないわ」
……おい、妙に素直だな。
瞳を輝かせ出した彼女を見て、その素直さから嫌な予感がしてくる。僕の冗談にツッコミを入れるわけでもなく、何か別のことを考えている顔なのだ。
「ずっと、『欲しいもの』を考えていたの。約束だったし」
「う、うむ」
「変なお兄さんだから。私と会話したがらない看護士さんもいたし、かまってくれるお医者さんたちでも『欲しいもの』とか聞かないわ。だって、会話するまでが仕事だから」
そして、決意したように病室のベッドを漁った。
尻を向け、ごそごそ。枕の下に、冬眠前のリスのようにいろいろとモノを溜め込んでいるらしい。これは前から看護士さんから注意されていた悪い癖で、ベッドの環境が悪くなるし、洗い替えの時に困るというのが主な理由だったが……彼女の反論では『いいでしょう、これくらい』といい、『入院のときの楽しみは夢、その世界の広がり』だけといい、『人は夢の中にまでモノを持ち込めない。だから、枕の下のモノを持っていくのだ』という、どこの本で読みかじったか分からない知識で抵抗していた。
そして、
「――予定が、ようやく出来上がったの」
「うん。……ん? 予定かい?」
「計画よ」
そう言って、彼女は広げるのだった。付箋だらけの乱雑なノートを。
「お出かけ。旅行。大遠征。人生で、一度はやっておきたいこと。その『やりたいことリスト』だよ」
*
バカ者、というのが第一声だった。
……そりゃそうだ、誰でもそうなる。と、大先生(院長)を招いた、医師たちの会議に僕は出頭を命じられていた。いや、もう、こりゃ裁判かな。
「どうして、そうなった」
申し訳ございません、の体勢のまま、白衣を折り曲げていた僕に頭上から声がかる。
大先生の質問に、僕は今までに会話したあらかたの経緯を白状していた。さすがに、患者に話しかける日常会話などを咎められはしなかったが、問題なのは彼女が乗り気になった『欲しいもの』―――いや、その具体性を伴う、『やりたいことリスト』の存在だった。
「見せてみなさい」
「は、はい。といっても、彼女に許可を得て持ってきた範囲ですが」
僕は渋々、といった感じで提出した。
どれどれ、と彼女のかかりつけの医師たちがそれをのぞきこみ、一様に黙った。
数分の沈黙。
しかし。それは、決して批判する沈黙ではなかった。
いや、むしろ、
「……。これは」
一人の医師が、思わず、といった口調で呻いた。
それは、一人の女の子が夢見るには、あまりにも『僅か』すぎる願いだったからだ。駅前で買い物がしたい、海を見てみたい、遠く田舎にいる祖父母の家に遊びに行きたい。……読み進めるうちに、医師は何かの感情で顔が曇った。
「これは、いや。……こんなことでもやりたいこと、か」
「……」
「やりたいことリスト。欲しいもの、か」
「……」
「賀修院くん」
「……はい」
僕は、顔を上げる。
瞑目する大先生――院長の顔があった。最近では老眼のため、また眼鏡を新しくしている。まぶしいシルバーの縁の眼鏡の奥では、すこしふさぎ込むようにして言葉を含み、そして声を漏らした。
「この子が、来週手術するのは知っているね」
「はい」
言えないことに踏み込むのかもしれない。
僕は緊張した。研修医が事前に聞かされていいのは、その日程だけだった。
「難しい……とても、難しい手術だ。臓器を扱う。難病のことだ。大事な器官にもメスを入れるし、もし、成功したら……おそらく、見違えるほどに快癒するだろう。しかし、もし。可能性としての『もしも』の場合は……、おそらく。彼女は話をすることができなくなるだろう。彼女の余命を縮めてしまうことにもなる。いや、確実に縮めてしまうだろう」
医師だ。
分かっている。そのリスクも、重さも、重々承知していた。『僕』が分かった、なんて大した口をきくことはできなかった。身分が違う。先生方は、それこそ、何百、何千もの患者さんたちを見てきて、その深刻な病状と向き合ってきている。戦ってきた。
医療業界の定めだ。
ことが重大なだけに責任問題も発生する。僕は彼女の様子から、うすうすは深刻さに気づいていた。だから、表情ほどに大きくは驚かない。そういうものだ、と知っているもの悲しさがあった。
「説明は、これで十分か」
「……。はい」
「……どうして、君に。『リスト』のことを言ったのだろうな」
「分かりません。本当に」
研修医である僕は、悲しげに首を振った。
分からない。本当に。
他に、もっといい相談相手がいたはずだ。家族でもいいし、友人でもいい。まだ入院する前の学校のクラスメイトでも、連絡を取れば着てくれる人がいるはずだった。
なのに、なぜ。
指を組んだ医師は、そんな僕を同じ困った顔で見ていた。
「ただ、私はこれをいい機会だと受け止める。賀修院くん。患者を治すのは希望だ。前向きな気持だ。手術が難しくなればなるほど、患者のその前向きな希望が生命線となる。冗談ではなく、本当に手術の行方を左右するのだ。私はそれで、何名もの患者の力に、救われてきた」
「……。はい」
「決して、無理はさせられないが……。だが、無理をしない。という条件付きなら、私にも考えがある」
院長の言葉に、僕は思わず顔を上げた。
希望が出てきたのを感じたのだ。他の医師に咳払いを受け、さらに別の医師は考えるように唸っている。全ては、大先生の意向次第だった。
医療での判断ミスは、病院の責任に帰属する。
だが、
「彼女のご両親に、伝えてみることにするよ」
*
「すごーい。カモメが飛んでいるわ」
病室から離れて。
水平線に白い鳥が羽ばたく光景を見て、その女の子は手を伸ばしていた。実に六年ぶりとなった病室の外に、興奮が隠せない表情だった。
「『カモメのエサやり』……か。なんでまた、やりたいことリストの最初が『海で鳥のエサやり』なんだ?」
「だって、生き物でしょう?」
僕は、目を丸くした。
彼女の言ったことが、一瞬、分からなかったからだ。
「大きな鳥だもん」
「……? それが?」
「実際に飛んでいるなんて、信じられなかった。翼を広げて、どうやってあの胴体を浮かせているのかしら。白いわ。何で白いのかしら。青空の下で、どれだけ色が違うのか分からないわ」
振り返った彼女は、微笑んでいる。
どうやら『テレビで見たことがある』そうだ。
「テレビで、見たのに?」
「テレビや本の図鑑は、それだけで『知識』を与えてくれるわ。でも、本当に自分の手で触れて、肌を通して感じる空気感ってあるじゃない? この潮っぽい風がそうだわ。服を重たくする湿気がある。それなのに、肌はじりじりと真夏の太陽を浴びて焦げてて、暑くて、そして私が手を広げるくらい大きな鳥が飛んでいるのよ。本とは違う。知識とは違う、生で触れられる感触。上を見上げれば、鳥型の日陰が見えちゃうくらい」
「あ、申し訳ない。暑かったのかな」
「そうじゃないわ」
僕が大先生からの『無理をさせるな』という指令を思い出していると、その慌てた様子に『違う』という顔をする。
「まじめ。よくないわ。働き過ぎの日本人。今でもパラソルで日陰を作ることばかり仕事にしているし」
「悪かったね。仕事なんだ。それじゃあ、君の家族と来てみたらよかったじゃないか」
「お父さんたちは」
と、そこだけ少女の顔に戻り、視線をわずかに下げた。
「いい人。とても、いい人だと思うわ――」手にしていたエサの袋(観光案内所で100円で購入した)をごそごそと漁って、青空と海に放った。
白い群生が、飛び交いながらまた空に飛翔する。
「相談したら、たぶん来てくれるけど……。いい人だからこそ、心配をかけたくないの」
「遠慮、か。別に気にしなくても良いと思うけどね」
余計と知りつつ、言ってみる。
――いい人、か。
たぶん、頼りにはしているんだろうな。
しかし、その言葉は家族を表わすものとは、少し違っているような気がした。家族は、いい人ではない。ケンカもするし、怒ったりもする。愛情ばかりではなく、時には煙たくもなる存在だ。人間、そうできている。
彼女の入院生活は長かった。
ケンカするまで、家族の絆について深くは踏み込めていなかったのかもしれない。いい人過ぎたし、彼女も『良い子』すぎたのだろう。たぶん。
「迷惑。かけられないか」
「……。そう」
「一度、腹を割って話してみたらいいんじゃないかな。誰しも悪いところはあるよ。嫌なことだって。でも、それを乗り越えて、話し合ってこその家族みたいなところもあるし」
「研修医さんの家も、そうなの?」
「……。いーや。よく考えたら、親父たちとそこまで腹を割ってないかも。あの馬鹿親父め、僕が『外科』に進みたいって言ったら、怒りやがって」
「ぷっ」
ふと、自分のことに置きかえて複雑な表情をした。いろいろ思い出してしまう。まず、父親とケンカしたこと。半ば勘当同然で、家を出たこと。思い出したら怒りが蘇ってきた。 そんな我が身に置きかえた僕に、彼女は思わず噴き出して、
「ひどい顔」
「なに」
「とても、将来有望な、未来の名医の顔じゃないわ」
「……。悪かったね。僕は、まだ将来もあって大望もある研修医だ」
「ダメな研修医」
「うるさい」
苦し紛れに言うと、その子はのぞきこんきた。
まるで、低年齢のケンカだった。
それから彼女は、スッキリとした顔をした。
ふと、風に舞い上がったカモメたちが一気に押し寄せてきた。驚いたが、どうやら彼女が取り落としたエサの袋が、防波堤から海に転げたらしい。慌ててパラソルを拾って撤収すると、振り返って彼女は、その慌てかたが自分でも可笑しかったのか笑った。
そして、ふと真面目な顔になった。
「『リスト』、まだまだあるわ」
「……だね。覚悟しているよ。このためにお休みを返上したんだしね。これも世のため人のため、立派な医者になるためだ。修行だと思って頑張ることにする。そのかわり、体調が悪くなったら、すぐに教えてくれよ」
「うん」
頷いてから、スソを払って立ち上がった。
防波堤の青空の下で見る彼女は、病院の狭い天井で外ばかりを眺めていた彼女とは、いくぶんか顔つきが違っていた。晴れ晴れと輝いて見える。
「研修医さん」
ふと、そう呼ばれたので僕は「ん?」と振り返った。
笑顔がこちらを見ている。
「――最高の、夏休みを魅せて」
*
そのあとで、いくつかのリストを消化していった。
「――遊園地?」
「うん。大型アミューズメントパークの、その海外から流れてきた園内売りのプレッツェルとか、チュロスが食べたかったの」
「……か、変わった子だねぇ」
普通、こういう場合はアトラクションじゃないのか。
もし。もしもの話しだが、アトラクションだったと仮定して、それに『乗りたい』なんて言った日には僕も、かかりつけの医師も、大先生も仰天で止めに入ったに違いない。だから『遊園地』というのは、ある種の禁足地だった。
だが、目的がアトラクションではなく、その遊園地のお店で売っている食事ときたら、断るわけにはいかない。
何せ、休日の家族サービスの代行。父親的な役回りなのだから。
「次は、…………コンビニ巡り? なんだそりゃ。院内にあっただろ?」
「あれは違うわ。研修医さんは何も分かっていない。全国にあるコンビニチェーンは熱いの。その品揃えもPB商品も全部違っていて、個性豊さや、レパートリーが多いの。それを知らなかったら、若者っていえないわ。研修医さん」
「そ、そうなの?」
「熟知していないと恥なのよ、恥」
「は、恥。ですか」
「うん。女子高生にモテない」
そうまで言われると、仕方ない。
別に、僕は女子高生にモテたくはない。……だが、入院患者にその層がいると仮定して、医者になった僕が知らないのはマズい。話が合わないのも。
仕方なく、本当に仕方なく。僕は、その市場調査のためにチェーンへ店へと向かった。ノートと筆記具を用意して。
「……やる気満々ね」
「そんな事はないぞ。僕は、完璧を目指すんだ」
僕らは、都内の最も激戦区とうたわれている、その大通りへとレンタカーを走らせた。コンビニに乗り込み、親子には微妙に見えない二人組が、紙と筆記具をつかって熱心に書き込んでみる。
その図を見て、心配した店員さんが、奥に消えた。次に出てきた時には店長を連れていた。『うちの店に、何か?』と。怪訝そうに尋ねられる。
どうも、同経営の監査や、競合企業の偵察だと勘違いを受けたらしい。
「いえ」
「私たちは、ただ見ていただけなので」
逃げるように、店を転がり出る。
それから、
「次のリストは……犬?」
「盲導犬。飼い主に捨てられたり、親を亡くしたわんちゃんたちが、また世の中の役に立って戻れるようにする教育施設があるの。そのために、チャリティー募金の活動が大事になってくるのよ。リストに書いたわ」
「それはいいけど……チャリティー募金って何? ……まさか集めるのか?」
「うん。」
うん。
ではない。問題は、その内容のことだ。
「街角で?」
「そう」
「僕も?」
「当然でしょう、あなたも医者なんだから」
……医者は関係ないと思うが。
そう不満顔を見せると、彼女は『コホン』と咳払い。「いい?」と前置きをしてから、「江戸時代の昔から、医術は仁術と決まっています」と指を立てた。
……なかなかに、難しい言葉を知っているな。あと、今の時代そんな風習とっくに廃れている。
僕の不満は、真夏の風を前に消えてしまった。
仕方がない。
炎天下の街角、街路樹のかげになる駅前の場所で僕らは募金箱を持った。僕は彼女を労らなければならない任務があったため、涼しげな街路樹の影を彼女に譲って、僕自身は炎天下の下に立った。
「……焼けて、翌日真っ黒になったらどうしよう」
「似合うわ。健康的なお医者さんも素敵よ」
「……どうも」
若干、皮肉にも聞こえる。
僕らは活動をしてから、ボランティアの人に募金箱を預けて退散した。
最後に、自分のポケットから千円札。彼女も百円玉。なんだか、こうして募金の活動をしていると、その千円の重みが身につまされる。……手放したくない。そんな衝動と、もっと日々お金を大事に使って生きよう。そんな感傷がしみじみ。
僕はベンチで休んだ。
「そろそろ、終わりが見えてきたね」
「……うん。」
休息。日差しの少ない木陰のベンチに座って、ジュースを手にする彼女がうつむいていた。少し寂しそうに見えるのは、気のせいか。
リストには多くの線が引かれていた。実は、あれ以外にも裏でこなしてきたのだ。
「一日が終わるのは早い。――けどね」
僕は、遠くを長めながら。
でも、ベンチ横の少女の顔が、寂しそうに見えてしまうから言った。
「……日が暮れてしまうのと同じくらい、また次の『楽しい』があるさ。人生ってそんなもんだろう? また。きっと次がある。惜しむんじゃなく。また楽しみにすればいいのさ。明日を踏む勇気だって大切だ」
「……次が、あるか分からなくても?」
「あるさ」
きっとある。
僕は強調した。この一日で、育った気持がある。彼女がこのまま『病室の中で終わってほしくない』という気持だ。『たった一日』だけでも、こんなに楽しめたのだ。彼女がその気になれば、もっと未来は広がる。
最後じゃない。
この素直で、少し変わった子が、このまま『楽しい』を見失ってしまうなんて、そんなの神様が許さないはずだ。
だから、
「思い詰めないで、信じるんだ」
「……。うん」
僕の断言に、珍しくその子は頷いていた。
それから、
「最後に、行ってみたい場所はあるかい?」
「それは。考えてあるわ」
リストの続きを示すように、彼女は次のページをめくっていた。最終段階だ。指さしたそこが、最後の目的地になるだろう。
指し示した、そこは、
*
「まぁ、これは。これは」
僕らが敷居を踏むと、その驚いた顔が出迎えてくれた。
実家だ。
といっても、僕がよく知る、病院に来院されるご両親の家ではない。その、もっと先の、ご先祖様側の『祖父母』の実家であった。
遠路はるばる、といった調子で腰をかがめてくれたのは、人の良さそうなお祖母さん。こちらは、髪に白が混じり始めている。お座敷の上のお祖父さんは、髪の毛が真っ白になっていた。
どちらも、医学の観点から『骨格と血色がよく』と判断できる。まだ、丈夫に長生きされるだろう、と推察することができた。
ホッとする僕は、
「――聖ヶ丘病院からきました、賀修院です」
「まぁ。これは。ご丁寧に」
挨拶をした。
こういう時ばかりは、両親の躾に感謝である。『聖ヶ丘病院』の代表として、品を損なう振る舞いはできない。
今の僕は、付き添いの医師であり、大先生の代理でもある。
「立派なご先生で」
「医者じゃない。研修医よ」
「……ぐ。」
しれっと、僕の横で顔を出す患者がひとり。
ひたいに青筋を浮かべる僕を、取り澄ました顔で『シラを切りとおす』少女がいた。こういう場合、研修医の名を出すのはまずいのではなかろうか。
「――でも、とても立派な人」と、彼女は付け加えた。驚いて振り返る僕に、彼女は横をすり抜けて座敷に上がってしまった。
「――お邪魔します。お婆ちゃん、少しだけ家にいてもいい?」
「ええ。ええ、構いませんけど、急にどうしたの?」
「色々あって」
それから、待つ。
どうやら、彼女が立ち寄った用件は『手術を前に、挨拶をする』ということらしかった。僕が案内されたのは、和室と畳ばかりがある古民家の一室で、所在なく周囲を見回してしまっていた。
旅の荷物やらお土産に囲まれながら、一緒に荷物にでもなった気分だった。
一間空いて、部屋の向こうからは、久しぶりに再会した祖父母と孫の談笑が聞こえてくる。
六年越しの、家族の団らんの声といったところか。
(……実に、六年ぶりの実家か)
そう思うと、感慨深かった。
人の魂は、いつか、その生まれついた故郷の家と土地に帰るという。古い読み物の言葉を借りるとそうだが、実際に自分が目にしてみると、妙な懐かしさに溢れていた。
住む土地も、水も。
すべて人の魂に記憶され、先祖からの土地に安息を感じるという。帰れば居心地が良いし、見知った〝懐かしさ〟に包まれながら過ごすと、次の手術に向けた勇気も少しだけ与えられるのかもしれない。
人と再会し、話し、時を過ごす。というのは、それだけ大事なことだった。
温もりも違う。話す内容も、自然と花が咲く。
病院では体調のことばかりの会話でも、実家では違う。
だから、一室向こう側から聞こえてくる彼女の声は、どこか明るくて、嬉しそうなのかもしれない。祖父母から可愛がられる普通の少女そのものだった。
そこには、ごく何気ない、『当たり前』があふれていた。
(……来て、よかったな)
僕は、そう感じた。
何を話すのだろう。
どう、話したら良いのだろう。
きっと、ぎこちない会話も、時が立つほどに氷解して普段通りになるはずだった。じっと、彼女の気が済むまで。その失った時間を少しでも取り戻せたらいいと思って待った。僕は、そのために車を走らせてきたのだ。
この感情は、決して、『哀れみ』でも、『同情』でもなかった。
病室で患者をみる、あの哀れみにも似た感情ではなかった。じめじめと、湿るような『同情心』など失礼だと思っていた。
それは、『役に立ちたい』とこの一日で彼女と行動して、分かるようになった気持だった。
「……先生、ありがとうございます」
ふと。
顔を上げた。
思考の空白から抜け出した。すでに、周囲の日が暮れている。一時間たったのか。僕の眼前に、彼女のお祖母さんの顔があった。
「え、えっと」
「うちの孫娘から話を聞きました。ずいぶんと、お世話になったみたいで」
話しが落ち着いたんだろう。
実家の祖父母さんが、僕に向けて孫を見るような微笑を送っていた。
「話をずっと聞きました。病院の時から、ずっとワガママにお付き合いして頂いたみたいで。孫も、じゅうぶん楽しかったようです。先生のおかげだって。とても、生き生きと話すんですよ」
「そ。そうでしたか」
その顔は、実家に到着したばかりの、あの時とは違っていた。
微笑ましく。本心から歓迎するような、緊張のとけた表情である。『病院の関係者』としてではなく、もっと別の、僕の立場を見てくれていた。
「孫は言いました」
「な、なんて」
「『……いい、〝お友達〟ができた』って」
「あっ」と。
その、言葉だった。
僕は目を見開く。
僕の胸の奥底にあった、形にならない感情。とても温かくて、心配で、気を抜けば放っておけなくて、でも気が置けなくて。
そんな、関係を。
僕は探していた。どういう言葉で表現したらいいか。
年も違っていた。考え方も、性別も違っていた。だが、その気持と合致した。疑問が氷解し、溶けて、優しく染みこんでくる錯覚を覚える。
……そう、友達。
友達だった。
「最高の夏休みが送れたみたいです。この子が、ずっと望んでいた」
「……」
僕は思わず、その祖父母の後ろ側に立っている少女に目を向けた。その子は、ちょっと所在なさげに口を尖らせ、それから横顔を向けていた。
頬が、恥ずかしそうに朱を帯びている。
ああ、そういうことか。と思った。
家族じゃいけない。
看護士や、医師でもいけない。
彼女が求めていた『リスト』の中身が、何となく分かったような気がしたのだ。
一緒に旅をした。会話も増えた――。海で鳥に襲われたし、テーマパークのチュロスを食べた。募金箱を抱えては医者らしくないと言われたりもした。最初は医者でも、白衣に袖を通している人間でも、病院側の付属品でも。今は違っていた。
『最高の夏休み』を過ごしたい。
そのための条件。
彼女が願いを叶えるために、求めたのは、きっと。
――最高の夏休みに合う、最高の〝友達〟だったのだ。
「うん」
僕は、誰に頷くわけでもなく、祖父母さんの話を聞いて笑っていた。
そう。
――友達だ。
心の中で、向こうの彼女に強く頷いていた。
*
「いつまでニヤついているの。先生?」
裏手の墓地に来て。
夏草と鈴虫の声を聞きながら、夜を歩いていた。
一歩あるくたびに、草むらの虫の音が警戒したように止んでいく。そんな田舎の織りなす情景を歩きながら、僕は会話をしていた。
「友達だ」
「……」
からかうように言うと、黙ってしまった。
彼女が言うには、「さっきは、不覚を取った」という。どうも、先ほどの祖父母ざんたちからの情報は『言ってはダメな情報』だったらしい。
「いい祖父母さんじゃないか」
「後悔しているわ」
それだけを言って、歩みを進める。
僕はそんなに恥ずかしがることないと思うのだが、この病室で時間を過ごしてきた気むずかしい患者さんにとっては、大問題らしかった。気持を伝えるのが下手で、人との関係を築くのが苦手なのかもしれない。
まあ、これくらいにしておくか。
あまりからかっても、患者と医者(見習い)の関係上は、よろしくない。そろそろ、仲直りと関係の修復に努めるとしよう。
僕は、ここに来た目的に水を向ける。
「お墓にお参りする、って言ってたよね」
「そう。……帰る前に、ご先祖様にご挨拶をしなくちゃって。それが『リスト』の一番最後なの」
「渋いね。古風なのかな」
「……そう? 大事なことだと思うけど」
それに関しては、同意見だ。
僕は考えていた。来週はどうなるかも分からない手術が控えている。その前に、人として、最後の挨拶に向かう。
それが、『リスト』の最後なのだろう。
自分が動けるうちの、最後に。
「……」
「……、きっと」
「?」
「……きっと、大丈夫だ」
立派なお墓がある。
この年代物の石碑が、彼女のご先祖様が入っているお墓なのだろう。手を合わせる彼女に、僕は強く頷いた。
「……大丈夫だ。辛いこと多いかもしれない。当たり前だ、それが人生なんだから。でも、僕は乗り越えられると思うよ。君は、強いから」
「……」
「成功する。きっと」
僕は言葉を紡いだ。
精神を吐露して、友達を見た。
……手術はきっと、難しいだろう。それは分かる。当然だ、あの大先生が難しいと判断するのだから。
でも、患者を治すのは精神力だ。
治癒するため。僕らに残されたのは、その本人の生命力を信じて、手伝うことしかできなかった。だから、拳を握るのだ。
大丈夫だ。
そう、強く信じて。
だが、
「……分からない」
「えっ?」
「実を言うと。怖さが、止まらないの。これが最後かもしれない。そう思うと、『リスト』を進めるのが途中から怖くなって。手が震えて……。みんな、私が旅立っても怖くないように、付き合ってくれている。手術のために」
息をついた。
すがるような、その儚い瞳が見上げてくる。
「私、死ぬのかな?」
「違う」
「いいえ。私が、助からないって……みんな、思ってる」
最初から怖くて仕方なかった、と。
僕は、言われてやっと彼女の顔に気がついた。
怯えている。
その目を見て、気づいた。
(……この、大馬鹿ヤロウ)
心の中で、自分を殴りたくなった。
怖かったのだ。最初から。
やりたいことリスト――そうじゃない、違う。『やりたいこと』ではなく、『やっておきたかったこと』のリストだ。
なんで、最初から気づいてあげられなかったのか。
人は最後に、遺言を残す。最後と知っているからだ。覚悟を示すためにする。少女の場合は、まだ人生で『やりたかった』ことがあった。だから、中身がおかしかった。変だったのだ。
普通の女の子のように、家族に連れられて『海で鳥にエサやり』をしたかった。普通に登校する学生のように、日常の中に溶け込む買い物をしたかった。
実家に来て、ご先祖様に挨拶した。
それは。
最後の、覚悟があるから。ではないのか。
「……一つ」
大丈夫。
そんな、安い一つだけの言葉で、背中を押していいわけがなかった。
「お願いがある。治療のため。あと、君のために。言いたいことがある。一つだけ、許可してもらえないか」
「……? なに?」
首をかしげる少女。それを前に。
すぅ、と。
僕は空気を肺に吸い込んだ。
言う。――言うぞ、と気合いを込めて。
「叱らせてくれ。―――そんなわけが、あるか!」
びくっと。
病室では見たことのない、彼女の怯えた顔が揺れる。
「見ただろう。僕は君のことをずっと信じて『リスト』を一緒にやってきた。見ただろう、僕や大先生たちは、君の治す力を信じて、ずっと戦ってきた!」
「……」
「僕は君と『夏休み』を過ごしてきた。いろいろ行ったさ。遊園地にも行ったし、都内も回った。募金だって一緒にしたよな。ああ。面倒くさい子だと思っていたさ。でも、同じくらい、影で『良い子』だなあってずっと感心していたよ。白状するけどね! 友達だって言ってもらったとき、実はすごい嬉しかったんだ!」
「え」
「だから――。こんな女の子、意地でも死なせてやるもんかって思ったよ。もっと医師を信じてくれ。もっと僕らを頼ってくれ。意地でも最後になんてしてたまるもんか! 君はまだまだ生きて、もっと広い世界を見て回って、『最高の夏休み』を作っていくんだ。今まで以上にね。だから、『リスト』を最後の締めになんかしない。リストが、終わってたまるもんか」
僕は、医師になる人間だ。
こんな患者を、救うための医師だ。
僕は彼女が大事そうに抱えている『リスト』――その大学ノートサイズのページをめくると、中身を書き込んだ。昼間にコンビニに立ち寄ったときから、筆記具を収納し忘れてポケットに突っ込んだままにしてある。
ペンを動かした。
最後のページに。まだ書かれていない、最後の最後のページに、文字を刻んだ。
「『――また、最高の夏休みにする』。約束だ」
「……!」
「夏は、一度きりじゃない」
話す。
心底から出てくる、僕の信念だった。
「また、やってくるのが、夏なんだ。 ―――今度は、普通の景色を見よう。お祭りでも見て、日本の夏を普通の人たちよりもいっぱいに楽しもう。病院の仲間たちも誘おう。大先生だって、無理やりにでも連れだそう。堅物のあの人たちに、射的をやらせてやろう」
「…………」
「金魚でも釣ろう。大丈夫だ、大先生ならきっとやってくれる。もし、手術で悪化したら? 失敗しても、絶対に僕が治してやる。ずっとずっと勉強して、今よりも猛勉強して知識を身につけ、どんな難病でも僕が必ず治してみせる。医学界の権威にでも、なんでもなってね。『医術は、仁術』――だろ?」
医療は、光りだ。
患者に、美しい風景を見せるのが、医学だ。
僕は信じる。この子みたいな人を、直すのが―――医療なんだ。
「頼む」
「……」
「僕たち医師を信じてくれ。『友達』を……信じてくれ。この夏を一度きりにはさせない。だから、また、リストを片手に出かけよう。旅をしよう」
何でもない、日常を。
取り戻すため。彼女と、そして僕ら医師たちが……一緒になって、その生命力を信じて治していくのだ。
僕が返したノートのページに。
「……、な、治る?」
「ああ。治す」
治るではなく、治す。
これが、僕の今の本心だった。
キッパリとした、断言だった。
「治す。何も心配しなくてもいい。僕らが、治す」
「私と。また、出かけてくれる……?」
「出かける。約束だ」
指を出した。
小指を出す。こういう時、友達同士だったなら、すぐに察せられるジェスチャーだった。だが、彼女はとっさのことに驚き、また、病院での生活が長かったためにどういう反応をしていいか、一瞬遅れた。
でも。
それも少しのことで、
「や、約束」
「ああ」
どんな言葉よりも固く、強い言葉で。
僕らは交わした。
頷いた。
一度。それから、強く、もう一度。
彼女は――
しばらく、口を噤んでいた。しかし、何よりも確かな、その抱えている『リスト』を握りしめて、瞳を輝かせていた。
今は頼りないかもしれない――。でも、その顔には僅かながら、希望はあった。今まで見えてこなかったものが見えて、なかったものを信じるようになった。それが確かに結ばれたのは、腕の中のノートだった。
明日を見る。
今までよりも、強く、明るい希望の光として。
*
病院の長い廊下で、僕は落ち着かない時間を送っていた。
手術が行われている。
見上げると、手術の赤いランプが点灯している。何もできないもどかしさと、今の自分の姿が苛立ってしまう。時間が長い。もう、すでに室内に人数が消えて、三時間が経とうとしていた。
家族も、いる。
病院の看護師さんたちも、空いた時間を見つけて。そこに。
飲み物をすすめられた。だが、断った。今は何をする気も起きず、廊下の先のランプばかりが気になった。あの実家帰りから、すでに五日という時間が流れている。リストの旅の甲斐があって、彼女の直前の精神は安定しているそうであった。
やがて、ランプが緑色になる。
その場にいる、人数が一斉に立ち上がった。
*
それからの話は、後日談になる。
六年後。僕は聖ヶ丘病院の医師として勤務することになった。実に六年ぶりの話である。時間が経過しすぎているような気もするが、『ローマは一日にしてならず』のことわざ通り、一朝一夕に物事は進まない。
一つずつ。
でも、真剣に歩みを進めていた。
猛勉強もしたし医学会にも出席した。最先端の医療を学ぶためドイツに渡ったりもした。その成果もあって、僕は大先生が引退したあとの聖ヶ丘病院に、僕は一人前の医師として迎えられることになった。名誉なことだった。
元から希望していた病院であり、白衣に袖を通すのも、ある種の感慨があった。資格も違うし、首にかけた証明書も、昔と違う。紐の色も上の地位のものへと変わっていた。見慣れない看護師さん(……おそらく、あの後に採用された新しい方だろう)に案内され、真っ先に見て回ったのは例の病室だった。
「空室だね」
「はい。個室ですし。元々空いてましたから。少し前に、風変わりなお爺さんが入院されていたのですが、短期間でした」
思い出したのか、看護師が笑った。
そうかい、と僕は愛想笑いを返しながら、がらんとしてしまった寂しい病室を見回す。
設備は変わらない。
テレビの位置も、カーテンの色なども。まだまだ現役だ。
ベッドの手すりに手をかけてみると、老朽化かメッキが落ちそうなところを発見した。これは、後々報告する対象だな、とチェックする。
ときおり、ふわりと吹く風に、窓際の白いカーテンが揺れた気がして、僕は目を上げた。見えもしない、ある少女の、外を見てふて腐れる幻影が見えた気がした。
「……? どうなさいました?」
「いや。なんでも」
苦笑する僕に、不思議そうな視線が注がれる。
あまり続けていては変人だと思われかねないので、僕は『コホン』と咳払い。それから預かった患者さんのカルテに目を通す。診察室に歩みを進めた。「そうでした、先生」と随伴してくれた看護師は、
「――お荷物をお預かりしていたものは、診察室までお運びしております。……けど、何ですか? あの『リスト』って書かれたノート? 机の上に置かせていただいてますが、古くなって黄色に変わっていますけど」
と、カルテとは別の資料に興味を示したようだ。
僕は頷き、
「あれは、預かり物だよ」
「預かり物、でしょうか?」
「そう。昔、預かったとても大事なもの。ちょっと厄介で、なくしたら怒られるんだよ。とても面倒なことになる」
「へえ」
ますます、興味を引いたみたいだ。
それから歩く僕と看護師の前に、別の看護師が走ってきた。どうも、診察の時間が近づいてきたらしい。普段はお年寄りばかりを診察するというこの病院には、新しい医師が来たということで『どれ、その青二才とやらを見てやろう』と値踏みでもするような患者さんもいるみたいだ。
今日も例に漏れず、朝から受付に患者さんが並んでいた。
すると、
「珍しい患者さんがこられています」
「へえ」
だから――、だろうか。
その、珍しい患者が来たとき、妙に人目を引いてしまったのは。
「――先生に、会うのだって別の病院からこられています。でも、不思議なんです。どこも悪そうには見えなくて。それに、大先生の紹介状をもっておられます。あの医学界の引退された権威の……何者なのでしょうか」
「ああ。来たのか」
「え」
困惑した顔で、看護師は首を傾げた。
どうも、厄介な珍客がきたらしい。他の患者の受付が始まる前の、空いた時間を使って会ってくれということで、診察室に通されているのだという。
であれば、例のノートは見ているだろう。
机の上に置いたそうだから。
「早く。……と申されていまして。外見は、とても綺麗な子ですよ。大学生くらいで。でも、案内されなくても部屋と廊下が分かっているみたいで。なにか、特別なオーラがあって。ずっと先生を待っておられます」
「それは、困った患者さんだな」
僕は噴き出して、歩みをすすめた。
白く清潔な診察室。
そこに、カーテンを背に座っている人がいた。
「やあ。僕は忙しいんだけどね」
「―― 一分と三十秒、遅刻ですよ。先生」
相変わらず、元気な患者さんだな。
僕はシルバーの腕時計を見せた、その患者と再開する。僕が医師になった時、聖ケ丘病院に再診すると約束をしていたのだ。しかし、彼女はもう元の患者という身分ではない。
「もう、春休みなのかい?」
「はい。覚悟してくださいね。猛勉強して、先生に負けない――医学界の権威になってみせますから」
そういえば、もう医大の春休みに入った、なんて便りが来ていたな。僕は彼女の頼もしい姿を見つつ、来年の姿も想像していた。
「『研修医』に、なるんだね」
「ええ。今度は、私が人を治す番です」
机の上。目をやる。ボロボロの最後のページ。
そこには、……『いつか、病院のみんなで。夏休みを』と。一行だけ書かれていた。
「では、一つだけ」
「?」
僕は、コホンと咳払いをした。表情を作る。
「―――退院、おめでとう」