序/夏/憧憬
楽しんでくれれば幸いです。
序/夏/憧憬
「この刀は然るべき者が使えば血の如き紋様がその刀身に浮かび上がると言われている。代々、此処に伝えられている刀だ」
遠い夢。遠い記憶。日の高い、熱く陽炎の立ち昇る頃。鬱蒼と茂った広葉樹林の中にある大きな社。そこにあるのは一本の刀。
——刀はいつから此処にあるんですか?
「さてなぁ。儂が生まれた頃には既にあった。儂の祖父に此処に連れてきてもらって話を聞いたよ。祖父の生まれた頃にも既に刀はあったらしいなぁ」
社の中、眉間に深いシワを刻んだ男の背後、静謐な空間に一際異彩を放つ物。 長い刀だ。優美な反りを描く刀身は厚めで、身幅は並みの刀と大差ない。色は重々しい鈍色。社の中の静けさは、まるで刀が全ての音を吸い込んでるみたいだ。濡れるように微かに引かれた刃文が冷たい煌めきを放つ。是が命を断つ物の冷たさか。
——それはどんな風に輝くのですか?
純粋な好奇心から放たれた言葉。鏡を見たのなら目を輝かせていたかもしれない。
「それが儂もこの刀の紋様を見たことがない。祖父もそうだ。儂はこの刀には相応しくはなかったのかもしれんな」
悔恨のような呟き。どこか名残惜しそうに男は言った。
——師匠、じゃあどうすればその刀に相応しくなれますか?
羨望と期待に満ちた若い声。師が果たせなかった夢を継ぎたいのか、或いはこれが英雄の持つ聖剣に見えていたのか。
「そうだなぁ。この刀に相応しくありたいのなら他人を護れる広い器の人間になれ。そうすれば刀もお前の器を認めるだろうさ」
他人を護れる人間になれ。それは常から人に優しくあるように説いていた、唯の男の願いだったのかもしれない。いや、伝承自体が曖昧で多くの伝承と同じくこの話も例に漏れず教訓のようなものだったのだろうか。真偽は分からないが、此処で生まれた者は皆そう伝え聞き育っていったのだろう。どちらにせよ、語る本人は単なる造り話だと思っていたかもしれない。だが、夢見る少年に取ってそれは英雄を導く賢者の託す預言に等しかった。
——分かった。人を護れる立派な人間になるよ。そして、師匠にもこの刀の輝きを見せてあげる。
「そうか、それは楽しみだ。お前ならきっとこの刀に相応しくなれるだろう」
男はまた名残惜しそうに、しかし、何処か満足そうに言った。目の前の少年がずっと続いてきた夢を継いでくれることが嬉しかったのだろう。あるいは幼い頃の自分を少年に重ねていたのかもしれない。この先の人生、彼に良きものになって欲しいとそう願っていたに違いない。
だが、昔のことだ。もう本当のところは分からない。じき夢は終わりを迎えるだろう。
最後に男は言った。
「強くなれ」
それが二人で交わした最期の言葉だった