第三話 かけがえのないオモヒデ
今日は五時間目までで授業は終わりである。帰りのホームルームも特に連絡事項はなかった。あとは清掃活動をして解散となる。それはつまり、私が病院へ行かなければならないタイムリミットまであと僅かであることを示していた。この掃除の時間のうちに、なんとか記憶を思い出さねばなるまい。でなければ、あの道化師の謎は解けないままになってしまうだろう。
各自が清掃場所へ向かう中、ルミが話しかけてきた。
「サキの清掃当番は昇降口だから私とは別になっちゃうけど、大丈夫?」
私は「もちろん!」とばかりにサムズアップを返す。この無言プレイにも少し慣れてきた気がする。かつての私もこんな風に楽しんでいたのだろうか。嫌な慣れだけど。
「実は私、病院には付き添えないんだ。生徒会の雑用があるからさ。ごめんね」
私は手を横に振って「気にしないで」とアピールした。
それに私には秘策がある。私は制服の胸ポケットから、一枚のノートの切れ端を取り出してルミに見せた。
「何これ?……おぉ、これなら記憶が戻るきっかけができるかもね」
私はエッヘンと胸を張った。
「やっぱりサキは変わらないなぁ」
「?」
首を傾げる私にルミは言った。
「そういう変なことには頭が回るところ」
ルミと別れた私が昇降口に向かうと、すでに他の当番の子たちが掃除を始めていた。できれば手伝った方がいいんだろうけれど、背に腹は代えられない。というか、私は普段ちゃんと掃除をしていたんだろうか。みんなが私の到着を待たずに始めてるあたり、怪しいな。
私は床ホウキを持っている子に近付いて、さっきの紙切れを見せつけた。自分で言うのもあれだけど、これってテレビで見た無言の銀行強盗みたいだ。「静かにしろ」って書いた紙を銀行員に見せるやつ。でも私がしているのは「脅迫」ではない。「お願い」である。
「どしたのサッキー? これを読めって? どれどれ……『私は記憶を失い、言葉もでなくなりました。私の過去の出来事を教えて下さい』……? これはまた突拍子もない設定だな」
そこに他の子たちが話に加わってきた。
「あれじゃない? ピアノマンに影響されたんでしょー?」
「なにそれ?」
「一昔前にイギリスの海岸で記憶喪失で発見された男の人なんだけどねー、言葉も話せなくてお医者さんも困ったらしいんだけど、紙と鉛筆を渡したらピアノの絵を描いたのさ。それでピアノを弾かせたら、これが上手だったんだってー。それで世界中で話題になったの。知らない?」
「知らねー。その時って、私たち生まれてる?」
「うっそー、知らないの? 一年の朝比奈さんは知ってたんだけどなー」
「その話は置いといて。とにかくサッキーは昔話が知りたいと。いいじゃん、聞かせてあげようじゃないか。サッキーの武勇伝の数々を!」
彼女はニヤッと笑ってそう言った。何か企んでいそうな悪い顔に見えるのは気のせいだろうか。
「手始めはあれかな、一年の時の書道の授業の話かな」
「え、なにその話。私その時クラス違ってたから知らなーい。教えてー!」
「フフフ、その授業でね、ルミの完成した半紙に男子がイタズラ書きをしたのさ。そしたら、それを見たサッキーの心に正義感の火が付いた。颯爽とその男子の前に立つと、両手に掴んだ墨汁を頭からぶちまけてやったのさ」
「おおっ、カッコイー!」
おいおい、私そんなことまでしてたんかいっ!
「これだけじゃあない。生徒会選挙の時も大暴れだったでしょ?」
でしょうね。何をしていたとしても驚くまい。
「それは覚えてるー。選挙期間中は大張り切りだったよねー」
「しかも自分の選挙活動なんてしてなかったからね」
「そうそう。毎朝昇降口でルミちゃんのビラ配りをやってたよねー。ホントに仲が良いんだから、お二人さんは」
そう言われてしまうと、記憶はないけれど、私もさすがに照れる。
「んで、極めつけは音楽の授業で替え歌してた話だよね」
「そうそう、『愛しのルミエール』だっけ。『ルミエール』のところを『カマンベール』とかに替えて、サッキーが大声で歌ってたなー。最後には先生も替え歌してたし」
「愛が重いとはまさにこのことだね」
愛が重い? 替え歌を歌っただけなのに?
その時、背後に視線を感じた。思わず振り向くと、道化師の影が手前の下駄箱の向こうに隠れるのを感じた。本能的に体が動いた。下駄箱の裏側へと走る。
「あれ? サッキーどこ行っちゃうの?」
「これからが面白いところだったのにー」
「やっぱり意地悪しすぎたかな」
道化師の影が消えたのは、私たちのクラスの下駄箱がある方だった。辺りを見回すが、道化師の姿はない。勘違いだったのだろうか。そう思った瞬間、下駄箱の扉が一つ開いているのが目に留まった。その闇の中に、何かが浮かんでいる。そうだ、あの道化師の不気味な笑顔だ。
今まさに、扉は閉じようとしていた。このまま行かせてなるものかと、私は右手を伸ばす。この機会を逃したら、もうその姿を見つけることはできないかもしれないのだ。しかし時既に遅し。私の手が届くよりも早く、道化師は扉の向こうに消えてしまった。
その下駄箱の前に立ち尽くしながら、私は確信した。
「やっと見つけた、私の記憶」
※本作品はフィクションであり、実在する人物などとは一切関係ありません。