あなたは私を嫌っていたに違いない
子供たちは泣き疲れて眠ったようだ。まったく、私には訳の分からないことだ。いや、王女については分かるのだ。何といってもあなたはあの子の母親なのだから。
だが、息子が泣くのが分からない。あなたと息子は血が繋がっていないばかりか、あの子の実の母を殺したのはあなたではないか。国のため、私のためだとあなたは言った。だが私は知っている。あなたは彼女を、あの子の実母を憎み妬んでいたではないか。
私が息子に構おうとするとあなたにいつも叱られたな。娘をないがしろにするな、子供は分け隔てなく扱えと。今なら言えるが、私にも言い分があったのだ。父母が揃った娘と、なさぬ仲のあなたを母と呼ぶ息子と。息子の方を哀れに思うのは当然ではないか。あれは、私なりの贖罪だったのだよ。
あなたのすることは、平凡な私などには計り知れないことだった。彼女から息子を奪ったのは、せいぜいあなた自身の子を授かるまでの慰みと思っていたのだが。娘が生まれてなおあの子を手元に置いたのは、王妃の矜持、というやつなのだろうか。夫の、王のものは全てあなたが支配する、という。
あの子をなだめるのは大変だったよ。お母様のところに行くのだと聞かなくて。実際にここに来ていたらあなたは嫌な顔をしたに違いないだろうに。あなたはよく躾けたものだ。それともあの子自身の性質なのかな。そうだ、実の母親に似て優しく愚かなのだろう。
彼女は優しく、ひたすら愚かだった。自分が何をしているのか、自分の行いが何を招くかも分からないほど。悪意など一切なくあれほどの悪を為せるとは、見ていて空恐ろしい思いがしたものだ。
私だって分かっていたさ。彼女を放っておけば国が乱れると。私だとてあなたが思っていたほど愚かではないのだ。ただ、彼女と一緒に死ぬことになるなら悪くないと思っていただけのこと。
彼女は私にとって特別な存在だった。何しろ私をまともに相手にしてくれたのは彼女くらいだったからな。あなたが気づいていたかは知らないが、この国とあなたの国では王の意味が違うのだ。ここでは、王とは民と貴族の傀儡、ひたすら他者の顔色を窺い中庸を行く、都合の良い器に過ぎない。父も祖父もそうだった。
あなたの父上や兄上のように、まつろわぬ者を容赦なく処断できたらどれほど心が晴れたことだろう。しかし、それは私自身に死を命じることに他ならない。私はそういう形で死に臨むことは、どうしてもできなかった。あなたと違って私は弱い人間だから。
それでも最初はあなたと上手くやっていきたいと思っていた、と言ったら驚くだろうか。信じてもらえないだろうが、私の心からの願いだった。
王家に生まれたからには国のために望まぬ結婚をするものと諦めてきた。言葉の通じない幼女だろうと、どんな醜女や老婆であろうと耐えなければならぬ、とね。
それが、婚礼の日に初めて出会ったあなたは美しくて凛々しくて。私を知らなかったからではあるだろうが、微笑みかけてさえくれた。あの時は、あなたを妻にできる幸運と引き換えならば、この地位の不自由さも当然のことだと思ったものだ。
だが、喜びはすぐに恐れに変わった。
私の本性を知ったらあなたはきっと幻滅するだろう、呆れと軽蔑の目で見られるだろう、と。あなたを政から遠ざけたのは何もあなたを疎んだからではなかったのだよ。貴族どもが権力を手放したらなかったのはもちろんだし、私にやつらとやり合う力がないのは確かではあったが。だが、私としても夫が臣下の意のままに操られる姿など見せたくなかったのだ。そんなつまらない見栄など、あなたは見透かしていたのだろうが。
やがてあなたを避けるようになった私をどうか悪く思わないでおくれ。自身の無能を知ってはいても、妻に責められるのに耐えられるかどうかはまた別の話なのだ。民草が私をどう嘲ろうと知らないふりをすることはできるが、あなたの冷たい瞳はひどく恐ろしく私を苛んだのだよ。
そうやって避けていたからだろうか。私はあなたの本当の笑顔を見たことがないと思う。
陳腐な贈り物も拙い愛の言葉もあなたを喜ばせることはできなかった。あなたのための宝石も衣装も離宮も。私が考えつく程度のことなどあなたには何の目新しさもなかっただろう。何よりそれらが美しく輝くのは職人の技があってこそ。命じただけの私の手柄ではないのだから。
金や銀でなくても良い。木彫りの髪飾りや、自ら狩った鳥の羽でこしらえた帽子や扇。私にそんな技があったなら、自信を持ってあなたに接することができただろうか。恥じ入ることなく贈り物をすることができただろうか。市井の一介の職人であったなら、私はそう悪い夫とは言われないと思うのだが。いや、それならばあなたには見向きもされないか。
あなたが欲しかったのはただ一つ。臣下を従え、国民に敬われる、強く聡明な王。そんな男の妻に、あなたはなりたかったに違いない。
あなたの不幸はすべて私の至らなさゆえのことだ。本当に、申し訳ないと思っている。
だが、結局のところ、私は王の器ではなかったのだ。
あなたは喩えるなら大空を舞う鷲だった。翼は力強く羽ばたき、鋭い嘴で容赦なく軽々と獲物を引き裂く空の王者だ。対して私は、小汚い雀といったところか。泥と藁をこねた巣に住まい、地を跳ね回ってこぼれた穀物をついばむのが精々の哀れな生きものだ。私にとって空とは自由に遊ぶものではなく、それこそ猛禽に怯えながら渡るものなのだ。雀が天の高みに上るとしたら、それは鷲の鉤爪にかかった時だろう。
雀と鷲はつがいにはなれない。雀が鷲の羽をまとったところで元の姿は変わらないのだ。自惚れて舞い上がった瞬間に借り物の羽は抜け落ちて、鷲や鷹、石や矢の標的になってしまう。
私にも分かっていたことが、どうしてあなたに分からなかったのだろう。あなたの進言はいつも私を震え上がらせた。物陰に隠れる小鳥を、なぜ明るみに引き出そうとするのだろう。一度注目を集めれば無残に引き裂かれるだけと分かりきっていたのに。
あるいはあなたは分かっていたのか? 分かった上で、分不相応にもあなたの夫を名乗る者を破滅に導こうとしたのだろうか。……ここに至って惚けても益はないな。認めなければなるまい。あなたは私を嫌っていたに違いない。
そう、あなたは私を嫌っていたに違いない。だからこそ、もう愛されようなどと望んではならないと思ったのだ。
あなたに何かしてあげられないかと考えていたときに出会ったのが彼女だった。彼女こそ私に似合いの小鳥、愚かで浅はかな、けれど愛しい女性だった。
彼女に会って初めて王の気分というものが分かった気がしたよ。
あなたや並みの男が相手ではいつも言葉の裏を考えてしまう。表面は笑っていても、その実私を侮っているのだろうと思うと、礼を尽くされてもまったく嬉しくはなかった。いかに豪華であろうと、道化の衣装を着せられて喜ぶことなどできるものか。
彼女には、だが、驚くべきことに裏がなかった。何も疑わず、何も憎まず。私が何を言おうと頷いて感激してくれた。彼女の夫があんなことになってからも。正直、あのことで私は彼女にも嫌われてしまったと思ったのだが。あなたは知っているかな。あの男は大層あなたに心酔していた。あの男と私と、立場が逆ならうまくいっただろうに、世の中というものはままならないものだな。
彼女と過ごすのは楽しかった。何ら気負いを感じることはなかったからね。あの濡れたようにきらきらと輝く瞳は、子犬のようで可愛かった。あなたに話したことはないと思うが、私は子供の頃に子犬を育てたことがある。手ずから餌をやって、夜は同じ寝台で寝て。可愛がってやったのに、猟犬として躾けられたら人を選んで命令を聞くようになった。私は人より先に犬に裏切られたのだ。だから私は狩りが嫌いになったのだが、彼女にはそうした小賢しさはまったくなかった。無償の愛とはこういうものかと心が洗われる気がしたものだ。
天の使いが地に落ちたとしたらきっと彼女の姿をしているに違いない。あなたがよく言っていたとおり、神とは愚かなもののために造られたものだから。それに仕えるものも同じく愚かで無垢でなければならないだろう。
それに、あなたと違って彼女を喜ばせることはとても簡単だった。野に咲く花、変わった形の石、青い鳥の羽根。あなたに差し出したら侮辱になるに違いないが、彼女は無邪気に受け取ってくれた。私が選んだことが大事なのだと言って。この国であれほど私を敬ってくれる者は、後にも先にもいないだろう。そんな価値などない男なのにね。まったく、知らないということは幸せなことだ。
あなたが彼女のようであったら良いと、何度思ったことか。それなら幸せな夫婦になれただろうに。どうしようもなく愚かならその分だけ、あなたを守ろうと思えただろうに。
いや、それはあなたに失礼だな。私の方こそ彼女程度が相応しい男だったのだ。
彼女に目をかけたのは、最初はままごとのようなものだった。こんな私でも一人前に愛されることがあるのだと、ただそこにいるだけで偉ぶることができるのだと、世間にありふれた夫の振りがしたかったのだ。
だが、権や富を狙う者どもは彼女よりも狡猾で、あなたよりも恥知らずだった。
彼女の周りに人が集まったのも無理はない。私相手ではそれなりに形式をつけて手順を踏まなければならないところ、彼女を通せばいともたやすく国の財を掠め取ることができたのだから。
地位も身分もある者たちがこぞって、ただの女に追従する様は呆れるほどに馬鹿馬鹿しかった。私が軽んじられるのは今更のことだったが、そのようなことをいつまでも続けられる道理などないではないか。この身は愚者ばかりの国の王だと、改めて思い知らされたよ。
実際、あなたは後にあの者たちも厳しく罰したな。私には何もしなかったのが意外なほどだ。そうと知らずに手を貸した彼女でさえ死を命じられなければならなかったのなら、知っていて見過ごした私は永遠に劫火に焼かれるべきだろうに。
彼女と同じくらい無知だと思われていたなら心外だ。私はあなたに何をされても仕方がないと思い定めていたのだよ。
私は悟ったのだ。賢王と呼ばれる道は険しく恐ろしい。かといって一生を傀儡に甘んじるにはささやかな矜持が許さない。しかし、可愛い彼女と和やかに過ごすうちに終わりの時が訪れるなら。甘い夢を見ながら息絶えることができたなら。それなら私にもできると思ったのだ。
それはあなたのためでもある。わざわざ妹を嫁がせた国が痩せ細るのを、義兄上は決して許すまい。実のところ、私はあなたが愛想を尽かしてくれるのをずっと待っていたのだ。義兄上を、あなたの故国の軍を呼んでくれた時にはやっと来たかと思ったものだが。
あなたは不出来な夫から解放されて、尊敬すべき義兄上の元に帰れる。あなたの国には、王でなくてもあなたに相応しい男がいくらでもいるだろう。一方、私は屈辱と蔑みにまみれた生から解放される。王など誰がなっても大差ないものだし、彼女も――きっとその方が彼女のためだったろう。いずれ自分の罪に気付く日が来たら、彼女には耐えられなかったに違いないのだから。無垢なままで逝った方が幸せだろう。
それが、どうしてこうなったのだろう。本当に、あなたのすることは私には分からないことばかりだ。
義兄上が軍を動かしながら単なる脅しに止めたのは、あなたの願いによるものだったのだろう? 私に報復する良い機会だったろうに、なぜ私の命を見逃したのだ? 彼女が魔女と呼ばれて殺されるのを見せつけて、私の無力を思い知らせようということだったのだろうか。
それなら大変な無駄をしたものだ。私は全て分かっていたのに。分かった上で、あなたを束縛した罰を受けようと思っていたのに。私が生きている限り、あなたは私に、少なくとも形の上では従わなければならないではないか。あなたは自身で王になりたいとは思わなかったのか? それよりも私に屈辱を与え続ける方を選んだのだろうか。それほどまでに、私は嫌われていたのだろうか。
彼女を見送っても私の人生はさして変わらなかった。相変わらず臣下や民の機嫌を窺い、あなたに怯えて生きてきた。
あなたの振る舞いも相変わらずで、多くの者から悪意と憎しみを買っていたな。正論というのは正しければ正しいほど耳に痛いもの。ましてあなたは言葉も物腰も強すぎる。あなたは気にもかけていないようだったが。
私はあなたの強さがいずれ身を滅ぼさないかと案じていたよ。結局何もすることができなかったが。政についての見識であなたに敵うはずもないからね。あなたを止めたくても、何と言えば良いか分からなかったのだ。それに、強く賢いあなたが私の助けを必要としていたはずがない。彼女のことがあったから尚更、あなたが私の言葉に耳を傾けるとは思えなかった。
あなたが身ごもった時には自重を覚えてくれるかもしれないと思ったが、あなたは変わらなかった。子供たちよりも国のことを優先するとは、やはりあなたこそ王の器を持つ人だと、改めて思ったものだった。
娘が生まれて、ほどなくして二度目の懐妊に恵まれて。その時には私はずっとこれが続くのだと思い込んでいた。国のことはやる気のある者が取り仕切れば良い。目に余る者はあなたが手を下してくれるだろう。仮に王の責を問われるようなことがまた起きれば、その時こそ喜んで命を差し出そうと。
あなたは良くやってくれた。二人目の子は王子だった。待望の世継ぎだ。王妃としてこれ以上の誉れはない。もはやあなたを謗ることなど誰にもできはしない。
なのに、なぜあなたは子供を抱いてあげない? なぜ目を開かない? お産は無事に済んだと聞いた翌日に、なぜあなたは旅立った? 一度ならず、あなたは命を狙うものを捕らえて裁いてきたではないか。身重だからこそ、いつも以上に身辺に気を配っていたはずではないか。
義兄上からは祝辞と弔辞が同時に届いた。ご自身ではいらっしゃらないということだ。
これは、見逃してくれるということなのだろうな。あなたの血を引いた子を世継ぎにするならあなたの死の詳細は問わない、という。事故死でも病死でも、こうはいかなかっただろう。あなたは全て分かっていたのか? 分かった上でこの時に死ぬことを受け入れたのか? 私をあなたから自由にするために。義兄上の刃から私を逃がすために。
そんなことはありえない。だが、あなたが卑しい貴族どもに遅れをとるとも考えにくい。
あなたは一体私に何を求めていたのだ?
ああ、やっと口に出して聞くことができた。
今となってはもっと前に聞いておかなければならなかったのだろうが。あなたの瞳に私の情けない姿が映っているのを見ると恥ずかしくて恐ろしくて、何も言えなくなってしまったのだ。
誰に聞いても納得の答えをくれはしまい。それはあなたと共に葬られるのだ。一生悩み続ければ良い、という、あなたの呪いなのかもしれないな。それならそれで良い。あなたがくれるものなら何でも、私は感謝して受け取ろう。それだけの心を割いてくれたことが私には過分のことだから。
空が白んできた。もう夜明けか。彼女が旅立った日と同じ、雲一つない空になりそうだ。どういう訳か乾いている私の目のようではないか。代わりに天だけでも陰ってくれれば葬儀の日に相応しかったのにね。
すまないがそろそろ行かなければならぬ。あなたを相手にこれほど長く語ったのは初めてだな。遅すぎではあるが、あなたの前で心を明かすことができて、少しは気が軽くなったよ。
静かな朝だろう。ここは王宮深く、石の壁に閉ざされているから当たり前だが、市井も同じ静けさだと聞いた。国母の死を悼んでいるのだ。あなたを疎んだ者たちでさえ、国を上げてあなたの喪に服すのを止められなかった。私が奴らを黙らせた。あなたに何もしてあげられなかった私だから、せめて見送りの時には心残りのないようにしたかったのだ。
あなたのために民が集うのはこれで二度目だ。一度目は婚礼の時。次の機会がこんなに早いとは誰が想像したことだろう。
大丈夫、傀儡は傀儡らしくもっともらしい寡夫の姿を演じて見せよう。今までずっとやってきたこととさして変わらない。娘と息子たちのためにも、この先も息を潜めて生きていこう。
彼女が死んだ時も涙を流さなかった私だ。あなたがいなくなったところで私の人生は変わらない。
多分。