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橋の上から

作者: まったりorz

 ざわめく夏の風が、雑草の生い茂る河原を吹き抜ける。

 年季が入って白ばんだ橋の下、私は強い夏の陽差しを避けるように、その影に身を隠す。カンカン、と川に架かる橋を人が通る度に、乾いた音が響く。たまに通る自動車が、埃っぽい空気を土手の上から撒き散らしいて、その走り去る音と共に、どこかから聞こえてくる子供のふざけあう笑い声が、ぼんやりと耳に届いた。

 何の変哲もないごく普通の風景の中に、私は居た。流れる川は相変わらず綺麗とは言い難く、うす黒く濁っている。この町に下水が通ってないからだ。濃い緑を陽に反射させる雑草の隙間隙間にも、空き缶やら、煙草の吸殻が当然のように埋まっていて、あぁこれが現実なのだ、と実感させられる。それでも、私の記憶の中で、この河原は美しい思い出の一部だった。


【橋の上から】


 小学校が終わると、私はいつも二つ上の兄と駆け足でその橋を渡った。その橋に名前はない。それは、鉄道橋と自動車も通れる道路橋の間に挟まれたところにぽつりとある、人や自転車がやっと通れるくらいの小さなものだったから。ただ私たちはそれが水色に塗られていたから、水色橋と勝手に呼んでいた。

 水色橋を越えた所に、圭ちゃんは微笑んで立っている。圭ちゃんは兄と同級生の気弱で優しい男の子だった。どれだけ外で遊んでも日焼けを知らない真っ白な肌と、黒く揺れる、でも真っ直ぐな瞳を持つ男の子。体は兄よりもずっと小さくて、周りからは私と同い年だとしばしば間違われた。

 私たちはいつも三人一緒で遊んだ。町での遊び場といったら小さな公園くらいしかなくて、滑り台や鉄棒に飽きてからはいつもこの河原で遊んだ。川の水は汚くて入れたもんじゃあなかったけれど、ブラックバスが沢山住み着いていて、それを釣って遊んだ。

 泥臭い魚が、水面からきらきらと水を跳ねる度、圭ちゃんは、

「すごいや、また釣れたね」

と女の子のように優しく微笑んだ。


 釣りに飽きると、石を投げて遊んだ。何が面白いのか、橋の上から石を投げて、それが川に大きな飛沫をあげてポチャンと落ちるたびに、けらけらと笑った。それにも飽きると今度は河原に生えた草や花を両手いっぱいに摘んで、橋の上から落とした。真っ黒な川に、はらはらと色鮮やかな緑が散り散りに浮かぶのも、風の中をふわふわ舞うのも、美しく楽しかった。圭ちゃんは、黒水晶のような目をじっと見開いて、川の上をゆっくりと流れていく葉っぱを、真っ直ぐな目で追った。

「綺麗だねぇ」

まるで、キラキラした玩具の宝石を愛でる少女のように、その瞳は輝いていた。


 圭ちゃんは、見た目に違わず、気性も女の子のようだった。木の棒を振り回してチャンバラごっこをしたり、草の上で転げまわってプロレスごっこをするのは嫌がった。男まさりの私と、やんちゃ盛りの兄がふとした事から取っ組み合いのケンカになった時なんて、ほろほろと泣きべそをかいて

「ダメだよ、怪我しちゃうよ」

なんて、おろおろした。


 こんな事もあった。

 初夏も近いある夕暮れ、私たちは草をかきわけてバッタを捕っていた。圭ちゃんも土まみれになりながら、ぴょんぴょんと逃げ回るバッタを追った。沢山のバッタが集まった頃、虫を捕まえるだけじゃ満足出来なかった兄は、子供特有のある残酷さを持った無邪気さで言った。


「こいつら、川に流そうぜ」


 私も無邪気に賛成した。圭ちゃんは、不安気にそれを見た。兄が、ばたつく足を掴んで川へと一匹放りなげる。私も川岸のコンクリートにしゃがんで、一匹川へと落とす。

 

 水の上で、鮮やかな黄緑がびくついて、もがいている。その度に水面に波紋が出来て、夕陽を受けて赤く光る。しばらくして、バッタは動かなくなってそのまま流れていった。


「圭も投げてみろよ。どっちが長く浮いてられるか競争しようぜ」


 兄は、新しい遊びに目を輝かせながらそう言った。圭ちゃんはぐっと口を曲げて、


「そんなの嫌だよ。かわいそうだよ」


と、兄の腕を掴む。一生懸命追いかけているうちに、バッタに愛着でも持ったのだろうか。きゅっと小さな手で、バッタを入れている青いプラスチックの虫かごのフタを押さえている。


「いいじゃん。また捕まえてやるからさ」


 兄は、ひょいと簡単に、圭ちゃんの腕を上げた。圭ちゃんは、でも……と蚊の鳴くような小さな声で言ったけれど、一度言い出したら聞かない兄の急かすような瞳の色に、諦めたように、おずおずと従った。


「ほらっ、いっせーの!」


 兄の掛け声と同時に、私たちはそれぞれバッタを投げた。私と兄のバッタは、川の真ん中辺りに落ちた。圭ちゃんのだけは、川岸に近い、足元のすぐ下の水面へと落とされた。圭ちゃんは乱暴にバッタを投げたり出来なかったのだろう。遠くに落ちたバッタよりも、近くにあるものの方が、どうなるかよく見えるから、私たち三人はざらざらしたコンクリートのヘリに顎をくっつけるようにして、それに見入った。

 西日を受けた濁った水は、むわりと嫌な臭いがする。バッタは汚水に濡れた羽を中途半端に開きながら、バタバタともがいた。必死に20センチくらい先の距離にある、コンクリートの壁に掴まろうとしているのか。小さな命が必死にもがく。じっと見入っていたけれど、間近で一つの命が生きようとする様を見て、幼いながらに罪悪感がわいてきて、私たちは黙り込んでしまっていた。

 いよいよ堪えられなくなったのか、圭ちゃんはそのバッタに必死に救いの手を伸ばした。瞳にいっぱい涙をためて、頬は赤く染まっている。でも子供の手の長さなんて知れたもので、水面にはどんなに手を伸ばしたって届かない。見かねた兄が

「これを使えよ」

と、落ちていた木の棒切れを渡す。棒切れの先は、水面に届いたけれど、バッタは思うようにそれにつかまってくれない。棒の先が体に当たると暴れまわって、私はもどかしさに爪を噛んだ。すると圭ちゃんは何を思ったのか、上体を起こして、ぎゅっと目をつぶると足から川へ飛び降りた。唖然とした私と兄は、生臭い飛沫が顔を直撃するまで一体何が起きたか解らなかった。

 バッタを助けようしたのだろう。でも、もともと運動が得意じゃない圭ちゃんが、プールとは勝手の違う汚れた川に順応出来るわけもなく、彼もバッタのように足掻く羽目になった。その度に、水がうるさく跳ねて、その飛沫の間に、苦しそうな圭ちゃんの顔が濡れた髪に隠れるように揺れる。 

 私たちも動転しきってしまって、おろおろと泣き叫ぶことしか出来なかった。この突然の事故は、丁度犬の散歩をしていたおじさんが運良く泣き喚く私たちに気付いて、事なきを得た。それでも、汚れた水を沢山飲んだからか、びしょ濡れになってしまったからか、圭ちゃんは一週間寝込んだけれど。



 それ以来、三人で遊ぶ事はぱったりとなくなった。兄は、同級生の色の黒い、騒がしい男の子達とサッカーや野球をして遊ぶようになっていた。それは、圭ちゃんが川に落ちた原因を作ってしまった事で、自分を責めていたからだ。そんな兄の気持ちを、その時まだ幼かった私が、知る由もなかった。


 圭ちゃんは、私の隣にいつもいる兄がいないと寂しそうに笑った。私は初めのうちは、無邪気に

「お兄ちゃんは、他の友達とサッカーするんだって」

と報告していたけど、圭ちゃんがその度に悲しそうな顔をするから、

「私、お兄ちゃんとケンカ中なの。だから一人で来たの」

と意味もない言い訳をするようになってしまった。

 親に厳しく禁止されていたけれど、私たちは懲りずに河原で遊んでいた。人に見つからないように、水色橋の下の支柱の影で。三人で遊んでいたよりも静かな時間が流れた。それは、とりとめもない会話や、石を並べて遊んだりで、いよいよする事がなくなると、ただ名も無い草を結んで川に流したりした。

 西日が赤く変わりはじめると、もうする事もなくなって、ただ川面が光を受けて染まるのだけを眺めた。川を見つめる圭ちゃんの瞳も、夕陽の色に染まっている。どこまでも澄み切った湖の底のような瞳は寂しげに輝いた。空気がオレンジを帯びると、その真っ直ぐな双眼は、触れたら溶けてしまう繊細な氷細工のように儚く思えた。私はいつもその瞳を見ると、何か自分にはまだわからない、すごく純粋な夢のような世界に迷い込んだ気持ちになった。


 

 夏の日は静かに足早に流れ去った。いつものように、土手を駆け下りると橋の下にぽつりと寂し気な圭ちゃんの背中があった。私は、何がそんなに圭ちゃんを寂しくさせるのか解らなかった。


「圭ちゃんは、寂しいの?」

「そう見える?」

「うん。何だか寂しそうだよ」

「寂しい、のかな……うん、多分寂しいんだ」

「どうして?」

「自分の居る場所がないような気がする」


 圭ちゃんは、そう言って微笑んだ。それからふと目をそらして、一輪の花火のような形をした草を摘んだ。


「蚊帳釣り草だよ。蚊帳釣りをしよう」


 私が首を傾げると、圭ちゃんはその草の茎を少しねじって


「ここをね、ひっぱってみて」


 言われるままに、茎の端を引っ張る。圭ちゃんも、その茎の端を一緒に引っ張る。すると黄緑の小さな四角い「蚊帳」の形になる。


「面白いねぇ。もう一つ作ろう」


 私は、新しい遊びに目を輝かして強請った。圭ちゃんは笑って、蚊帳釣り草をもうひとつ手折った。そうやって、何度も蚊帳釣り遊びをした。


「圭ちゃんは、私の事好き?」

 蚊帳釣り草を指先で弄びながら、私は不意にそんな事をきいた。圭ちゃんは少し驚いた顔をしたけれど、それからすぐに微笑んだ。

「好きだよ」

 そんな質問をしたのは、最近、私のクラスで、少女漫画が流行っていたからだ。それで十歳になったばかりだというのに、少しませた事を覚えた私は、

「他の友達よりも?私が一番?」

とたて続けに尋ねる。圭ちゃんは、少しはにかんで、

「そうだよ」

と言う。私は嬉しくなって溢れんばかりの笑顔と共にこう言った。

「じゃあ、寂しくなっちゃだめだよ。一番好きな人と居るのが、一番良いんだよ」

 圭ちゃんは、それを聞いて、そうだね、と笑った。



 春、圭ちゃんは小学校を卒業して、遠いところにある私立の中学校へと行った。大抵の子供は地元の中学に進学するから、それは私にとって思いがけない別れになった。寮に入ってしまったから、一緒に遊んだりは勿論出来ない。私は、その別れがとても悲しかった。悲しくて、裏切られたような気持ちになって、たまに来る手紙にも、目を通しても返事を出さなかった。手紙もやがて来なくなった。


 五年の月日が過ぎ、圭ちゃんとの思い出が美しく懐かしいものに変わった頃、圭ちゃんが死んだ。自殺だか事故だか分からない。薬をいっぱい飲んでの、中毒死だった。

 私は、ぼんやりとした思い出の幻影が、鮮烈に蘇ってくるのを感じた。圭ちゃんが死んだ。私の中で、圭ちゃんは川原で優しく微笑んだままだった。真っ直ぐで、どこか寂しい色の瞳で。


 それは夏の日だった。悲しいのか、寂しいのか、それとも悔しいのか、わからないまま、私はそれが自分の任務であるかのように、毎日川原へ行った。圭ちゃんの姿はもちろん無い。それでも毎日、じっと水色橋の下に座って、川を見つめた。そこには、圭ちゃんの幻影があった。寂しそうに微笑む澄んだ瞳が、透明な空気の中に見えたのだ。




 そして、私は今日もこの橋の下で、彼の瞳にじっと見入っている。幼い頃に惹きこまれたように。幻でもいい。ぼんやりと浮かぶそれは、陽炎のようにぼやけている。けれども、どこまでも深い黒い瞳だけは、はっきりと存在を誇示している。

 ……純粋だったのだ、彼は。だから、現実の世界には存在できなかったんだ。儚く光る氷細工は、夏の風に溶かされてしまったのだ。私は、哀しい瞳だけになった、彼の幻影を見つめて、そう思った。

 思い出に浸りながら、蚊帳釣り草を手折る。一人では、上手く茎を裂く事は出来なくて。諦めて、川へと放った。圭ちゃんの瞳は、寂しそうに、ずっと私を見つめている。

 さぁっと風が吹き抜けて、一面の雑草たちが揺れた。その時、ぼんやりとしていた圭ちゃんの瞳も、悲しく揺れた。幻影は、風で途切れ途切れになりながら、私の隣に座った。

 それは、私が知るはずもない、十七歳の圭ちゃんだった。痩せた青白い頬に、すらりと伸びた手足、華奢な体は学生服を纏っている。でも、瞳だけは変わらず、真っ直ぐで、深い澄んだ水の底のように静かで、寂しそうに微笑んでいた。


「蚊帳釣りをしよう」

 圭ちゃんは優しく笑って、そういった。

「圭ちゃんなの?」

 私は驚いて、目を見開いて、まじまじと見つめる。圭ちゃんは、昔のように寂し気に笑う。

「そうだよ。ほら、こっちを引っ張って」


 蚊帳釣り草は、見事に蚊帳の形になった。私は、まだ夢の中に居る心地だった。圭ちゃんは、川の方をじっと見据えたまま、静かに言う。


「蚊帳釣りを初めてした時の事、覚えてる?」


 私は、いつかの、あのませた質問を思い出して、少し恥ずかしくなりながら答える。


「覚えてるよ」


 圭ちゃんは、視線を私に戻して、優しく笑った。


「あの時、一番好きな人と一緒に居るのが、一番いいって言ったのは?」


 勿論、覚えている。私は少し悲しくなった。


「でも、圭ちゃんは遠い学校に行っちゃって、そしてもっと遠いところに行っちゃったじゃない」


 私が責めるように、そう言うと、彼はいっそう悲しそうな顔をして、黙ってしまう。さわさわと風が鳴る。照りつける日差しが、水色橋の影にまで、襲いかかろうとしている。


「僕のせいだね……ごめんね」

 風に掻き消されそうなほど、小さな声で彼は呟いた。悲痛な響きを持つその声に、私の胸は、押しつぶされそうになる。圭ちゃんは、そっと私の手を握った。


 これは、幻影じゃないのだろうか。私は、指先に触れるもう一つの体温を感じて、何か肝心な事を忘れている、そう気付いた。圭ちゃんは、じっと川を見つめたままだ。きらききらと、まだ高い陽を浴びて、川の黒い水面は、星を散りばめたように、音もなく揺れる。


「私、死んじゃったの?」

 そう思わず口に出すと、心にかかっていたぼんやりとしたわだかまりが、一気に消え去った気がする。圭ちゃんは、寂しそうに頷いた。

「僕が死んで、一月もしないうちに……この川に、飛び降りたんだよ」


 その時、カンカンと水色橋が鳴った。人が渡っているらしい。足音が止んだと思ったら、橋の上から何かが落ちて来た。それは、純白の百合の花束だった。百合は静かに流れだした。橋の影から出て、目の眩むような空に溶け込む橋を見上げる。そこには、悲しそうに百合の流れる先を見つめる、兄の姿があった。

 


 

 


夏ホラー企画に向けて、短編ホラーの練習として書いたのですが、ホラーからは程遠いものになってしまいました。最後まで読んでくださって、有難うございました。

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