永訣のむこうがわ
小さな紙面から浮き上がるのは、まるで恋する乙女のような祖母の姿。
その箱を見つけたのは、全くの偶然だった。
あまりの忙しさに師も走る厳寒の某日。鈴芽はご多分に漏れず大掃除の真っ最中であった。
普段なら絶対に手を出さない押入れの整理係に任命されてしまった鈴芽は、不平不満もそこそこに作業に従事している。押入れの奥深くには既に存在すら忘れられて久しい、古い代物が幾つも眠っていた。
例えば、鈴芽が幼い頃に愛用していたぬいぐるみやブリキのおもちゃ。
角が歪んだダンボールの中に所狭しと詰められていたそれらは、こんな狭い場所に自分達を詰めっぱなしにしていた主を責めるようであった。
例えば、母がダイエットのためと称して通販で購入した器具の数々。
購入当時は日々母の贅肉を少しでも減らすべく奮闘していた彼らも、今ではお役御免とされてこんな所で埃をかぶっている。
例えば――、
「……?」
大体の荷物を運び出したところで、鈴芽はその最奥にある箱を発見した。
うんと背伸びして両手を伸ばして箱を掴むと、金属特有のひやりとした触感が彼女の手の平を通して伝わってきた。大きさとしてはそんなに大きくはない。引っ張り出して見ると、それはよくせんべいとかを入れる銀色の缶だった。
隅の色が剥げかけているし、真ん中も少しへこんでいて、結構な年代物だと分かる。中身については分からない。彼女の家では、押入れに仕舞うものは大抵表面に一目で中身が分かるようにでかでかとマジックペンで記入がされているものだったが、これにはそれがなかった。
鈴芽は少し考え、それを開けることにした。大事な物ならこんな所で埃塗れになどなっていないだろうし、中身を確認しなければ、捨てる物か残す物かの判断もできない。
銀色の取っ掛かりに指を引っかけて蓋部分を持ち上げる。年月が中を密閉でもしているのか缶は蓋にくっついたまま一緒に持ち上がり、開かない。鈴芽は缶を下ろして床に座り込み、両足の裏で缶を挟んで固定すると思い切り蓋を引っ張った。蓋はしぶとく抵抗を続けてはいたが、ある一定の力を超えるとコルクの栓でも抜くような軽い音と共に開き、その中身を晒した。
缶に詰まっていたのは、手紙だった。
一通ではない。何十通もの封筒がぎゅうぎゅうとすし詰めにされていて、随分と窮屈そうな印象を鈴芽に与えた。その中の一通を、鈴芽は手に取ってみた。
茶けた色合いとかさついた手触りが、この手紙の年齢を思わせる。
宛名の部分に記されていたのは、祖父の名前。
祖父の私物かと思い、裏返してみるとそこには祖母の名前が流麗な文字で刻まれていた。
鈴芽は試しにと缶をひっくり返して中身を一気にぶちまけた。その手紙はどれも祖父と祖母の名前がそれぞれ記入されており、例外は見当たらない。鈴芽はそれらを確認して、缶に戻そうとした。手紙はプライベートな物なので、本人の許可もなしに読むのはマナー違反である。
しかし、手紙を缶に戻す作業中、奇妙なことに気が付いた。手紙には鈴芽が確認した限りでは全てに切手が貼ってあった。けれど、どの手紙にも消印らしきものが見当たらないのだ。
だとすれば、祖母はこの膨大な量の手紙をひとつも祖父に送ることはせず、さりとて処分もせず、後生大事に持ち続けていたことになる。
何故だろうか。見られたくなければ捨てればいい。
それとも、捨てられない理由が何かあったのだろうか。鈴芽は少し考え、手紙を全て缶に戻して蓋を閉めると、それを持って部屋を後にした。
※ ※ ※ ※ ※
大掃除という重労働には不向きと早々に戦力外通告を受けていた祖父は、居間でのんびりとテレビを見ていた。
「お祖父ちゃん」
呼び掛けると、祖父は緩慢な動作で振り返り、相手が孫と分かると僅かに相好を崩した。
「鈴芽、どうした」
鈴芽は、祖父をあまり好ましく思ってはいない。かと言って、疎んじているわけでもなかった。
単純に、興味がないのだ。
いたところで邪魔と感じたことはないし、いないならそれはそれで構わない。
鈴芽にとって彼の存在は玄関先に置いてある置物のような、知ってはいても認識することは少ない。そんな存在であった。
「届け物。たぶん、お祖母ちゃんから」
冗談があまり好きではない鈴芽は簡潔に述べ、持っていた缶を差し出した。
祖母は既にこの世を去って久しいので、ならばこの手紙を受け取るべきだった相手に渡すのが道理と鈴芽は判断したのだ。
祖父は少し怪訝そうな表情をしたものの、それを受け取って蓋を開けた。中の手紙を手に取り、宛名を確かめ、裏返し――軽く目を見開いた。
鈴芽は祖父が驚いた様子を見たことがあまりなく、珍しいとは思いつつもそれ以上の情動はなかった。これ以上祖父に用と呼べるものはなかったので、まだ掃除が残っているからと言い置いて踵を返す。
「鈴芽」
その背に、祖父が声を掛けた。閉めようと襖に掛けた手を離し、踏み出そうとした足を止める。
「ありがとう」
その言葉が、幽かに震えているように感じたのは鈴芽の気のせいだろうか。
「……どういたしまして」
次に鈴芽が居間を訪れたのは、その数時間後のことだった。一通りの掃除を終えた頃、母が夕食の準備が出来たから祖父を呼んできてくれと要請したのだ。
それを了承した鈴芽は先ほどと同じように、居間の襖に手を掛けてするりと真横に引いた。
「……っ」
鈴芽の動きが止まった。居間のテーブルの上に広げられているのは、先ほど届けた手紙だろう。
その中で、祖父が涙を流していた。
頬を伝い、次々に零れ落ちる涙を拭おうともせず――むしろ気付いていないのかもしれない。便箋と思しき紙片を広げ、ゆっくりと、慈しむように紙の上を滑る祖父の枯れた指先。
その全てを視界に納めた瞬間、鈴芽の手は反射的に襖を閉じていた。音を立てずに閉められたのは僥倖としか思えない。
鈴芽は少なからず衝撃を受けていた。
理由は自分でもよく分からない。
祖父の涙を見たのは勿論初めてだが、それ以上に邪魔をしてはいけないという思いが頭を支配していた。多分、今祖父がいるのはこんな慌ただしい年末の冬の日などではなく、手紙の中に閉じ込められたセピア色の思い出。既に時間が止まって久しい、手を伸ばしても決して届かない懐古の世界なのだろう。
しばらく、「ふたりきり」にしてあげなくてはいけない。
義務のようにそう感じ、鈴芽は母に祖父が遅れる旨を伝えるために台所へと向かった。冷えた廊下を歩きながら、明日は少し祖父と話をしよう、と決めた。
祖父が僅かに残っていた命の灯を消したのは、その一ヶ月後のことだった。
※ ※ ※ ※ ※
結局、最後まで泣けなかった。
脳裏に蘇る、先ほど見たばかりの白い煙。
抜けるような青空へと穏やかに細く立ち昇る煙は、祖父の生前の気質をそのまま表しているようだった。
着慣れた筈の制服を重いと感じながら自室に戻った鈴芽はコートを脱いでハンガーに掛けると、着替えることすら億劫でそのままベッドに倒れ込んだ。その拍子に髪に付いていたお清めの塩がぱらぱらと落ちる。ちいさな塩の結晶を見つめたまま、ぼんやりと祖父のことを考えた。
祖父の涙を見て以来、鈴芽と祖父の交流が少しだけ増えた。祖父の好きなもの、嫌いなもの、趣味、その他いろいろ。長年の間に広がった距離が簡単に縮まるはずもないが、それでも何もしないよりは確実に、鈴芽は祖父のことを知ることができた。
けれど、この広がった距離は、もう絶対に縮まることはないのだ。それが寂しいと同時に虚しいと思う。
「――あ」
ふと、手紙の存在を思い出した。
祖母が、祖父へと宛てたたくさんの手紙。あれも一緒に焼いてあげればよかった。今から庭で焼けば追いつくだろうか。益体のない考えと言われればそれまでだが、鈴芽は後悔に似た思いに突き動かされ、気付けば祖父の部屋の扉を開けていた。
既に大体の荷物は整理され、がらんとした印象を与える祖父の部屋。
その隅に、見覚えのある鈍く光る銀色の缶を見つけてほ、と安堵の息を吐いた。それでも一応確認しようと、蓋に手を掛けて開く。前と違ってすんなり開くそれは、祖父が幾度となく手紙を読んだことの証左と思えた。変わらずぎっしりと詰められた手紙が顔を覗かせる。
その時、内容に対して鎌首をもたげた好奇心と、他人の手紙を読むという罪悪感が交錯した。
生前の祖父に、手紙の内容を尋ねたことはなかった。気にならなかったと言えば嘘だし、事実、何度か尋ねようとしたこともある。けれど、その度祖父の涙を思い出して結局口にできなかった。
あれは侵してはいけない領域なのだと、誰が言わずとも分かるあの空間。
それに興味本位だけで自分が介入するのは、野暮だと思っていた。
けれど、祖父はもういない。祖母もいない。鈴芽の行為を咎める人間は――誰も。
「……ごめん」
少しの逡巡の後、鈴芽は誰ともなく謝罪の言葉を口にしてから一番上に置かれていた手紙を開封した。
便箋を取り出してそっと広げる。年月の経ったそれはひどく薄く、広げるだけでもぱりぱりと音を立てた。そして内容を読み進めていくにつれ、鈴芽は驚きを隠せなかった。
手紙の中の祖母は、鈴芽の知る祖母とは全く違っていたのだ。
鈴芽の記憶に残る祖母は、小柄だったが背筋をぴんと伸ばして歩く姿が印象的な、矍鑠とした老夫人で、元気よく笑う姿が幼い鈴芽は好きだった。
けれど、この便箋の中で息づく祖母の姿はまるで自分と同じくらいの少女のようだ。
よく考えれば、なにも祖母とて生まれた時から祖母だったわけではない。時代と環境が異なってはいても、鈴芽と同じように少女時代を過ごして来たに違いないのだ。そういえば、戦争を体験した祖父と祖母は、当時のことをはっきりと口にした試しは終ぞなかったが、戦争を扱ったドキュメンタリーや映画を決して見なかったことを思い出す。けれど、祖母の手紙には日々の小さな出来事を微に入り細に穿ち延々と書き連ねられているものの、辛い、悲しい、という現状を嘆く類の言葉が一切出て来ていない。
手紙の字面だけを追えば、現代の鈴芽達の書くものとそう大差はないように思える。
そこで、鈴芽はようやく祖母の「届けなかった」手紙についての意味を悟った。
この手紙は、言ってみれば現実から乖離した小さな箱庭なのだ。青春を戦争という悲劇に奪われた祖母が、一人の少女として恋を育み、また振る舞うことを許された、唯一の場所。戦争を知らない鈴芽は想像するしか出来ないが、それは戦時中の、たったひとつ、祖母にとって輝く時間だったのではないだろうか。
鈴芽が最後に手に取った手紙だけ、少し毛色が違った。
たぶん、招請を受けたのだろう。遠方へと向かうらしい祖父を気遣う内容の手紙。身体に気を付けて欲しい、と切々と訴える内容のその向こうに、祖母が本当に言いたかった言葉が透けて見えるようだった。様々な語彙で糊塗したその奥から確かに伝わる、痛いほど切実な思い。
寂しい。
行かないで。
国の犠牲になんかならないで。
――どうか、生きて帰ってきて。
そうして祖父は、生きて帰ってきた。
当時手紙の存在など露ほども知らなかったであろう祖父は、祖母の想いに計らずともきちん応えていた。そして祖母と結ばれて、今の鈴芽がいる。
祖父の涙の理由が、鈴芽には理解できたような気がした。
最後の手紙を読み終え、鈴芽はその足で庭へと向かって全ての手紙を火の中に入れた。
本当は取っておきたかったが、これは二人が持つべき手紙だと思った。手紙はあっという間に炭化して煙と変わり、空へ筋となって立ち上って行った。
鼻の奥がひどく痛んで、目の前が滲む。煙を吸い込んだせいだろう。
祖父が祖母に会えていればいい。
手紙の話をしていればいい。
そんなことを漠然と思った。
〈了〉
ご拝読ありがとうございました。