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執筆練習、短編集

空想キネマ

作者: 結川さや

生と死を扱ったシリアスな作品ですので、苦手な方はご注意下さい。

 正門を通り、等間隔に並ぶ石畳の石を一つずつ飛び越えて軽やかに。

 右手にはヴァイオリンケース。左手には楽譜を抱えて。

 彼女は一歩一歩、こちらへ向かってくる。近づいてくる。

 ふわり、と春の風が吹く。広々とした芝生に立つ桜の木から、ピンク色の花びらが舞う。

 長い黒髪の、まっすぐな美しい流れが優しく踊っている。

 週に一度、水曜の昼下がり。重たく緩い時のリズムが、この限られた時間だけは瞬く間に飛んでいくようだ。


 それはまるで、音声のない昔の映画みたいだった。


 初めて見たのは半年前。

 最初は何の気なしに、このセピア色の光景に似合わない軽やかな存在に目を止めただけだった。

 けれども、今は違う。

 彼女が来るこの日を心待ちに、一週間を過ごしている。

 あの無声映画のワンシーン。声もなく、音もなく、唇にはほのかな微笑みを宿らせながら歩む彼女のフィルムをただただ、遠くから見つめることだけを待ちわびて。


「ハルくん。検温の時間ですよ」

 

 年嵩の看護婦が、窓際の僕を呼んだ。

 薄いパジャマだけを身につけて立っていたことでか、軽く睨みつけるようにされる。小さなため息の後、手渡されたカーディガンを黙って着込む僕。

 やたらと喋りかけてくる新人のほうじゃなかったのが、まだ救いだった。

 物心付いてから十三になった今までずっと、入退院ばかり繰り返してきたせいで、入院ライフになんて全く関心はない。それはもちろん病院内の煩わしい人間関係にも共通することで、僕は無口を通している。

 それをわかってくれるかそうでないかで、もともと数少ない僕の発言の増減が決まるのだ。

 この、見ているだけでお年寄りなんかは安心しそうな、ふくよかな体格の看護婦――最近では看護士と呼ぶんだそうだけど、この人に限ってはいつまでもそう呼びたい印象なのだ――は、そのまま決められた手順で検温し、新しい薬を渡し、いくつかの指示をして去って行った。

 ちょっとだけ身構えていた僕は、いちいち聞かれないで済んだことに安堵する。


(ハルくんは聴きに行かないのお? なんてさ)


 うるさいほうなら確実に、しかもしつこく聞いてくる質問だ。

 もちろん、本当は聴きに行きたい。許されるのなら目の前で、彼女の奏でる一音一音を聞き漏らすことなく堪能したい。でも――。

 そんな風に、間近で見つめてしまったら。

 いつもは見えない瞳の動きや、そこに閃く感情の一つ一つまで見えてしまったら。

 僕はもう、あきらめきれなくなる。

 この薬漬けの、外の世界で躍動することなど不可能な僕の人生を。

 いつ擦り切れてしまってもおかしくないモノクロのフィルム。それほどの強度しかない自分の体が、ココロが、まだまだ夢見ていたいことを思い出してしまう。

 本当は、胸の奥底で叫んでいるのに。

 ――生きたい、と。

 まだまだ生きて、もっともっと夢を見て、広い世界に飛び出して、自分だけの道を歩く。

 そうすることさえ許されているのなら、無声映画の中だけにいる彼女に手を伸ばすことも、僕の存在を知ってもらうこともできるのに。

 そこまで思ったところで、我に返る。

 何個あるのか数えるのもうんざりする錠剤を、粉薬を、全て口に放り込んで、飲み干す。

 自分の心の声も、潜み蠢く生への欲望も、水と一緒に押し流してしまうのだ。

 そうして、個室に閉じこもったまま、かすかに聞こえるヴァイオリンの音色に耳を澄ませる。

 

 この病院の近くにある、高校の音楽科。そこから彼女はボランティアに来ている。

 名前も、二年生になったばかりであることも、僕は知っていた。

 でも、あえてその名を口の中で呟くことも、彼女の人柄や日々の生活に思いをはせることはしない。

 ただひたすら、あのワンシーンを眺めるだけだ。

 それだけが唯一許された楽しみで、慰めで、かすかな華やぎ。なんて寂しい十三歳だ。

 ロビーで毎週水曜の午後に開かれるヴァイオリンコンサート。そう呼ぶには小規模すぎる、アットホームなそれではあるけれど、奏でられる音楽は十分優しく、澄んだものだった。

 耳の中を通り抜けていく音の深み、強さ、清らかさ――それは僕をとりこにするのに、同時に鬱屈とした思いに火をつける。

 なぜ、と。そう叫びたくなってしまう。恨みたくなってしまう。

 外の世界にはあんなにもたくさんの健康な人々がいて、思い思いの人生を楽しんでいるのに。どうして僕は、と。考えれば考えるほど答えなんて出ない。一生出られない迷宮のような疑問。

 けれど、世の中なんてそんな風に矛盾と無情に満ちているのだろう。

 だから、僕はあきらめることにしたのだ。

 もともと生まれてきたことが偶然の産物みたいなもので、道端に咲いた雑草みたいな程度のことで。

 それぐらい軽い命だから、ある日突然消えてしまったって、摘み取られてしまったって仕方のないことなのだ、なんて――。

 そんな僕なりの人生観は、ずっとそのまま続くものだと思っていた。信じて、疑わなかった。

 それなのに。

 運命はそれ以上の展開を持って、僕の心ごと押しつぶした。

 ある日突然消えてしまったのは、あのヴァイオリンの音色のほうだったのだ。

 誰も予測などできない事故。交差点を渡っていた彼女を、飲酒運転の暴走車がはねるという形での。

 看護婦も口にしなかった悲報は、皮肉にもめぐりめぐった噂話で僕の耳に入った。しかも、コンサートが開かれなくなって一週間もせずに、という迅速さ。

 なんて皮肉。なんて残酷。

 涙も出ないほど、心の中は空洞になった。

 

 どうして。

 いつ消えるともしれない自分の命の灯火より、あんなに元気だった彼女のものが先なのか。

 なぜ――一体どうして、彼女はそんな風に逝かなければいけなかったのか。

 

 食欲もなくなり、気づけば眠っていることが増えた僕を心配した看護婦が、手渡してくれたもの。それは、彼女の演奏が収められたオーディオプレイヤー。

 けれど出だしの部分だけ再生して、それ以上は聴くことができなかった。

 せっかく貸し出してくれたものを、長い間放置して。ただぼんやりと外を眺めるだけの日々は、急速に色合いを欠き、再びつまらないだけのセピア色に戻る。

 それからひと月ほどが経過した、春の終わりのことだった。そんな、空気の抜けた風船みたいな僕に舞い込んだ、突然の吉報。手術の日程。

 もうあきらめきっていた救いの手が、こんな風にいきなり目の前に現れるなんて思いもしなくて。

 だから、足がすくんだ。背筋が凍えた。

 この病院を出て、外の世界に。

 自分に許された、たった一度の機会。

 成功の可能性の裏に、ひそかに息づく暗闇。

 いつも背中にはりついていたはずの死の気配が、なぜだか急に重苦しく圧し掛かってきた気がしたのだ。怖い、なんて――どうして今更そんなことを思うんだろう。

 いつやってきてもおかしくない。いや、いっそのこと……そう覚悟していたつもりだったのに。

 ぐるぐると回る思考。ふわふわと漂う自分。それでも、彼女の演奏をもう一度聴く気にはなれなかった。聴くのが怖かったのだ。

 恥ずかしい、とさえ思った。憧れ、羨み、時に憎しみすら感じていた自分の心。それを勝手に投影していた彼女は死に、僕が生き残る――。そんなことが、あってもいいのか、なんて。

 答えなんて出ない。わかるはずがない。

 たかだか十三年しか生きてやしない子供に、解ける疑問じゃなかった。

 そうだ、僕は自分の不幸に酔って、隠れ蓑にして、苦しいからと生きることから目を背けた。

 なのに本当は体中から、爆発しそうなほどに膨れ上がる渇望があった。いや、ずっとずっと前から、変わっていなかったのだ。

 

 ――生きたい。


 生きて、自分の手で、足で、体全体で外の世界へ踏み出して。

 何でもいい。自分がやりたいことをやって、希望を抱いて、夢に向かって……ただ、前に。上を見上げて、心のままに。


 ――生きたいんだ。


 思い知ってしまえば、自分が抱いていた願いはこんなにも明らかだった。

 この小さな窓を通して夢見てきた、思い描いてきた。

 色鮮やかな生のキネマ。

 あの彼女のように。美しいひとのように。

 僕も。


 あと一歩のところで迷っていた僕の背中を押したのは、昼下がりの見舞い客だった。

 彼女と似た背格好の、もう少し幼い少女は、妹だと名乗った。僕がもし健康なら通っていただろう中学校の、セーラー服を着ている。

 驚いたのは、健康そのものに見えた彼女よりも白い肌の色と、線の細さ。それでも薄紅色に染まったやわらかそうな頬は、病の匂いを感じさせるほどではなかった。

「治ったんです、私」

 澄んだ声音で、ぽつりぽつりと自分の話を始めた少女の名はさやか。姉と似た、優しい印象の顔に笑みをのせ、さやかがカバンから取り出したもの、それは。

 一通の手紙。

 いかにも女の子らしい小花模様の水色の便箋には、予想外の宛名があった。

「どうして、僕の名前……!」

 あとは声にならなかった。目を見開いて、震える掌で、指で、便箋を持ち上げ、読んでいく。

 全部読み終える前にあふれてきた涙は次から次へと零れて、嗚咽に変わった。

 もらい泣きしながらも、さやかが優しく僕の背に手を置いて。

 何分か、何十分か――それほど長く感じた時間の後、僕はさやかに頼んだ。ずっと放り出したままだったオーディオプレーヤーの、再生ボタンを押してくれるように、と。

 流れ出したのはいつも耳を澄ませて聴いていた、あの旋律。やわらかな木漏れ日にも、春の花々にも、優しい風にも似た音楽。

 彼女――さくらの奏でた、ヴァイオリンの音色。

 無声映画のようなワンシーンが、フィルムの連続が、僕の脳裏に鮮やかに蘇り、そこに音を吹き込んでいく。彼女の声を、心を、生きてきた軌跡を浮かび上がらせていく。

 そうだ……彼女は、映画の中だけの存在なんかじゃなかった。勝手にそう決めつけ、抑え付けようとしていたのはただ、僕の狭い心のせい。

 水色の便箋に、ぽたりと新たな雫が落ちた。



『拝啓 嘉山ハル様 


 こんな風に突然手紙を書くことをお許し下さい。

 もしかしたら、あなたは私のことなんて知らないかもしれない。知ってはいても、全く興味なんて持っていないかもしれません。

 でも、私にはそうじゃなかった。

 病室の窓から庭を見下ろしている姿、いつも知っていました。色の白い、儚げな印象の男の子。

 その子が私の妹と同じ年で、しかも同じ病気に悩まされていることを聞いた時。

 私は思ったのです。

 例え病室から出ては来れなくても、私の音を聴いてもらえたらいいな、と。

 自分が奏でる音色で、まだまだ下手くそだけれど――それでも少しでも、元気になってもらえたら。

 妹も大変な思いをして、二年前に手術をしたばかり。一時は絶望的かと思えた家族がまた起き上がり、歩き、外にも出られるようになった。それはきっとものすごく幸福なことで、もちろん全てのケースにはあてはまらないのかもしれない。私がこんなことを願うのは、傲慢で、偽善なのかもしれません。

 それでもいい。どうか――あきらめないで下さい。

 生きることは苦しくて辛いかもしれない。もうやめたいと顔を背けたくなることもあるかもしれない。

 でも、あなたのことを想う誰かがいること。あなたの生を願う誰かがいること。

 そして、何よりもあなた自身の、心の声を締め出さないで。

 これは私が妹を見てきて感じたことで、また、私のこれからも続く夢でもあります。

 精一杯戦う人たちの支えになりたい。儚い幻でも、一時の希望でも、何でもいい。

 私にできることがあるなら何でもしたい。そう思って、いつも下手くそなヴァイオリンを弾きに来ています。

 いつか、あなたが笑える日が来ますように。


                   敬具 市ノ瀬さくら』


 

 その、晩春の一日。一際強い風に飛ばされた桜の花びらは、まるで吹雪のように舞った。飛び込んできたピンク色の花びら。それはまるで、さくらの遺した言葉を届ける使いのようだった。

 いつまでも泣きじゃくっていた僕の背を、さやかはずっと支えていてくれて。

 さくらの奏でる音に包まれて、僕は決意したのだ。手術を受けることを。

 そして季節はあっという間に移り変わり、一巡りする。

 今年も一斉に咲いた桜は華やかな春の訪れを告げる。

 けれど、僕にとってはいつまでも彼女を思いださせる切ない光景でもあり、また命を繋いだ幸せの印でもある。

 少しずつ少しずつ、無理しないこと。

 それがさやかが教えてくれた、外の世界でのルール。

 僕はきっと、うまくやっていけるだろう。

 いや、失敗することも、落ち込むことだってあるだろうけれど――それさえも、確かな生の瞬間だと知っているから。

 僕は生きる。

 咲けなかった花の分も、散った花の分も。

 歯を食いしばって、足掻いて、呻いて、笑って――僕は。

 


 生きていくのだ。




                              

 


全ての戦う人々に、エールを。

読んでいただき、ありがとうございました。

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