魔法の言葉
たとえば真冬の寒い時に「寒い」って言うと、「寒いって言うから寒い気がするんだよ」と言われることとか。
学校行事で数百人の前に立ち、難しい文章を読み上げなきゃいけなくて、ガチガチに緊張している時に「成功した自分を想像してみて」と言われることなどは、まだ良かった。
だってそれは明らかに気休めだってわかってたし、無理のあるマインドコントロールだったとしても、何もしないよりはマシな気がしていたから。
だけど――
「ね、亜希。発想を変えてみようよ。どんな試練でも、後々考えてみれば全部亜希にとってプラスになることばっかりだったと思わないか?」
「……」
目の前でキラッキラの笑顔を振りまきながら、何て素晴らしい話をしているんだ! とばかりに自分に酔った表情で哲学チックな話を続けている上司。
あぁ、この人は何もわかっていない。
私の最近のストレスの根源は、仕事がどうこうとかいう事じゃなくって、アナタだというのに。
「……そうですね」
「だろ? 俺も亜希なら、もっと頑張れると思うんだ。迷う余裕が無くなるくらい、がむしゃらに走ってみようよ!」
「……ハイ……」
私が所属する営業部内でも、その甘いマスクとalwaysポジティブ・シンキングな性格が評価されて、男女問わず大人気であるグループマネージャー・古河先輩。
彼を説明するのに、ポジティブという言葉は欠かせない。
顔は爽やかだけど、常に熱血っていうか、後ろ向き発想が一切無いというか……。
前に新入社員が、「見ているだけでも元気が出る」なんて言っていた。
その時私は、正直有り得ないと思ったけれど。
……いや、先輩が正しいということはわかっている。
仕事をする上で、向上心程大切なものは無い。
いつも笑顔でいれば、それにつられて嫌な事もいつの間にか薄れていくということだって、さすがに二十数年も生きていれば理解できる。
ただ……ただね。
『頑張る? 具体的に何を頑張るの?』
『じゃあその為に、君はいつまでに何をどんな風に、どこまで進めるの?』
『出来ない? 出来ないって言うくらいなら、アレは勿論やってみたよね?』
わかってる――わかってる。
全部全部、頭ではわかってるんだ。
先輩の言う事は正しいし、社会人として当然の事を言われているだけなんだって。
人として向上していくには、それは大切な事で。
まだ私の努力には、隙が残っているから。
お説教されるもの、当然な事なんだって――
「……で、とうとう拒食症一歩手前になるまで衰弱してしまったと」
「すいません……」
ソファーで小さくなっている私の隣に、圭介は溜息を吐きながら腰を下ろした。
しばらく私が出張したり、圭介が出張したりで擦れ違っていたから、こうしてゆっくり二人で過ごすのは何と一ヶ月半ぶりだったりする。
二人だと、不思議と最近食べられなかったご飯も喉を通って、やっぱりストレスを感じていたのかなぁと一人心の中で呟いた。
「ったく、この短期間でお前どんだけ痩せたんだよ」
「怖いから体重計乗ってない」
「そこは乗れっつの。しょうがねぇなぁ」
呆れながらもすっと私の肩を抱き寄せて、よしよしと頭を撫でてくれる。
久し振りに感じる体温に、無性に泣きたくなった。
「やっぱ上司との相性って重要だな」
「古河先輩は、皆の憧れだよ。それに合わない私の方に問題があるんだと思う」
「バーカ、卑屈になるな。古河先輩は確かに営業部にピッタリなタイプだけど、だからと言ってそれが絶対ってワケでもねぇだろ」
圭介はそう言ってくれたけど、私の沈んだ気持ちはなかなか浮上しなかった。
実際誰よりも結果を残し、実績を上げている古河先輩。
そんな先輩と同じグループになったのと、私がスランプに陥ったのはほぼ同時の出来事だった。
今まで上手くいっていた事が、上手くいかない。
わかっているのに出来ない事を、もう一度古河先輩の口から諭される日々。
ポジティブ、ポジティブ、ポジティブ。
私を救うハズのその概念は、いつの間にか私の胃を刺激するようになっていた。
ご飯の時間が、億劫にすら感じて。
ずっと気分が塞いでいる。
「亜希、もういいよ」
「何が?」
「いいから。俺の事信じて」
「え……」
「お前、もう頑張らなくていいよ」
一瞬言われた事の意味がわからなくて、私はまじまじと圭介の顔を見つめた。
圭介は穏やかに微笑んで、私の頬を撫でてくる。
「これは、俺の考えだけど。古河先輩の教えはさ……頑張りが足りねぇ奴とか、ネガティブに陥りやすい奴にぴったりハマるんだと思うんだよ」
「……」
「だからお前には、響かないんだ」
頭が混乱して、私は目を伏せた。
私には……響かない?
「お前は元々努力し過ぎるくらい根詰めるタイプだし、根が真面目だから」
「……」
「行き詰まったら、逆に肩の力抜かなきゃダメなタイプなんじゃねぇの?」
「……」
「『頑張る』はもういいよ。例えば今月売上ゼロに終わったって、死ぬワケじゃねぇし。俺もいるんだし」
そう言われた瞬間、ふと。
本当に驚くくらいに、胸の辺りでずっとつかえていた重苦しい感覚が、すとんと落ちていくような気がした。
頑張って、努力して、下を向かないで。
強くありたくて、負けたくなくて、完璧にこなしたくて、認めて欲しくて。
それでも停滞していた現状に、いつの間にか疲れきっていたのだ。
営業を始めて数年目で、頼れるのはポジティブな上司ばかりだったし。
そんな中で気分が落ちてしまう自分は、何てダメなんだろうって。
ここ最近、そんな事ばかりをぐるぐると考えていたように思う。
「営業やってる人間って――っていうか、ウチの会社が採用する人間ってさ」
自然と溢れ出した涙に呆然としている私を余所に、圭介は静かに話し始めた。
涙を拭ってくれる指先が、酷く優しい。
「元々良い意味で大雑把で、切り替えが上手い奴が多いんだよ。仕事仲間との飲み会も『プライベート』だと思えるし、出張も旅行みたいでラッキーって思えるような人ばっかじゃん」
「……」
「でも、お前は違う。仕事の延長線だと、ずっと『オン』の状態が続くだろ」
圭介の言う通りだった。
本当に気が合う一握りの同僚とは、友人のように付き合えたけれど。
その他大勢とは、どうしたって「仕事仲間」だという認識しか出来なかったし、出張もどちらかと言えば苦手で。
慣れないホテルの宿泊は、3日も続けば酷く疲労を覚えてしまうタイプだった。
まるで朝目が覚めてから夜眠りにつくまで、ずっと仕事の為に用意された時間が続くような気がして。
「そういう全然違うタイプの連中と同じスタンスで、同じような発想で、やっていけるワケがねぇじゃん」
「……」
「お前は、逆だから。無理して気を張るより、今日は客と楽しく話せりゃ良いやくらいの気持ちで会場に立った方が、お前らしい接客出来ると思うけど」
ボタボタと、イイ歳して涙がどんどん零れ落ちて行く。
私は黙ったまま、何度も頷いた。
そうなんだと思う。
圭介の言葉は、すごい勢いで私の中の霧を晴らしていった。
それは恋愛云々の感情よりも、もっと強烈で。
私にはこの人がいてくれて、本当に良かったと心から思ってしまった。
上辺だけの「大丈夫だよ」でもなく、
現実を曖昧に濁すだけの「愛してる」でもなく、
ただ事実として言われた「俺もいるんだし」という言葉が、何より心強かった。
たったそれだけの事が、嘘のように絶望感を拭ってくれる。
「……私」
「ん?」
「圭介の適当な所……適当に力を抜く所、最初は、理解出来ないって思ってたけど」
ようやく口を開いた私の声は、情けないくらい涙声だった。
こんな風に泣くのは、もの凄い久し振りな気がする。
「本当は……そういう所に魅かれたのかもしれない」
「ははっ、だろうな。俺は逆に、そこまで真面目なお前に興味があるけど」
「うん……」
「お互い無い所を、補ってるっつーか」
「ふ、そうだね」
一般論をすべてだと思っていた私。
それには必ずしも当てはまらないと、私を中心に置き変えて考えてくれた圭介。
時にそれは、「逃げ」となってしまうかもしれないし、絶対にいつも賛同出来るってワケじゃないんだけれど――
「ありがとね、圭介」
「いえいえ。一応彼氏だしな」
「あははっ」
「それに数年一緒に仕事してきた、良きライバルだし」
「うん」
「そう考えてみれば、同僚とか友達とか彼氏とか……俺、色んな役やってきたなぁ」
「確かに」
そしてその度に、それぞれのポジションで……圭介は何度も、私を救ってくれた。
「ありがと……いろんな意味で」
「え?」
不思議そうな顔をした圭介を見て、思わず笑ってしまう。
久し振りに泣いたせいで、目とか頬とか、色んな所に腫れぼったいような違和感があったけれど。
「これからも、宜しくお願いします」
「ははっ、何だよ。何か照れるんだけど!」
いつの間か。
心はすっかり、軽くなっていた。
『魔法の言葉』
fin.