馴れ初め話
――私たちのはじまりは、かなり印象的だった気がする。
それはまだ、私が圭介と付き合う前の話。
シフトで回された、大会場。当時私は、入社2年目だった。
初めて後輩が出来て……周りの同期も、力のある子はぐんぐん売り始めて。
新入社員だった頃よりも勝手を知り、余裕が出来た分、周囲の様子が気に掛かるようになっていた。
戦うべきは自分自身だとわかってはいても、周りと比較せずにはいられない。
展示場を壁一枚隔てた場所にある、社員の控室。
そこには全員の名前が記載され、一目で売り上げが分かる棒グラフが描かれていた。
展示会の期間は、3日間。
その最終日である3日目にもなれば、やり手の先輩の棒グラフは最高数を飛び越えて二行目に移っていて。
ベテランと組んで売上折半となる新入社員ですら、低い数値なりに数を積み重ねていた。
そんな中で、私は。
「サイアク……」
大会場の展示会としては、入社以来最悪の絶不調。
私の名前の所だけ、ぽこっと穴がある状態だった。
つまり、売り上げはゼロ。
3日目の午後で――あと数時間もすれば展示会は終わってしまうのに、いまだゼロだったのだ。
しかも招待していた自分の顧客は、一番数字を見込んでいた人がキャンセル。
馴染んだ顧客ばかりに頼った結果が、これだった。
控室に入ってグラフを目にする度に、喉が詰まって目が熱くなる。
辛い、悔しい、恥ずかしい……。
後輩から同期、尊敬する先輩までもが、私のゼロという虚しい結果を目にするはず。
食欲なんてあるわけがなくて、私は昼食も取らずに、逃げ出すように控室を後にした。
「……」
会場内は、かなり混み合っている。
会場中央部に並んだ個別のテーブルには、多くの社員とお客さんが座っていて、それぞれ作品をプレゼンテーションしていたり、契約書を記入していたりした。
ぼうっとその光景を眺める私の視界に、ふとある後輩社員の姿が映る。
私と性格が真逆で、誰にでも人懐っこい笑顔を向ける可愛い女の子。
彼女の座っているテーブルにもまた、契約書が広げられていた。
心臓の辺りがジクジクと痛み、思わず目を逸らす。
数日前まで感じていた焦燥感のようなものは、もう無い。
ただあるのは、諦めと絶望感だった。
(向いてないのかなぁ)
たかが一回の大会場で失敗したからといって、そこまで考える必要は無いと頭ではわかっている。
だけど心が、ついていかなかった。
誰より、勉強してきたはずなのに。
誰より……自信があったはずなのに。
手持無沙汰な私は俯いたまま白い手袋を嵌め、作品を綺麗に拭こうと、専用のスプレーとペーパーを持って会場に向かう。
お気に入りの作品を拭きながら、背後から聞こえてくる明るい商談の声を聞いていた。
……あぁ、しんどい。早く帰りたい。
そんな事を思って、また涙腺が緩みそうになった瞬間――
「亜希、今時間ある?」
「え?」
不意に背後から、誰かに声を掛けられた。
はっと振り返れば、同期の圭介が立っている。
綺麗な薄いストライプが入ったダークグレーのスーツに、紫ベースのシックなネクタイ。
会場内の照明にキラリと反射するカフスが目を引く手元には、一冊の資料ファイルが抱えられていた。
彼は同期の中でも、常に頭一つ抜きん出た数字を叩き出している男だ。
その端麗な顔立ちを見返せば、圭介はフッと表情を和らげる。
「今接客してるお客さん、セット買いしてくれそうなんだよ。お勧めの作品持ってきたいんだけど、それがバックのかなり奥の方にあった気がするんだ」
「そうなんだ……。いいよ、私手ぇ空いてるし、持ってくる――」
「違う、違う」
てっきり持ってきて欲しいと言われているのかと思ったら、そうではないらしい。
圭介は、いつも女性客をうっとりさせているのであろう営業スマイルを少し崩して、悪戯っぽく笑った。
「亜希、俺が探してくる間テーブル着いててくんない?」
「え?」
「作品探すの相当大変だろうし……俺もずっと接客してるから、一瞬でも休みたいし」
「でも……」
「あの角のテーブル、メガネの男の人だよ。見てる作品は――」
私の曖昧な返事など気にする事も無く、圭介はすぐに状況を説明してきた。
そのお客さんから得た大まかな情報、好み、圭介が帰ってくるまでに促しておいて欲しい事。
私は戸惑いながらも頷き、「じゃ、よろしく!」と言って去っていった圭介の背中を見送る。
お客さんと二人で席に着くのは、約一日ぶりだ。
しかも同期が一生懸命クロージングまで持っていった状況で、途中参加なんて……。
自分が接客する時とはまた違った緊張感に、私は身を固くした。
「いらっしゃいませ」
「? あ、あぁどうも……」
「加藤が戻るまで、ご一緒させて頂いても宜しいでしょうか?」
なるべく柔らな表情とトーンを作りながら、お客さんにそう問い掛ける。
パッと見少し気難しそうな人に見えたけれど、控えめに話し掛ければすぐに人の良さそうな笑みを浮かべてくれた。
それから私は、予め圭介に聞いていた情報から、いくつか話題を持ち出してみる。
そのお客さんはよっぽどその作家さんが好きらしく、会話はすぐに弾み始めた。
「――お待たせ致しました」
そして数分後に圭介が戻ってきた頃には、すっかり打ち解けて笑い合っていた。
圭介ににこにこと話すお客さんを見ながら、私はさり気なく席を外す。
一瞬目の合った圭介は、視線で感謝の意を示してくれているようだった。
大勢の社員が動く会場内では、大して珍しくもない光景。
私は最後に一人でも接客出来て良かったと、心の内で圭介に感謝する。
あのまま作品磨きで終わっていたら、きっと明日以降も引きずっていただろうから。
……それだけのこと。
そのはずだった。
「あ、れ……?」
クローズの時間を迎え、後片付けの合間に終礼をした私たち。
続けて今度はエリア別のメンバーで集まり、それぞれの業績を確認し合っていたのだけれど……
「嘘……」
目の前には、この3日間見飽きる程眺めてきた棒グラフある。
でも、最後の最後で予想外の変化があった。
私の名前の上に、一つだけ書き足されたグラフがある。
数字が、書き込まれていたのだ。
「なん――」
何でと呟き掛けて、はっと気付く。
慌てて圭介の名前を探せば、最上部には私と同じサイズのグラフが描かれていた。
“折半”
そう。さっき私が接客を手伝ったお客さんの売上の半分が、私の方へ書き込まれていたのだ。
通常折半として売り上げが立つのは、たとえば新人が着席させた新規のお客さんを、先輩社員がカバーして購入が決まった時。
もしくは他会場にいる社員が招いたお客さんで、現場にいた別の社員が接客して購入が決まった時……つまりは二人の力があってこそ、売り上げが立ったという時だ。
その場合は折半として、二人に半分ずつの数字が上乗せされる。
だから決してさっきのような、間を繋いだだけの私に与えられるようなものではない。
「圭介っ、ちょっと!」
「え? あぁ亜希、お疲れ」
「ねぇ、あの売上どういう事……!?」
私はまだ会場内で片付けをしていた圭介を見付けて、思わずきつく問い詰めた。
圭介は不思議そうな顔をして、首を傾げる。
「どういう事って?」
「何で折半になってるの? 私何にもしてないっ」
「いや。間繋いでくれてたから、スムーズに2点購入に至ったんだよ」
「でも」
「もう契約書に亜希の名前も書いちゃったし。今更変えられないって」
「え……」
だって、そんなの申し訳ない。
私が間を繋いだ後に圭介が持ってきた作品の金額は、その前にお客さんが既に買うと決断していた作品の3分の1にも満たない額だ。
それなのに、全体の金額を折半だなんて……申し訳無さ過ぎて、泣きそうになる。
「あれは圭介が売ったものなのに……!」
「亜希って真面目だなぁ。いや、プライドが高いのか」
思わずうなだれていた私に、何がおかしいのかクスリと笑いを零した圭介。
私は眉を寄せて、圭介の切れ長の瞳を見つめた。
「こういう時は、『ありがとう』で良いんだよ」
「……でも」
「どうしても納得いかないなら、来週俺が行く会場に、可能性の高そうな顧客呼んでよ」
「え……」
「で、そのお客さんで見事俺が売り上げを立てる」
「……」
「また亜希と俺の折半。それでおあいこって事でどう?」
強気に微笑んだ彼は、大した自信家だと思う。
まだ見てもいない私の顧客に、可能性を見出すなんて……。
「今回の会場、結構不発だったみたいだし? お前はそんなもんじゃないだろ」
「圭介……」
「それとも今までの成績は偶然で、今回のが本当の実力だった?」
挑発的なその言葉に、私は思わず唇を噛む。
……悔しい。
情けを掛けられたみたいで、すっごく悔しかった。
「……ふっ」
「何がおかしいの?」
「いや。そんだけ殺気のこもった睨み利かせられりゃ、安心だな」
「は……?」
「仕事に厳しいクールビューティーが、がっくり肩落として作品磨きなんて似合わねぇよ」
そう言って、ぽんと肩を叩かれる。
「次の会場で、汚名返上しろよ」
「……言われなくても」
――キッカケは、ふわふわした甘いものなんかじゃなかった。
たまたまあそこに、彼が気に掛けていた私が居て。
たまたまその時、私は私らしくない顔をしていた。
ただ、それだけのことだった。
(……次は絶対、良い数字出すんだから!)
その後宣言通りに二度目の折半をする事になった私たちは、良きライバルとしてプライベートでも会うようになって。
最終的にライバル以外の感情を抱くまでにも、それ程時間は掛からなかった。
それが、私たちの馴れ初め話。
『馴れ初め話』
fin.