損な役回りでも
「ふ……っす、すいませ……っ」
「いやいや、私に泣かれても困るし。学生じゃないんだから、涙で訴えるとかもう止めようよ」
私はピクッと顔を引き攣らせながら、苦笑した。
私――神野亜希はクリエイターのアート作品を、全国各地の展示場で売る営業兼販売員をやっている。
そして現在そんな私の目の前には、今年入社したばかりの新人が。
ちなみに同じ営業部で、残念ながらグループもチームも同じ。
さらに残念なことに、彼女は非常に涙が似合う美女である。
あぁ、すごく気まずい。本当にテンションが下がる。
「契約書は現金と同じくらい重要だから、わかんなかったら聞いてって言ったよね?」
「……うぅっ」
「訂正印で済むところもあるけどさ、中にはそうでない場所もあるわけ」
「……っく……」
「わざわざお客様にまた来てもらって、間違えたんでもう一回書き直してくださいとは言えないでしょ? せめてその場でチェックしなきゃ」
「……」
「って、この前も言った気がするんだけど」
「ひっく……」
……ハイ、スルー。返事無し、ひたすら涙攻撃。
えぇ、効果は抜群ですよ。ただし、私以外の人に対してね。
丁度退勤時間な事もあって、通り過ぎて行く同僚たちは皆、「あぁまた虐められてるよあの子」もしくは「また虐めてるよあの人」的な目をこっちに向けてくる。
チクショウ、相手が美女じゃなきゃ――せめて私が普段からキツイ女じゃなきゃ、こんな事にはならなかっただろうに。
「えっと……ねぇ、聞いてる?」
「……」
「返事くらいしてね、仕事だし」
ていうかそうこうしてるうちに、20時過ぎちゃったじゃん!
テレアポ入れたい顧客さんいたのに……。
だからと言って同チームの後輩の不備がそのままでは、怒られる役も後処理の仕事も、結局私に回ってくるワケで。
必然的に、お説教はせざるを得ないのだ。
あぁ……ほんとツイてない。
「神野、どうした?」
「あぁ、藤里先輩……」
突然声を掛けてきた人物を見て、更に落ち込む私。
あぁもう、何この最悪なタッグ。
「いっちゃん、またヘマしちゃったの?」
「……うぅ、申し訳ありません……っ」
「まぁ、まだ新人さんだからねー」
ハッ。ちょ、聞きました? 「いっちゃん」ですってよ。
私よりも先輩で、尚且つ他チームの人間である藤里先輩が、新人に対してまさかの「ちゃん」付け。
どう考えても贔屓してますよね。何やら仕事以外の何かも動いてる気配がしますよね。
うん、何しろこの「いっちゃん」……もとい伊崎さんは、男子陣にモテモテなのだ。
まぁ可愛いもんね、庇護欲誘うもんね。
あーウラヤマシイデスネ。
ただ私には関わらないで欲しい、出来れば。
「……契約書のミスが、ちょっと目立ってたんで」
「あぁ、契約書かぁ。いっちゃん、今日時間ある? 俺と特訓しようか」
「え……っ」
…………えー、何その見つめ合い。
何フラグ発生中?
あれ、ストレスで胃が爆発しそう。
「……あー、あー……じゃあ、藤里先輩お願いしても良いですか……私、まだ仕事残ってて」
「いーよいーよ、任せて。神野は自分の仕事しな?」
「ありがとうございます……」
「じゃ、行こうかいっちゃん」
「……スミマセン、ありがとうございます」
おいおい、伊崎喋れんじゃないか。
普通に涙目のままはにかむとか、器用な事してるしね。
さっきまで私の言葉に一言も返せなかったのは、一体何だったんだ。
私の夢か? 夢だったのか……?
「じゃ、お疲れ神野ー」
「お疲れ様です」
一応先輩だし、仕方なくぺこりと藤里先輩に頭を下げれば。
何と伊崎、私に振り返ることなく去っていきました。
新人の分際で、同チームの先輩に「お疲れ様です」も言わずに背中を向けるって何事。
もうそれって、仕事内容云々以前の問題なんですが!?
「……」
……無いわー。私あの子無理だわー。
そう思いつつ、唖然とピンヒールで立ち尽くす私。
何か、老けた気がする。
多分今私、プラス3歳くらいの顔してる気が――
「ぶはっ! あはははっ!」
ぼんやりとバカップル二人(でいいよね、もう)が出て行った扉を眺めていたら、不意に別方向から笑い声が聞こえてきた。
もの凄い聞き覚えのある、朗らかな笑い声。
見なくても想像がつく。きっと目を細めて、気の無い女の子までメロメロにしちゃうような甘い笑顔を浮かべているのだろう。
「……」
「あはははっ! もうヤバイ、俺マジで腹捩れる!」
「……」
「亜希超悪役じゃん! イジメ役A、みたいなさ!」
……あぁ、もうやだ。
私は長い長い溜息を吐きながら腕を組み、片手で目元を押さえた。
いつから見てたんだ、コイツは。
そして他人の不幸を、どうしてそんなに楽しそうに笑うんだ。
だってさ、だって。仮にも――
「ホントに私の彼氏なの? 圭介……」
「ははっ、あー笑った。もう亜希最高」
「ちょっと無視?」
「いやいや、こういうところも愛してくれるなんて、めっちゃ彼氏っぽいだろーが」
「こういうところって何? 私は仕事を全うしただけですが」
「まーな。だがしかし、恐らく8割の男は伊崎を主人公とみなす」
「……否定出来ない所が、限りなくウザイ」
がっくりと肩を落とした私は、もう一度溜息を吐きながら、商品を扱う為に着用していた白手袋を外す。
本当は今頃アポ一件確実に取って、新商品のチェックしてたはずなんだけどな……。
もう疲れた、今日は帰ろう。
「ほーら、気ィ落とすなよ」
「アンタには言われたくない」
「くくっ」
何がおかしいんだか、いまだ肩を揺らしている圭介。
同じ営業で、チームは異なるものの同グループのこの男。
元々は同期だったんだけど、いつの間にか――本当に、いつの間にか。
気付けば隣にいるようになっていて、自然と彼氏彼女という形に落ち着いていた。
入社3年目で、ベテランややり手の先輩に比べたらまだまだだけど、向上心があって負けず嫌いな圭介。
今や彼は同期の中でも、一番有望だと期待されている。
大イベントの時とか、固く目標額を達成するんだよね。
そういう勝負強い所も、営業職として――ひいては男としても、魅力的だと思う。
そんな圭介と一緒だから、乗り越えてこられた事も沢山あった。
私は器用貧乏なタイプで……基本的には他人より何でも上手くこなせるけど、大抵それは「ある程度」止まり。
飛び抜けて秀でているものが無いというのは、意外と変化が無くて苦しいものだ。
まるで……自分が何年経っても、大して成長してないみたいで。
「あーあ、オイシイものが食べたい。もの凄く。あと甘いもの」
「典型的な暴飲暴食へまっしぐらだなァ」
「うるさいよ!」
バシッと高いスーツを纏った圭介の腕を叩けば、彼はまたおかしそうに肩を揺らした。
仕事中は計算高く作り込まれる完璧な笑顔も、私の前では少年のように屈託の無いものへと変わる。
この顔を見ると、何かいつも脱力しちゃうんだよね。
まぁ別にいいかって。
「よしよし。人が嫌がる仕事を出来る子は、偉い子なんだぞ」
「……何それ」
「小学生ん時、センセーが言ってた。名言だよなぁ」
「へぇ」
「うわ、反応薄ッ!」
控室へ荷物を取りに行く私の隣を歩く圭介。
隣からはもう慣れたメンズトワレの香りが、うっすらと漂ってきた。
「なぁ、亜希。イイ事教えてやろっか」
「何? どうせ碌でも無い事でしょ」
「オイオイ、それが彼氏に言う言葉かよ」
「前科があり過ぎるんだよ、圭介は」
バッグに自分の荷物を詰め込みながら、私はいつものように軽口を叩く。
ちょっと奮発して買った、契約書用のオシャレな高級万年筆。
顧客リストが入ったロッカー用の、キーホルダーだらけの鍵。
機能性はあんまりないけど、お気に入りなブランドハンカチ――
キツイ女だと思われても、本当は。
別に私自身は、女を捨てて仕事に全神経を傾けてるワケじゃない。
でも、他人にはなかなか伝わらないんだよね。
「……さっきさ、8割の男は伊崎の肩持つって話したじゃん?」
「また蒸し返すの? あの子の話は、出来ればもうしたくないんだけど」
「まぁ聞けって、亜希」
バッグのボタンを留めれば、近くのパイプ椅子に腰を下ろして待っていた圭介は立ち上がった。
「俺の予想からすると、伊崎に流れる男の2割は……元々天然で可愛い、控えめな女が好きなんだよな」
「……ふーん」
「で、残りの8割が流れる理由は、何だと思う?」
「えー、わかんないよ。私男じゃないし」
眉を寄せて肩を竦めれば、圭介はニヤリと笑って歩み寄ってくる。
悪戯っぽい茶色の瞳は、蛍光灯の光を反射させながら私を映し出していた。
「……残りはさ」
「うん」
「お前と恋愛する自信が無いヤツだと思う」
「……は?」
すっと顔に掛かっていた髪を指先で払った圭介は、相変わらずの笑みを浮かべたまま続ける。
悪戯っぽくて――でもどこか本気で、視線を逸らせない瞳。
「男はさ、どんなヘタレでも、ある程度は彼女をリードしたいもんなんだよ」
「……」
「お前が普段から隙が無くて、自分に厳しいタイプだって事は、大体想像がつくだろ」
そう言ってまるで子どもを褒める時のように、よしよしと私の頭を撫でてくる大きな手。
「だから妥協策で、伊崎に流れるヤツが多いんだと思う。怒ってるお前より、泣いてる伊崎に優しくする方が簡単でオイシイからな」
「……」
「まぁ確かに、伊崎は可愛いけど」
チラリと顔を上げれば、かち合う視線。
圭介は薄い唇を弧に描いたまま、私の肩を掴んだ。
「……でもお前だって、普通に美人だよ」
自然と伏せていく瞼、濃く香るトワレ。
影になる私。
「……タラシ」
「自分の彼女口説く分には、構わないだろ」
「……」
「ふはっ、照れてんの? まさかの純情キャラ発生中?」
「……ホントうるさい。ほら、もう出るよ。電気消すからね!」
「あははっ! 亜希可愛いー」
「いいから!」
「いつになっても初心って、ポイント高いと思うよ」
「勝手に言ってれば」
もう私たち二人しか残っていない営業所を後にするために、ドアへと早歩きする私。
そんな私に、のんびりとした歩調でついてくる圭介。
「……なぁ、亜希」
「何」
「お前って、相変わらず俺のこと大好きだよね」
そろそろ顔の熱りが引いたから、振り返ってみれば。
圭介はいつものように、ニヤニヤした笑みを浮かべていた。
自信満々な、付き合う前から変わらない――私にだけ見せる笑みを。
だから私も、ニヤリと口端を上げて。
溜息混じりに、言い返してやった。
「……圭介には言われたくない」
だってそれは、お互い様でしょ?
『損な役回りでも』
fin.