星猫カフェ—癒されたいあなたに贈る話—
傘を差しても肩までびしょ濡れの帰り道、ヒールの音が路地に虚しく響いていた。二十五歳の会社員という響きに、もううんざりしていた。
そのとき、路地裏の奥からオレンジ色の灯りが漏れていた。看板の文字は「星猫カフェ」。雨粒ににじんで、まるで溶けかけた星のようだった。
入るべきか、少し迷った。こんなところで寄り道したところで、明日が楽になるわけじゃない。でも、足が勝手にそちらへ向いていた。
「いらっしゃいませ……あら、濡れてるわね」
五十代半ばの女性店主が、穏やかな笑顔でタオルを差し出してくれた。店内は木の温もりに包まれていた。カウンターの向こうに古びた本棚が見え、壁には淡い水彩画が掛かっている。そして何より、猫たちが自由に動き回っていた。
黒と白のハチワレがゆったりと床を歩き、茶トラの大きな子がソファの上で丸くなっている。三毛猫の小さな子は、私の足元にすり寄ってきた。
「ここ、猫カフェなんですか?」
「ええ。でも、普通の猫カフェとは少し違うの。うちの子たちは、みんな保護猫でね。自由に過ごしてるのよ。今日はもう閉店時間だけど…雨がひどいみたいだし、温かいお茶でもどう?」
私は頷いた。ラテを注文すると、店主さんが星形のクッキーを添えてくれた。ラテの上には、猫の肉球のラテアート。ふわっとした泡が、ほんのり甘い。
「ねえ、屋上に行ってみない? 雨が上がってきたみたいよ」
店主さんに連れられて、狭い階段を上る。屋上は小さなテラスになっていて、猫たちも時々上がってくるという。雨上がりの空は、驚くほど澄んでいた。
「わあ……」
私は息を飲んだ。都会の真ん中なのに、星がたくさん見えた。細い三日月と無数の星が、黒いビロードのような空に散らばめられていた。
「ここ、星がよく見えるの。街灯が少ない方角に向かってね。
うちの子たちも、みんな星の名前なのよ。サン、スピカ、アルタイル……夜空にいるみたいに、自由でいて欲しいから」
店主さんは隣に腰を下ろした。茶トラの「サン」が、のそのそと寄ってきて、私の膝に頭を乗せた。ふんわりと温かく、ずっしりした生き物の重み。
店主さんは話してくれた。
「私、この店を始めたのは、五年前。夫を亡くして、ひとりぼっちで寂しかったの。でも、保護活動で出会った子猫たちに救われた。最初は猫たちに八つ当たりもしたのよ。でも逃げなかった。猫って、不思議よね。こちらが何も期待しなくても、ただそこにいてくれるの」
私は黙って聞いていた。喉の奥が熱くなり、思わず目を伏せた。少しだけ、自分の気持ちを話してみることにした。
「私……毎日頑張ってるつもりなんですけど、何のために頑張ってるのかわからなくなって。上司には『もっと大人になりなさい』って言われて……友達とも、最近全然連絡取ってなくて」
サンの喉が低くゴロゴロと鳴り始めた。その振動が、私のお腹の奥まで響く。夜の静けさに、ゆっくり溶けていく。
店主さんは微笑んだ。
「まあ、今日は何も考えなくて良いわよ。猫がいて、星が見える。それだけで十分でしょ?」
私はサンの背中をそっと撫でた。指の隙間から細かい振動が伝わってきた。すると、三毛猫の「スピカ」も音もなくやってきて、足元に体を預けてきた。店主さんは黙ったまま、静かに星を眺めている。風が、甘い花の匂いをそっと運んできた。
その夜、私はただサンとスピカの温もりに身を任せていた。
膝と胸に伝わる重みの中で、明日も明後日も続くはずの残業のことが、ふと遠く感じた。
それからというもの、私は心が折れそうになった日は星猫カフェに通うようになった。
最初はただ黙って星を見ていた。次に訪れた時は、スピカの名前を呼んでみた。スピカは嬉しかったのか、しっぽをピンと立てて「にゃあ」と鳴いた。秋が深まる頃には、店主さんと少しずつ自分の話ができるようになっていた。
ある冬の夜、空が特に澄んでいた。店主さんが特別に作ってくれたホットミルクに、シナモンが香る。猫たちはいつものように、私の周りに集まってきた。ハチワレの「アルタイル」は、私の膝を自分のベッドのようにして寝息を立てている。
「店主さん、ありがとうございます。私、最近転職を考えているんです。もう、パワハラはうんざりなんです。だからもっと、自分の時間を大切にできる仕事に」
店主さんは嬉しそうに目を細めた。
「素敵ね。うちの猫たちも、きっと応援してるわ」
テラスで、私は空を見上げた。流れ星が一つ、するりと落ちていった。
「あら流れ星。願い事、言った?」
「はい。秘密ですが」
店主さんと私はお互いにふふっと笑った。
流れ星が消えた後も、アルタイルの温もりが膝に残っていた。
ゴロゴロという喉の音が静かな夜に響くたび、私は小さく頷いた。
これでいいんだ——そう思えた。
あとがき
はじめまして、紫狐です。初投稿ゆえ、すこぶる緊張しています。
この物語『星猫カフェ』を書いたのは、雨の夜にふと「誰かの温もりに寄りかかりたい」と思った瞬間からでした。
私たちは毎日、頑張ることの意味を問われ続けています。二十五歳でも、三十五歳でも、五十歳でも。「もっと大人になりなさい」「もっと成果を出せ」「もっと強くあれ」……世界は、大人たちは容赦なく声を投げかけてきます。そんな時、誰かに寄り添ってもらいたくなる。「そばにいるよ」。
ただそこにいてくれる存在に、そっと触れていたくなる。
それが、この物語の猫たちです。
星の名前を持つ彼らは、何ら特別な力を持っているわけではありません。ただ、膝の上でゴロゴロと喉を鳴らし、重みと温もりを与えてくれる、小さな存在。でもその「ただそこにいてくれること」が、ときに奇跡のように心を溶かしてくれます。それは人間も同じ。ただ隣に座って星を一緒に見てくれる。それだけで充分な夜があると、私は思っています。
この物語を読んでくださったあなたに、星猫カフェの屋上と同じくらい優しい夜が訪れますように。そして、あなたの人生にもサンやスピカ、アルタイルのような、温かい出会いがありますように。
星空の下で、今日も誰かの膝の上でゴロゴロと喉を鳴らしながら、私はそっと願っています。
2026年 初夏
作者より




