大河がもたらした抱擁
老婆は両手でエレーヌがどこにいるのかを探します。エレーヌは老婆の手を取りました。
「エレーヌ様、逃げてくだせぇ。少しずつ大きくなっとります」
「それは、不思議な力で分かるのですか?」
「いいえ。聞こえます。この城の南西の向こうの方と北西から聞こえます」
水や土からエレーヌが連想したのは川でした。央の国にはどこまでも続く大河があります。世界1長いと言われています。それは山々の間や平野部を延々と流れ、水路で人々の流通を支えると同時に、下流では向こう岸が見えないほどの川幅で陸路を分断し、ときに大暴れして甚大な被害をもたらします。
エレーヌは老婆の言葉を信じました。馬車に繋がれている馬達の様子がおかしいからです。
「大河が暴れようとしているのですね」
老婆はエレーヌの言葉に頷きました。
「見てこよう」
2番目の兄は衛兵数人と共に出かけようとします。老婆は真っ白な目で訴えました。
「北西はすぐ近くんとこです。南西は音が遠い」
「承知した」
残ったファウストは地図を広げました。
大河の本流は央の国の南の方を東西に流れ、東の海へ注いでいます。小さな支流の1つが、別荘の南東方向から別荘の方へ来て、北に進路を変え、別荘の北側を通ります。
ほどなくして2番目の兄が戻ってきました。
「北の川が増水しています。北西のカーブしている部分の土砂が削られていました。今なら橋を渡れますが、朝には水嵩が増して渡れなくなります。上流で何かあったのでしょう。今、南西にある上流の方も見に行っています」
「そうか。ありがとう。私達は北へ行かなければならない。橋を使う」
ファウストは急な出発を決めました。
「兄上、川は氾濫するかもしれません。こちらは任せてください。状況に応じて、客人へ配慮します。被害が拡大しないよう、この地の者達とも対策を考えます」
「頼んだ」
エレーヌも「お願いします」と2番目の兄に言い、再び老婆の手を握りました。
「貴方のおかげで難を逃れられそうです。ありがとうございます」
その後は、すぐさま旅立ちの支度です。
『会いたい』
着替えながらも、エレーヌの頭の中はフォーでいっぱいでした。もう一度だけ姿を目に焼きつけたいと思いました。
『フォー』
荷物と共に、廊下を走り馬車に向かいます。エレーヌと侍女が乗り込むと同時に馬車は動き出し、ファウストが身を乗り出して、走る馬車の外開きのドアを閉じました。
北を流れている川はごうごうと激しい音を立てています。ほぼ橋と水面が同じ高さ。想像以上の早さで増水しています。渡るとき、ばしゃばしゃと馬が水を跳ねる音がします。もう少し遅かったら、暗がりの中で橋が分からず、渡ることができなかったでしょう。
「エレーヌ!」
強く強く想っていると、相手に通じてしまうのでしょうか。橋を渡ってしばらく走ったところでした。御者が馬車を止めました。もう難関は過ぎたので、急がなくても問題ありません。
ファウストはドアを開けたままの馬車から顔を覗かせます。
「フォー、こんなところまで来て。危ないぞ」
フォーが馬で追いかけて来たのです。
ほんの数時間前のベッドでの温もりを思い出し、エレーヌはフォーを真っ直ぐ見られません。それでも少しでも近づきたかったのか、体は反射的に馬車から降りていました。
「最後にこれだけ」
言うや否や、フォーはエレーヌをぎゅっと抱きしめました。圧迫された心臓が潰れそうです。それはほんの1秒にも満たない間。
好きで、好きで、好きで。答え方も伝え方も分からず、エレーヌはただフォーの背中に回した指に力を込めました。
体を離したフォーは、いつもの爽やかさで別れを言葉にしました。
「兄上、エレーヌ、気をつけて」
「フォー、気をつけて橋を渡れ」
「はい」
車内に戻ったエレーヌは、夜に感謝しました。思い詰めた顔も目に湧いてしまった涙も隠してくれます。
ガタゴトと馬車が走り始めます。
エレーヌの頭の中には、「誰のものにもならないで」というフォーの激しい言葉が駆け巡っていました。




