エレーヌ愚かさを知る
真上にあるフォーの顔は、両腕をベッドについたまま、距離が縮まることはありませんでした。その首に縋り、声を上げて泣くことができたなら、エレーヌは少しは楽になれたのでしょうか。
『誰のものにもならない。なれないよ』
こんな風にされたら、免疫のない16歳の女の子などひとたまりもありません。息が止まったまま返事もできず、エレーヌはただ頷きました。
フォーは、一瞬、哀しそうな顔をしました。けれどその後、エレーヌの鼻をつんっと触ると、元の位置に倒れ込み、眠ってしまいました。
『狸寝入り』
小さなころ一緒にお昼寝をしたので分かります。目を閉じていても、フォーの瞼はわずかに動いていました。エレーヌは、飽きるほどフォーを眺めることができました。耳、アゴ、唇の形。窓からのわずかな月の光は、彫刻のような造形を厳かに浮かび上がらせます。掛け布団から出ている肩の厚み。自分とは全く違う線を眺めていると、もそもそとフォーが動き、エレーヌの手を探り当てました。されるがまま、エレーヌは自分の手を差し出しました。
いつもフォーは、ふざけて、エレーヌの手や指をぱくっと口に入れて遊びます。そんなとき、口の中に唇を引っ込めて、唇が手や指に触れないようにしています。エレーヌは、またおふざけが始まると思っていました。きゃっきゃと笑い合って終わると。
フォーの親指が、エレーヌの指の形を記憶するかのように優しくなぞり始めました。左手の人差し指の横、第二関節、第一関節、爪。フォーの人差し指と中指も加わり、エレーヌの指をなぞります。付け根を通って、中指の第二関節に移ります。第一関節、爪、指先。左手の全ての指の形を確認すると、ぎゅっと握りました。
そのときエレーヌは、激しく打っていた心臓まで、ぎゅっと握りしめられたように感じました。
エレーヌは「憧れと恋は違うよ」と言った自分の愚かさを知りました。
自分にとって、ラインハルトは憧れで、恋の対象はフォーだという意味で、その場しのぎに遣った言葉です。大間違いでした。このときまでのフォーが憧れで、今の気持ちが恋なのです。恥ずかしいような泣き出したいような苦しいような燃えるような。
握られた指からフォーの体温が伝わってきます。
『きっと……フォーも私を好き』
食事会のとき、確かにフォーは「種類とかカンケーなくエレーヌだけを好き」と言いました。軽く。けれど口調とは裏腹に、本当は、いつものフォーの爽やかな雰囲気からは全く想像できないほど強く、自分のことを好きなのだと確信しました。
エレーヌは、嬉しさに目が熱くなりました。
どうしていいのか分からず、目を閉じたままのフォーの前で、自分もそっと目を閉じました。自分の気持ちを抑えている息の音が聞こえます。心臓が絞られて涙が出そうです。
5分なのか1時間なのかも分からない不思議な時間が流れました。沈黙のまま。やがてエレーヌの心臓は鎮火してきました。それと共に眠くなりました。ときどきエレーヌの指は握り直され、その度に睡魔から少し引き戻されます。
『どうしてこんなにもステキな人が兄なの』
エレーヌは神様を恨みました。もっとカッコ悪くて何もできなくて不潔で下品で性格の悪い人だったら好きになどなりませんでした。自分の兄がそんな人だったら困りますが。
「エレーヌ様、エレーヌ様、開けてくだい、エレーヌ様」
ドンドン ガタガタ
侍女がドアを叩き、無理に開けようとチェストを揺らします。朝でした。
飛び起きたエレーヌは、咄嗟にベッドの隣を見ました。フォーはいません。その場所は、まだほんのりと温かさが残っていました。
エレーヌはほっとしました。2人が子供のときから仲がいいことは、家族や使用人達が知っています。それでも、16歳と17歳の男女が一晩、同じベッドに眠るのは、あらぬ誤解を招きます。
本当にあらぬ誤解と言い切れるのでしょうか。もちろん、大人が詮索するようなことは起こっていません。けれど、エレーヌが感じた気持ちは明らかに恋でした。「誰のものにもならないで」という激しい言葉が頭の中を駆け巡ります。
門番がフォーからの伝言を預かっていました。それを読んだファウストは皆に伝えました。
「急用を思い出したんだってさ。きっとフォーは、女の子のとこにでも行ったんだな」




