カフスボタンの忘れ物
貴婦人はお城で赤ん坊が生まれた話を聞いて、ぼろぼろと涙を流しました。
そして、貴婦人が滞在している間、老婆の家には、肉や野菜、パンなどが届けられました。数日後、再び馬車が来て貴婦人と赤ん坊を連れて行きました。素性は明かされませんでした。
「おらん家はな、城の裏門からの1本道や。馬車は城から来たとしか思えんでした」
老婆の家の場所を聞くと、その通り1本道で、道沿いに貴族の屋敷はありません。城の周りに点在する貴族の屋敷からは馬車用に整備された道があります。エレーヌも老婆と同じように、城の裏門から密かに出された馬車ではないかと思いました。
「それは何年前ですか?」
エレーヌは尋ねました。
「それが、最近、1年がよう分からんのです。20年以上前やった気もするし、5年くらいしか経ってない気もするし」
「では、赤ちゃんは男の子でしたか、女の子でしたか?」
「それも覚えとりません」
「血に染まった空というのは?」
「遠くの空がそこだけぼーっと赤かったんです。周りは真っ暗なのに。夕焼けでも朝焼けでもねぇ。夜や。南の方で。まだそんころは、目ぇ見えたんです」
長生きし、老婆以外にこのことを知る家族はいなくなってしまったそうです。とても重大なことのような気がして、死ぬ前に誰かに伝えなければならないと思っていました。そんなとき、星宿る海について知りたいと、高貴な人が家に来たのです。
老婆は高貴な人に話しました。すると「直接、王女様に伝えた方がいい」と言われたそうです。
「それは誰ですか?」
エレーヌは尋ねました。
「分かりません」
「では、貴方は今日、誰に連れらて来たのですか?」
老婆は、星宿る海のことを調べに来た高貴な人が馬車を用意してくれたと言います。
「それは男の人ですか?」
「はい。今ぁ目は明るいか暗いかくらいしか分からんですけども、耳は聞こえます。んで、その人ぉ家においでたとき、これ落としていった。今日渡すつもりやったら、今日は馬車だけでその人、おらんでやった」
カフスボタンでした。老婆は馬車の運転をする御者に渡そうと思っていましたが、馬車は、老婆を下ろすと、どこかへ行ってしまったのだそうです。
エレーヌは、震え続ける老人の手からカフスボタンを1つ受け取りました。金と銀の模様の高価な物です。
エレーヌは老婆にお礼を言い、謝礼を渡しました。使用人にお願いし、今晩泊まる部屋を用意させ、翌日、老婆を家まで送り届けるように申しつけました。
「ずっと大事な言伝を預かっとるような気持ちでした。これで安心して天国ぅ行けます」
「まだそれは早いですよ。長生きなさってください。他にも何か思い出したことがあれば、ぜひ、知らせてください」
部屋を出ようと侍女に手を引かれていた老婆は、ドアの手前で振り返りました。白い眼球がエレーヌに訴えます。
「船。船の絵。貴婦人の持っとったハンカチに船の絵ぇありました」
エレーヌは考えました。今の話は他の人に知られて大丈夫な話だったのかどうかを。
何年か前、王家に子供が生まれた日に、貴族の女性が生まれたての赤ん坊と共に老婆の家の横を通ろうとし、数日滞在したーーーそれだけのことです。
それでもエレーヌは、老婆を別荘に導いたのが誰かを知りたいと思いました。カフスボタンを届けなければならいのもあります。左右揃わなければ使えない物ですし、とても高価です。
老婆の話は嘘とは思えませんでした。
王家に赤ん坊が生まれた日、老婆の家に貴婦人と赤ん坊が来た。5年から20年以上前ということは、エレーヌの兄妹全員が当てはまります。1番目の兄は24歳、2番目の兄は23歳、3番目の兄は19歳、4番目の兄は17歳、エレーヌ16歳。
『実は城で生まれたのが双子で、1人は貴婦人に託された?』
エレーヌは推理しました。しかし、双子が忌み子と言われたのは遠い昔。現在は幸せが2倍とお祝いします。2人が老婆の家に数日滞在したということは、貴婦人は母乳が出たということです。貴婦人は赤ん坊を産んだ女性なのでしょう。
ここで疑問が生まれます。まあ、もともと疑問だらけなのですが。現女王も赤ん坊を産んだではありませんか。城からの伝令が走っていたというのですから。出産は生死を分ける大事です。もし、貴婦人が連れていた赤ん坊が生まれたばかりで貴婦人の赤ん坊なら、貴婦人は赤ん坊を産んだばかり。そんな状態で馬車に乗れるものなのでしょうか。
そして、なぜエレーヌに伝えるのでしょう。長男のファウストの方が適任な気がします。これを判断したのは、高貴な人。今日、この別荘へ来ているのは間違いありません。星宿る海について聞きにきたのですから。
「どうなさいますか? エレーヌ様。みなさんが広間でお待ちです」
「時間がない。私、この服のままで参加する」
「かしこまりました」
「あのね、用意して欲しい物があるの」
町娘の服のまま広間に現れたエレーヌは、拍手で迎えられました。
最初に挨拶と乾杯です。エレーヌは、挨拶の後、カフスボタンが届いていることを皆に伝えました。持って掲げました。ささっと見渡したところ、参加者の袖口はビシッと決まっています。当然でしょう。このカフスボタンは、先日、老婆の家に忘れられた物なのですから。
その場で名乗り出る人はいませんでした。想定内です。エレーヌは、カフスボタンを広間の一角、彫刻が飾られているところに花瓶を乗せる台を用意し、少し深い果物皿に入れました。持ち主がパーティの合間に持っていけるようにしたのです。
「皆様の健康と美しさ、央の国の繁栄に乾杯」
「「「「乾杯」」」」
食事をしながらの談話が始まりました。もちろんテーマは「星宿る海」。




