このままでいられたら
山道が続きます。人があまり通らないのか、道が整備されておらず、民家はほとんどありません。ファウストは早馬に届けられた手紙を手にしています。2番目の兄からの報告でした。
「別荘は無事だった。原因は、上流の集中豪雨だ。あの日、念の為、朝食の時間を短くして、皆に早く帰ってもらったそうだ。北西の土砂が削れてしまったところは、工事済み。南西は川のルートが変わったらしい。湿地帯だからそのまま」
「大事に至らなくてよかったです」
「私は、いずれ、あの湿地帯をなんとかしたいと考えている。川を整備すれば肥沃な土地になる」
「母なる大河ですものね」
「ああ」
エレーヌは老婆のことをファウストに相談しようと思いました。ココアパウダーの件を伏せて。
老婆を別荘へ招いたのは、フォーかラインハルトか3番目の兄。
調べるまでもなく、一緒に旅立つファウストは、旅の準備と挨拶回りで老婆の家を訪れる時間などありませんでした。
「そうか。そんなことが」
話を聞いたファウストは考え込みました。
「嘘や芝居とは思えませんでした」
「せめて何年前か分かれば。せめて男の子か女の子かだけでも。貴婦人が誰なのか」
「貴婦人のハンカチに船の絵があったそうです」
「それは珍しい」
「はい。私も思いました」
貴婦人のハンカチといえば、白にレースか、花柄の刺繍なのです。エレーヌは船の絵のハンカチを見たことがありません。
「遠くの南の空が血で染まった夜とは、どういうことだろう」
「分かりません。夜なのに、遠くの空が赤くなっていたそうです」
「火事があったのだろうか。あるいは暴動。戦争は違う。戦争が起こるような場所からは離れている。遠くの空が見えたということは、夜、天気が良かったということ。うーん。嵐や雷でもあったなら印象に残ってるだろうが」
ファウストは、兄妹達が生まれた日のことを、一生懸命思い出そうとしました。
「お兄様が分からないなら、もう」
エレーヌは、この件の追及を諦めようとしました。ファウストは別のことを懸念します。
「議会では、穏健派と強硬派の対立が激化している。女王は穏健派寄り。強硬派が何かを企んでいて、エレーヌを巻き込もうとしているってことはないだろうか。或いは、ゆくゆくは女王になるだろうエレーヌを抱き込んでおこう、という考えだったり」
央の国は概ね平和です。それは、政治家達が日々考え、議論を戦わせているからです。討論の多くは、穏健派V.S.強硬派で行われます。2つの派閥は常に戦っています。
別荘に集まっていたのは若者ばかりでしたが、政治は貴族が行なっているので、一族の若者を駒にする可能性はアリ。
ファウストに伝えていませんが、ココアパウダーから、カフスボタンの持ち主=老婆を招待した高貴な人、の候補は3人。3番目の兄とフォーとラインハルト。3番目の兄はバイオリンを手入れするときに松ヤニを使いますし、フォーがエレーヌに隠し事をするとは思いたくありません。フォーの場合は、うっかりデザートのココアパウダーが付いて取れなかっただけという結論に、エレーヌの中で落ち着いています。仮に、その2人のどちらかだったとしても、女王の息子なので穏健派の分類です。どちらも政治に関わりがあるとは思えませんが。
ラインハルトの一族は、穏健派です。
「政治的なことは、恐らくは関わりないと思います。私はまだ16歳ですし」
エレーヌの言葉に、ファウストは少し悲しそうな顔をしました。
「いっそ、ずっと13歳くらいでいて欲しいよ」
14歳は、古くから女王が後継者作りを始める歳です。エレーヌの場合は特別に母親が守ってくれていただけです。それでもとうとう「お婿さんを」と言われてしまいました。
「この旅で星宿る海を見つけても、見つけなくても、旅が終わったら、後継者として考えます」
「エレーヌ……」
ファウストは、正面から手を伸ばし、エレーヌの手首を掴みます。
「お兄様?」
「ああ、ごめん」とファウストは手を戻します。
「つい、10歳のころみたいに抱きしめたくなった。失礼。もうできないね」
年の離れたファウストは、小さなころからエレーヌを抱っこして可愛がってくれました。よく、高い高いをしてくれたのはファウストでした。
「綺麗になりすぎた……」
そう呟き、そのまま黙り込んでしまいました。
馬車は揺れ、旅は続きます。狭い馬車の中、重要な話のとき、護衛や侍女はさりげなく寝たふりをしてくれます。そろそろ2人を、寝たふりから解放してあげなければいけません。
「央の国は豊かですね。来年も豊作でしょう」
エレーヌは車窓から夜空を眺めました。
!
「止めてください」
馬車から降り、遠くの空を確認しました。
夜空の下の方が赤紫色になっています。夕焼けではありません。そんな時刻は過ぎていますし、上の方はいつもの黒。星が瞬く夜空です。
「北の方の空の色が。あれが血に染まった夜ではないでしょうか」
エレーヌは、老婆の言葉に一歩近づいた気がしました。
「どうだろう」
「もしも火事なら、血の色ではなく、オレンジ色に近くなると思います」
「あれは、血というより、紫に近い。しかも光っている」
「そうですね。あれは何でしょう」
「分からない。空のカーテンと関係あるのかもしれない」




