【第3章】森の中でポツンと暮らすおじいちゃん半妖受けが若い青年に絆されていく、約束の恋愛小説。
野菜の小さな畑から帰り部屋へ入ると、開け放ったままの縁側でまた信大が庭を見て座っていた。
ただいま、と土間から落ち着いた声で話しかけたが気づかぬようで、信大は黙って庭のもっと向こうを見ているようだった。
紡久は彼の邪魔をしてはいけないと思いつつも隣へ行き、そっと腰を下ろす。気配に気づいた信大がぱっと横を見た。
「どうだ、まだ身体は怠いか?」
傷は癒やしても、聖水は人にとって万能じゃない。あんなに酷い怪我をした信大が昨日の今日ですぐに野を走り回れるはずはなかった。
「おかえりなさい、紡久さん」
紡久の問いには答えず、信大が人懐っこく笑う。どき、と紡久の鼓動が跳ねた。かわいい顔で笑うんだな、と思ったが言葉にはしないでおく。
「ここ、気持ちいいですね。暑いけど風が吹き抜けるから」
「そうだな」
何だか気分が良い。信大が居るだけで見慣れたこの何もない家の中が華やぐ。
妖怪以外の客人など本当に久しぶりで、紡久は何かしら信大を構いたくて仕方がない。だけどこの客人は何をしたら喜ぶのだろうか。
脚を伸ばして背伸びをする。彼の言う通りここは風が吹き抜けて汗が冷やされ気持ちがいいのだ。
「あれ、紡久さん背中に入れ墨してます?」
言われ、「あっ」と声が出た。慌てて甚平の襟をたくし上げたが、もう信大に見られてしまった。
「……なんか、隠したかったですか?」
「いや、見るな、これは……呪いが移るぞ」
言葉にしてから、紡久は後悔する。そんな事はもう信じていなのに、不意に昔の事を思い出してしまった。
「呪い?」
何も知らない信大が目を丸くして聞き返す。こんな言い方をすれば興味を持ってもおかしくはない。紡久が悪い。
「……生まれながらにここ、うなじに濃く赤い痣があってな。年々、背中に広がっていくのが恐ろしいのだろう、皆、私を遠ざける」
「ええっ、大丈夫なんですか、それ? だからこんな山奥に独りで住んでるんですか? 若いのにどうしてこんな所で昔の生活をしてるんだろうって思ってたんです」
素直な性格なのだろう、信大が心配そうな視線を寄越す。怖がられることはあっても心配されたことはこれまでにも無く、紡久はその反応に面食らった。
「大丈夫だ、私の身体はなんともない。ただこの地でその時を待つだけだ」
「その時? 何かあるんですか?」
瞳を覗き込まれ、紡久はわざと前を見て視線を逸らす。これ以上、信大に何を言うつもりはない。これまで誰にも話さずひとりで抱えていた土地との約束とこの青年はなんの関係もない。優しさに甘えてしまいそうになりながらも、紡久は信大の瞳を振り切った。
覚悟はとうにできている。生まれながらに定められた百五十年という月日。背中の痣が全身、脚へと到達し“その時”が来るまで紡久はこの生家で気ままにのんびりと過ごせればそれでいい。
“その時”が来れば、この土地に縛られもう二度とこの足で地面を蹴ることは叶わないのだから。
ぐう~~~、と不意に小さな音がした。
「あっ、すみません、俺……っ」
信大の腹の音だ。そういえば、あれから食事をしていない。夜遅くに握り飯を食べさせたきり、朝も昼も何の用意もしていなかった。
「済まないな、つい食事を忘れてしまう。昨日炊いた白米があるからそれを食べよう」
「ありがとうございます。紡久さんはお腹空かないんですか?」
「ああ、私はいい」
答えてから、紡久はまた「あっ」と内心でひやりとしたものが巣くう。信大は普通の人だ。紡久の感覚で変な事を言ってはまた質問が返ってくるだろう。
紡久は半妖なのでさほど人の食事を必要としない。たまに少しの聖水を摂取していれば死ぬこともない。だからつい、準備の大変な食事を怠ってしまう。
「やっぱり私も一緒に食べようかな」
わざと言葉にして言い、紡久は縁側で立ち上がった。
土間へ降りて鉄鍋を持ち庭の井戸で水を汲んで戻りそれを竈へ置き、火をつけて自分で育てた葉物野菜で味噌汁をつくる。ついでにもう一方の竈で昨日炊いた白米を蒸して温めた。
「ごはん? ごはん?」
「ああ、お前たちも食べるか? 白米は冷たいままでいいよな、お前たちは」
「うん、たべる」
「やったあ、白米だー」
土間に集まった小物妖怪たちが嬉しそうに踊っている。二日続けて人の食べ物がもらえる機会はそうそうないからだろう。人の食べ物は妖怪にとってご馳走なのだ。
「紡久さん、俺も手伝います」
難なく歩けるようになった信大が土間へ降りてくる。体力が戻るまでは少しでも動いた方が良い。紡久は頷いた。
「じゃあ、そこに膳をふたつ並べてくれ」
「はい」
隅に重ねて置いている膳を信大が並べる。その上へ紡久が白米の入った茶碗と味噌汁の椀、そして箸を置いていく。ついでに妖怪たちの為に、畳の上へ白米の茶碗を三つ並べた。
「あれ、茶碗多くないですか?」
「ああ、良いんだ」
妖怪たちが食べるから、と言いかけて紡久は黙る。また変な事を言ってしまいそうだった。
「はやく、はやく」
「たべていい?」
「たべる」
「いいよ、食べて」
紡久が許しを出すと、数体の妖怪が一目散に手を出し、両手で白米を頬張った。
膳の上は紡久のもの、畳の茶碗は妖怪のもの、という決め事をしっかり守っている。妖怪が人の言う事を聞くなんて普通はあまりないらしいが、この妖怪たちとの付き合いはもう百年近くにもなるので紡久の簡単な願いくらいは聞いてくれる。そんな彼らがかわいいとさえ紡久は感じていた。
「紡久さん、さっきから誰と話してるんですか?」
信大の戸惑ったような声にどきっと鼓動が嫌に鳴る。しかし友達の妖怪たちを無視しては可哀想かと、紡久はこれまで通り彼らと会話していた。
「あ、ああ。お前には見えないんだな。この辺りには昔から妖怪が住んでいてな。持ちつ持たれつ、私も彼らに助けられているんだ、怖がらないでやってくれ」
慌てた鼓動を内心で落ち着けながら、紡久は何でもない事のように穏やかな声を心掛ける。
ちらっと信大の様子を窺えば、彼は驚いた様子で目を見張っていた。
「妖怪? じゃあこの多い分の茶碗は妖怪のものですか? 入っていたごはんが目の前で消えてびっくりしたんです」
やっぱり驚かせてしまったか、と紡久は苦笑する。しかし妖怪たちは何も悪くない。ただそこに在るだけの彼らを責めないで欲しい。
その時、ふと、ごごご……と低い地鳴りがして地面が揺れる。まただ、また地震がきた。
「あっ、……膳が!」
「いい、危ないからしゃがんでいろ」
揺れる最中、ふたつの膳が土間の砂の床へ落ちる。こぼれた白米と味噌汁の具を求めて妖怪たちが群がった。
地面が揺れていても妖怪には何という事もないのだ。
じきに揺れが収まり、畳の上で膝を突いていた信大が大きなため息を吐く。
「はあ、大きかったですね。大丈夫でした? その……妖怪も」
そうして紡久の見ている目の前で落ちた膳と空になった茶碗を拾った。
「ふふ、妖怪たちはお前よりずっと強いぞ。私も含めてな」
くすっと笑い、紡久も起き上がる。竈の火の始末をした後で良かった。家に燃え移ったら大事だ。
「ええと、紡久さんも妖怪なんですか? あっ、いやそんなはず無いですよね、すみません」
信大の純粋な疑問が返ってくる。言われれば確かに今の言い方は紡久も妖怪だと言っているようだ。隠したいわけでもないが、人は自分と違うものを受け入れられないものだ。家族でさえ紡久を妖怪だと罵った。
だが信大はどうだろう。紡久の話を信じてくれるだろうか。信じてくれたら紡久を怖がるだろうか。しかしこの素直な男は他と違うような気がした。
「私は半分人、半分妖怪の半妖でな。人でも妖怪でもない、人になり損ねた存在さ」
「え……」
どうしてだろう、自分が悪いなどと思った事もないのにどうしてか卑下した言い方になってしまった。こんな風に聞けば、人は紡久を否定するに決まっている。
土間の縁のすぐ近くの畳の上へ正座し、信大は何も言わず少し離れた床を真剣な目で見つめている。信じたというよりは、紡久のような人ならざるものの存在が珍しいのかも知れない。
「私が怖けりゃ出ていけ。傷はもう殆ど癒えただろう」
低い声が出た。この男を責めることなど何もないのに、心がざわつく。久しく忘れていた怒りに近い感情が湧き上がる。どうせお前も私を拒絶するのだ、と。
ふと信大が顔を上げ、両手を丸めて膝に置きこちらを見た。凛々しい顔つきは笑っておらず、眉間に皺を作っていた。
「いえ、怖くないです。あなたは俺を助けてくれたんだ」
なんとも男らしい、芯の強い瞳だろうか。建前でもいい、半妖の紡久を怖がらないらしい。
「例えば森の獣、そうだな……熊や獅子がお前を助けたとしよう。だが奴らは人を食う。半妖の私とてお前を喰わないとは限らんぞ」
うすら笑いを浮かべわざと怖がらせるようなことを言い、信大を試す。
「喰われる」と知れば大抵の人は逃げ出すだろう。それで良い。瞳の奥に燃える何かを持つこの男をこんな土地に縛り付けては不便だ。さっさとここを出て行けばいい。
「……どうして悪者のフリをするんですか。看病して食べ物まで譲ってくれたのに最後には食うんですか。じゃあなんの為に助けて生かしたんですか。紡久さんは俺を食わないです」
信大の瞳が真っ直ぐと紡久を貫く。そんな熱い目で見ないでくれ、嘘が知れてしまう。聖水を舐めていれば死なない紡久に人を食う趣味はなかった。
そこでふと気づく。紡久は彼に甘えていた。この純粋な男に自分を否定しないでくれと、試しながらも甘えていたのだ。
「そうか、意地悪をして悪かった。飯にしよう」
たった今、準備した膳は地震で倒れて妖怪たちに全て食べられてしまった。だから紡久は先ほどの手順をなぞり、改めて味噌汁を作り白米を温める。信大はそれをただ側で見ていた。
もう怒りはない。この男に対し何故それと似た感情が湧いたのかは紡久自身も不思議だが、信大は何か持っている、そんな直感を得た。
理由のない落胆に似た怒りがいつの間にか嬉しみに変わっているのだ。無条件で紡久を信じてくれる信大の心の深さに惚れたからかもしれない。




