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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

醜い接ぎ木

作者: でこもり

 ポエムメインのお話です。三人の男が別方向で恋をしています。


 美しい貴方に恋をしていました。貴方は美しいだけで中身は目を背けたくなるほどに醜かったけれど、そんな貴方の醜悪な部分でさえ覆い隠してしまうほどの恋をしていました。でも本当はそんな美しくない貴方のことを、強く強く抱き締めたかっただけだったのかもしれません。貴方がどれだけ醜い人間か良く知っているからこそ貴方の心の中にある雀の涙ほどの善性を、空に浮かぶどの星よりも尊いそれを愛おしいと思いたがっていたのかもしれません。

 最初、貴方のことをどんな人よりも高潔で真実美しい人なのだと思っていました。静かで穏やかな声色も、鋭利で端整な横顔も、どこからどう貴方を眺めていても貴方は自分の目から見て美しさを損なうことが無かったからです。貴方と出会ったあの日も、貴方はほの暗いだけの真っ白な昼に一人煌々ときらめいていて、草木を照らすどの神秘よりも神聖に清純に見えました。そこから諾々と月日が流れ本当の貴方を知ってもなお、貴方に恋をしています。

 殺したいほど憎んでいる貴方を今この瞬間も、恐らく僕は泣きたいくらいに愛しているのです。



 数年前の白い冬の昼間、赤い椿の咲く庭園。その日は鼻の奥を突き刺す寒さで、いつもは柔らかに暖かさをもたらす太陽も灰色の雲に薄く覆い隠されてしまっていました。

 幼い頃何を思うでもなく走り回っていた庭園の縁起が悪いといわれていた意味を、大人になり訪れたその日改めて理解しました。その広い庭園は手入れが行き届いているけれど、どこを見渡しても椿しか植えられていない、異質な庭園であったからです。冬になるまでは背の低い木が茂る何もない庭であるのに、冬になれば一つまた一つと大ぶりな花が咲き、季節が過ぎれば花が落ちる。咲き乱れる頃になれば花の香りと落ちた花で、現実世界から一つ切り離された空間の様に感じられました。


「椿」

「母さん、久しぶり。3年ぶりくらいかな」

「そうね、本当に久しぶりだわ。椿に会うのも、ここに来るのも」

「うん。ここって、こんな場所だったんだね。子供ぶりに来たからかな、なんか、不思議な気分だよ」

「兄さんとは連絡は取っていなかったの?」

「うん、まあ個人的な連絡先も知らなかったし」

「そう、兄さんは最後まで一人だったのね」

「……一人、か」


 幼い頃の私はこの庭が好きでした。好きだった理由は単純で、私に良くしてくれていた叔父とこの庭を訪れる度に、ここは私のための庭だと言っていたからです。叔父と手をつないで散策したり、近所の子供たちと駆け回ったり、隠れ鬼なんかをして遊んだ思い出の場所でした。聞くと叔父は昔から椿が好きで、冬に生まれた私の名づけの時に椿を候補に挙げたほど寵愛していたと言います。庭を造り、わざわざ私の手を引いて言って聞かせるほどに椿を愛していたのです。親族の中でも変わり者であった叔父は、私にとって静かで穏やかな優しい人でした。


「手を離してはいけないよ。逸れたら、お前を見つけられる自信がないからね」


 叔父は、枯れ枝のような人で、不思議な空気をまとっていました。口数は多くなく気弱な雰囲気ではあったけれど、喋っていると楽しい頭の良さがあったように思います。


「えー、でもここは叔父さんの庭でしょ? きっとすぐに見つけられちゃうよ」

「ははは、でも椿の庭だから。隠されてしまったら、見つけられないさ」

「椿の?」

「そう、お前の名前の花で、お前のために作った庭だよ」


 そんな叔父の葬式で久々に来た椿の庭は俯瞰して見れば聞いていた通り確かに不気味で、あまり昔を懐かしむたちではないけれど、結局純粋にこの場所で感傷に浸ることの出来ない自分に何て薄情なのだろうかと思いました。親族のみの小さな葬式は静かで、姉である母のすすり泣く声を供に叔父は簡単に煙となり、所在ない私に残ったのは線香の香りと生ぬるい記憶の残る辛気臭い庭、そして、見ず知らずの貴方だけでした。

 そっと草木を分け入って、私は庭園の奥にある東屋を目指していました。雨宿りや内緒話を叔父とした屋根と椅子だけの簡素な東屋。外は寒かったけれど、なんとなく私は寂しくて少しでも良い思い出を思い出せそうな場所を探していたのです。そうしてたどり着いたそこに貴方はいました。目に映るのは雪の白と椿の赤、植木の深い緑の葉、佇む喪に服した貴方の黒の対比が美しかったことを鮮明に覚えています。立ち尽くす貴方は背が高く、葬儀の参列者にしては若い風貌で、背中に一本芯が通った佇まいでした。一人背筋をピンと伸ばしてほとほとと泣いている貴方が赤に囲まれた空間は息をのむほどに完成していたように思います。生気の無い白い肌に涙でぬめり艶めく黒い瞳が私の目には不釣り合いに色めいて映り、雪の中投げ出されていた貴方の視線がゆっくりとこちらに向いた時、それが私が恋に落ちた瞬間でした。


「恋を、していました」


 低く涙に濡れた声に心臓が震える感覚がしました。見ず知らずの男性が涙を流している姿に私は何と声を掛けるべきか分からず、その場に立ち尽くすことしかできずにいました。


「恋をしていたんです。身を裂くような、辛い恋でしたが、それでも手放しがたいものでした。幸せだったと大手を振っては言えませんが、離れがたいものでした」


 椿の園の奥、秘事の様に貴方は口を開き、音を紡ぐ。細々と、しかし確かに音にして。それは何に対しての、誰に対しての言葉であったのか私には分かりません。ただ自分に投げかけられた言葉ではないことだけが分かっていました。


「あの人に、恋をしていたんです。こうして泣いてしまうほどの喪失感を抱えるくらいに、大きく心を奪われていました。尊いと思えるほどの恋をしていました」


 流れる涙はガラス玉のように澄んでいて、口から零れ落ちる言葉は祈りの言葉に聞こえました。雪がちらつき始め、降る雪の白は貴方がいかに潔白であるかを証明するかのように穏やかでした。やっと絞り出した言葉は貴方の涙に対するつまらない質問で、貴方の呟きの間に挟まる沈黙に耐えられなかった故の中身の無い問いかけだったと思います。


「…恋、だったんですか」

「恋をしていました」

「辛かったのに、それは、恋だったんですか」

「辛くても、恋だったんです」


 貴方は真っ直ぐな瞳をして、私を見ていました。流れる涙をそのままにして、私を見つめていました。


「辛いのが、恋なんですか」


 貴方と目が合った時 時が止まったような心地がしました。潤んだ切れ長い瞳と、初めて視線が交わったからです。そのまま、貴方は首を振りました。貴方が首を振ると涙がぱらりと散って美しかった。降る雪は細かく積もることはありません。貴方と私の吐く人肌の息でさえ水になってしまうほど、小さな雪だったからです。


「僕の恋が、きっとうんと辛かっただけでしょう」


 けれど、冷え切った貴方の短い髪と長い睫毛に粉雪は優しく積もっていて、私の少し長く切りそろえた髪はしっとりと冷たく濡れていました。それは貴方が長いこと外で泣いていたことを私に理解させたのです。あの日、あの白い昼間に、私は涙に濡れた可哀想な貴方に恋をしたのでした。恋とは、憧れである。恋とは夢のようなもので、夢想であるから恋とは美しく離れがたいのだ。そう、よく叔父は私に言って聞かせていました。確かにそうであるようだと、このあまりに美しい人を見つめながら私は思います。でも、夢とはいずれ覚めるもの。だから、恋は夢なのでしょう。貴方、あなた、美しい貴方。嗚呼、どうして貴方はそんなにも、酷い人なのでしょう。



 少し煤けたドアノブを引くと、カラコロとベルの音が鳴る。熱すぎる都会の熱気で逆上せた肌に冷えた空気が染みわたり心地がいい。カウンター内にいる顔なじみの店主に微笑みで挨拶をして、奥にあるテーブル席を目指す。そこにはいつもと変わらないつまらなさそうな顔をした男が腰を落ち着けている。奥まった場所にあるテーブル席は昼間でも薄暗く間接照明のオレンジの光が机のガラスに反射していた。「こんにちは」と、私が声を掛けると能面のように表情を崩さず男も「こんにちは」と挨拶を返してくる。視線は大して広くないテーブルに開いたノートパソコンの画面に向けられたままだった。

 私が前の椅子を引くとやっと男はパソコンを閉じ、冷めているだろう珈琲を口に含む。彼は吸わないのに用意されている灰皿が、私には少し気味悪かった。私が腰掛けたタイミングで店主が冷たい水を机に運び、ついでとばかりに注文を取る。私はいつものブレンドを注文し、煙草を咥えマッチで火を点けた。

 私は香ばしい煙を深く吸い込み目の前の男に吐き出した。煙草嫌いな男は煙に眉を顰め、白い手で煙を払う。低い音のジャズが流れる店内に、沈黙の空気が流れていた。私を呼びだしたのは目の前の男だったが男は口を開くことは無く、感情の無い目で私を静かに見つめるだけ。そして、私も煙の向こうの男を見つめていた。黒目の大きな睫毛の長い瞳は昔と変わらず、二人が出会い過ぎた季節分年かさを感じられる。嫌に真っ直ぐな目をしていて、私はその強い視線が好きで、大嫌いだった。

 フィルターにほど近くなった煙草をもみ消し。男に笑いかけた。丁度よく熱いコーヒーがテーブルにやってくる。私がカップを持ち上げると、添えられた細いスプーンがかちゃりと音を立てた。


「話が、あるんだったっけ」

「ええ」

「呼び出した割には態度が悪いし、何もしゃべらないんだね」

「すみません」

「別にいいさ。貴方ってそういう人だもの」


 私は微笑みながら、熱いコーヒーを一口含む。深入りの煙草によく合うコーヒーは苦みが強く、私は旨いとは感じない。


「ねぇ、話があるならさっさと行ったらどうだい。私は貴方に話したい話題は特にないから」

「……」

「どうせ、いつもの別れ話でしょう?」


 男は、不愉快そうに眉をピクリと動かす。動かすだけで肝心の話題は口にしない。私は、男のこういう所が好きではなかった。男は知れば知るほど不愉快な男だった。陰気で独りよがりで、夢見がちなロマンチストだ。誠実そうに見えてそうではなく、人任せなくせに頑固で、言葉にしない癖に知ってほしいという態度を取り、自分の機嫌で相手を操作しようとする。今もそうだ、不快だと表情と雰囲気で語るくせに口には出さない。いつも、私は男にとっての加害者だった。


「僕は、君を愛することが出来ません」


 男は端的に呟いた。


「そう、それで?」

「僕は君を愛することが出来ません。なので、この不毛な関係を早く解消しなければと、思っています」

「あぁ、そう。貴方が、そんなことを言うなんて、馬鹿らしいね。この関係に踏み出したのは、貴方の方なのに」


 私は笑顔で男を突き放した。男の被害者面が本当に不快だったからだ。気にならなかった陽気なジャズが不快で、煙たい煙草の香りが不快で、男の濡れる瞳が不快だった。


「だが、君はもう、僕に恋をしているわけじゃないでしょう。あの時とは、状況が違います」

「そうだね、私は確かに恋をしていた。恋に憧れていて、恋心という甘い理想を手放すことが出来なかった。叔父と過ごした幼い日々の中、私に恋をしていたあの人のように。叔父は私に恋をしていたけれど、愛してはくれなかった。私も、叔父を愛しはしなかった。叔父を見て分かっていたからだ。それは妄想で、夢想でしかないと。決して真実などではなく、貴方に私が夢を見ているように、貴方が叔父に理想を抱いていたように。私たちは、理想を抱いて藻掻き苦しみ、他人に絶望する愚か者なのだから」

「であれば、もう、十分でしょう」


 目の前の男は、いつも、悲しそうな顔をしている。手を差し伸べられるのを、己の毒牙にかかるのを待っているのだ。私は、そうして絡めとられるばかり。どうして二人はこんな風になってしまったのだろう。


「ねえ、貴方ってどうしていつも自分が傷つけられている風なんだろう。消費されているのはいつも、貴方じゃなくて私の方なのに」



 叔父は、私に恋をしていました。私は幼く、彼は大人であったけれど、彼は私に恋をしていたのです。運命なのだと、出会った瞬間、私に名を付けたあの瞬間に恋は始まっていたのだと何時かの叔父は私に語りました。幼い私には良くわからなかったけれど、それは愛なのだと思って心地よく感じていたのを覚えています。けれど、それは違ったのだとよく考えればわかります。叔父から向けられる感情が私は嫌ではありませんでした、嫌では、ありませんでした。嫌では、なかったのでしょうか。そこらの感覚が、私は麻痺してしまっているのか何なのか、ただ、そう、心の片隅で恐ろしく思っていたような気がします。時折意味深に触れてくる大きく細い美しい指、透かして先を見ているような視線、甘く優しい低い声。それは、父という身近な大人の男性が与えてくれる暖かな愛情からは一線を画していると、私は気づいていたのでしょう。そうしてそれが私の核心に触れた時、ああ、それは私ではないのだと悲しくなったことを、覚えています。


「椿は、本当にかわいいね」


 叔父は良く私に対して「かわいい」と口にしました。私は幼心にかわいいではなく、かっこいいといわれる方が好ましかったので、そう口にする叔父をたしなめていました。


「かっこいいって言われた方がうれしいよ」

「えぇ、そうかい? でも、やっぱり椿はかわいいからなぁ」


 叔父は良く私をその大きな手で撫でてくれました。優しく優しく、まるで宝物や綿でできた軟いものに触れるようにゆっくりと肌触りや存在を確かめるように触ります。くすぐったさに身をよじり、アハアハと笑う私を見ていつも色の無い頬がバラ色に色づいていました。


「椿は髪がまっすぐできれいだね」


 叔父の指はいつも少しかさかさとして、ささくれがありました。けれど骨ばっていて血管の浮く手の甲なんかが物珍しく良く触らせてもらっていました。叔父は物書きでしたから、時折原稿用紙なんかに物語を書いていることがあって、ぴかぴかと光る立派な万年筆を握る手をかっこいいと思っていました。私は外を走り回るばかりで文章を書くことはからっきしで、夏休みの読書感想文なんかは大嫌いでした。


「椿の膝にはいつも絆創膏が貼ってあるね」


 縁側で叔父の膝に座っていると、堅い指が体を撫でてゆくことがありました。それは膝の絆創膏だったり、脹脛の痣だったり、掌の瘡蓋だったり。私は幼く無知だったので、接触のどこからが行き過ぎているのかはわかりません。ただ、両親と風呂に入らなくなる頃になると、叔父とも風呂には入らなくなりました。叔父はその後も何度か風呂に誘ってくることがありましたが、私は気恥ずかしさで毎回断っていました。その時、叔父はいつも寂しそうな残念そうな顔をしていたような気がします。ある日の叔父は少しいつもと違いました。当時私は丁度成長期を迎えていて、声変りの最中だったと思います。


「椿、そう、もうそんな歳になったんだ」

「まあ、俺ももう中学生だから」

「そう、そうかい。あぁ、そう、かわいい椿はそろそろ影も形も無くなるんだ」


 抜け落ちたような表情だった。それも、私が言葉を失っている間にいつもの柔らかな笑顔に戻っていましたが、唯一、本当に叔父が恐ろしくなった瞬間でした。


「でも、うん、椿はこれからかっこよくなるんだね」


 それも素敵かもしれないなと笑う叔父に、何となく私は安心しました。捨てられると、思ったのです。叔父の理想から離れてしまった自分は捨てられてしまうと思ったのです。なぜ、そんなことを思ったのでしょうか。今なら良く分かるような気がします。それこそ相手が勝手に求めてきたことで、自分が相手に何かしたわけではありません。けれど、それこそ、勝手に与えられていたこちらからは無償とも思える愛を無くすのは心もとなく感じるのです。叔父にとって私は夢そのものだったのでしょう。叔父は私越しに夢をみていたのでしょう。美しい私という、美しい夢をみていたのでしょう。ただ、それだけだったのでしょう。

 私は少し叔父の夢から離れてしまった。そうするとむしろ叔父の現実に足を踏み入れることとなります。夢と現実の境界はそうして曖昧になり、初めて夢見心地でない男の叔父が目の前に現れだします。私の初めての口づけを奪ったのは、そんな葵という男の人でした。

 私は叔父の事は好きでしたが、葵さんのことはあまり好きではありませんでした。葵さんは私を大切にしてくれません。自分の理想と欲ばかり押し付けてきたからです。だから私は距離を置きました。離れて忘れてしまいこんで、叔父との思い出で包み隠しました。葵さんは自分に良く懐いていた純粋な私のことが好きだったからか、私が自ら距離を置くとトンと興味を失くしたようで、それから顔を合わせることはありませんでした。ただ一つだけ予想だにしなかったことがありました。それは、私が葵さんによく似ている人間だったという事です。



 目の前の男は、意を決したという風に語り始める。


「僕は、恋をしていました。しかし、その夢は脆く崩れ去ってしまいました。小鳥遊先生が、君に恋をしていたからです。彼はそんな人ではなかったはずなのに、彼は君に恋をしていました。彼を想う僕ではなく、君に恋をしていました。憎くて憎くて堪らなかった。だから、君を見つけた時ひどく心が高鳴りました。苦しめてやりたいと、思いました。そうすれば燻る心の思い煙が晴れるのではないかと思ったのです。そうして、君が僕に恋をしたとき、なぜか、心が痛くなりました。ですが、もうどこにも行けない僕の心は、君をいたぶることしか出来ませんでした」


 男は酷く傷ついた顔をしていた。私は、それが耐えられなかった。私を勝手に利用して憂さ晴らしをしようとしたのは目の前の陰鬱な男だというのに。葵の事も、男の事も、一等傷つけられたのは私だったはずだ。私はそう思うと耐えられなかった。私は、相園椿はなぜこんなにも己ばかりが蔑ろにされなければならないのかと、情けなくて仕方がなかった。

 椿は男に恋をした。男が美しかったからだ。葵を想って涙を流す男が、とても魅力的に見えたからだ。それは、足跡のない雪原だとか、凪いだ海だとか、雲一つない青空に思う気持ちによく似た魅力だった。純粋な気持ちで人を想える人なのだと、椿は男に夢をみたのだ。勿論それは違った。男は葵に夢をみていたし、椿を憎んでいた。椿を陥れようとしていたし、椿を見てはいなかった。ふとした瞬間に、遠くを見て、ふとした瞬間に冷たい瞳を椿に向けた。そんな、男の隠しきれない悪意に椿は気づいていたけれど、何ともない風に過ごしていた。男に夢をみていたから、男に恋をしていたから。己は美しい男のことを想える美しい人間だと、思いたかったのだ。椿は赤い椿の花だから。椿は無様に首を落としたくなどなかったのだ。


 美しい貴方、貴方に恋をした私は美しかったでしょうか。

 無様にも貴方にすがる私は美しいでしょうか。

 美しい貴方には、私の気持ちはきっとわからないのでしょうが、どうか少しでも情けがあるのなら、私を想ってくれないでしょうか。

 手を取ってください、私の手を取ってください。

 長く伸ばした私の髪は、叔父によく似ているでしょう。

 濃紺の着物も、叔父のものを着ています。

 喋り方も、表情も、仕草も、よく似ているでしょう。

 貴方が最初に言ったのです。

 私は叔父によく似ていると。

 私は、叔父に似ています。

 父よりも母よりも、叔父によく似ています。

 貴方が私に言ったから、一人称を変えました。

 貴方が私に言ったから、髪を長く伸ばし始めました。

 あなたがわたしに言ったから、着物の着方を覚えたのに。

 お前が、俺に言ったから、大嫌いな叔父のたばこを吸い始めたのに。

 すべて、すべてお前のために、俺は俺を変えてやった。

 だから、ここまでやったのだから、俺を、俺自身を愛してはくれないか。

 お前の理想に形を変えて、こんなにも虚しい気持ちを抱えても、それでも、それでも、美しいお前の隣に立てるなら、それでいいんだ。

 お前のために、俺は……


「ここまでしてもらってなんですが、僕は君を愛せません。僕は彼に恋をしているのであって、君に恋をしているのではないからです。君のことは愛せません。君が僕を愛していないからです。美しい君、純粋な君、本当にごめんなさい。君の僕には、到底成れそうにありません。僕は、僕であって、あの人ではないのです。ごめんなさい。君を苦しめることしか僕にはできません。僕は、君に恋をしてしまった。けれど同じくらい、君が憎い。彼を僕から奪った君が憎いのです。けれどきっと、彼が死んでいなかったら、僕は君に恋をしなかっただろう。君をただ羨んだままだっただろう。たとえ、最初から本当に真実恋していたとしても、偽ってしまった時点でそれは真実ではなくなってしまう。だから僕は、貴方を愛してはいけないのだと、思うのです」


 椿は、男の真っ直ぐな言葉にただ涙を流すことしかできなかった。情けなくて仕方なかった。目の前の男は己よりもずっと誠実な男だった。ただ、小鳥遊葵という男を敬愛していた男。相園椿という男を憎んでいただけの男。由良誠一郎という男は、やはり椿の思う通りの、美しい男だったのだ。


 私は考え込んでいる癖に人の気持ちにも自分の気持ちにも疎い優しく可哀そうな人間、身の丈に合わない恋をする大人、相手が傷つくくらいに誠実な人間、という設定が好きです。

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