表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

傀儡国家・満州国

秋の夕暮れ

作者: 松本 康

秋はもの悲しい季節である。高齢になって秋の夕暮れに散歩していると、昔の様々な想いの断片が蘇る。

やや感傷的になって、書いてみたものである。

秋の夕暮れ

 暑かった夏が日の短くなるにつれて少しずつ涼しい空気に入れ替わり秋風が肌に気持ちよく感じられるようになる。

 暑い日中を避けて散歩は夕方に出るようにしている。夕方歩くコースは主として南中学校往復である。家を出て泊山幼稚園の西側の道を南へ歩く。泊山幼稚園の職員室には先生が数人残り、事務作業をしているのが外から見える。空を見上げると澄んだ秋空が一層高く見え、時にカラスが二、三羽北に向けて高いところを飛んでいる。幼稚園の運動場には滑り台、ブランコ、ジャングルジム、鉄棒、砂場等があり、既に園児は居ないが、おじいちゃんに連れられてブランコを漕いでいる幼い姿が見られることもある。

 爆音が聞こえるので広い空を見回すと高いところを旅客機が飛んでいる。北に向かっているので、セントレア空港に行くのだろうか。一頃は、妻と何回か海外旅行に行き、わくわくしながらセントレア空港に向かったことを思い出す。

 飛行機がかなりの高度を飛んでいる時は、機影はかなり小さく飛行機雲が長く伸びて、飛んだ軌跡を示している。

 南中学は、自分の母校である。息子たち孫たちにも母校なので三代お世話になっている。自分は、戦後四年目に入学しており、当時は貧しいながらも戦後復興に向けて日本中が活気に溢れていた時代である。同級生たちが定年退職を迎えた頃、有志が集まって毎年同年会を持つことになった。古いアルバムを囲んで皆が当時を語り合ったりした。また、同志の投稿する文集も編集・作成した。

 平均寿命を超えて生きながらえると、櫛の歯が欠けるように仲間が鬼籍に入っていく。自分もあと何年生きながらえることができるのか、時々思ったりする。 

 自分は元来頑強な体質ではなく、常にどこかに不調を感じて生きてきた。敗戦後の満州を生き延び、帰国後の日本国内でも必ずしも健康とは言えない時期があった。

それにも拘わらず二十代の一時期には、山登りに熱中した。とは言っても主として鈴鹿山脈の御在所岳や藤原岳であり、御在所岳には十回以上は登ったかも知れない。それ以外では富士山と白馬、雲仙岳、蔵王岳くらいのものである。

富士山は還暦記念と自称して三男に同伴してもらい富士登山ツアーに参加した。夕刻に五合目までバスで行って仮泊し、夜中の三時ころに起きてご来光に間に合うように登るのである。標高は高いとはいえ、歩く時間は御在所と大差はない。ところが、ここでは大いにバテた。この後、体調不良となり医師の診断を仰ぐと大動脈瘤があり、無理をすると瘤が破裂して死に至るという。この大動脈瘤は後に手術することになる。

 先を歩く三男について行くことが辛く何度も声をかけて小休止をとったりした。頂上は、大きな擂鉢状の火口が遥か下方に見えて雄大さを感じた。このような景色を幼時に見たような既視感があった。記憶をまさぐると、それは満州の奉天北方に位置する撫順炭鉱であった。地表近くまで石炭が堆積するこの炭鉱は露天掘りであり、擂鉢状に堀すすめられていた。擂鉢の遥か下方で働く人たちが豆粒のように見えるくらいの規模であった。

秋の夕暮れはそのうちに東の空に月が出てくる。先月のスーパームーン(月と地球の最接近により月が最大に見える)は見応えがあった。自宅からは家屋が邪魔して月は見えないので、近くの公園から月を待つ。四日市港方面のコンビナートの煙突群の間から月が現れる。大きな月である。まだ公園で遊んでいる幼時のはしゃぐ声を聞きながら月を鑑賞する。やっと満足して自宅に戻る。その頃には月は天空に上り自宅付近の家々の間から煌々とした月を眺める。この月は月の出の時のものより、やや小さめに見える。

 月の大きさが月の出の時と天空に上ってから小さく見えるのは、大気の屈折によるものだという。地球と月の距離は変化するが、近点の満月は、遠点のものより最大十四パーセント大きく、三十パーセント明るいという。

 秋は物思いに耽る季節だという。四字熟語に「春愁秋思」というのがあるが、春の日にふと感じるもの悲しさと、秋にふと感じる寂しい思いだという。

日本には四季があり、真夏の暑さと冬の寒さを凌ぐ知恵を育んできた。しかし、温暖化が進むと、いつまで日本で四季を味わえるのだろうか。

 そんな他愛もないことに頭を占領されながら散歩するのは、ベートーベンが森を散策しながら楽想を練ったという創作への姿勢と自分の雑事に捉われている姿勢とを比べることもおこがましいが、そこが俗人たる自分のありのままの姿なのであろう。物思いを促す秋という季節の空気の為せる業であろうか。

 あと何回桜を愛で、何回の愁思が許されるのであろうか。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ