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9年前、エリックがまだ9歳の頃。侯爵家当主である父親に病が見つかった。それは今の医療技術では遅らせる事しか出来ないもので、父親は段々弱っていった。
そこから代々王太子の側近騎士を輩出するエリックの家は、まだ9歳の幼いエリックに焦りを覚え、子供では手に余る教育を施すようになる。
体罰のような真似をするのは日常茶飯事で、エリックは武術の稽古や体罰で体には青あざが絶えないようになった。侯爵家の当主となる勉強も同時に行われていた。屋敷や領地のことは基本は家令に任せる事となるが、それでも知識はなくてはいけない。途方もない知識を詰め込まれ、睡眠を削り心身共にエリックは衰弱していくようになった。
そして、自分が今こんなにも大変なのは父親のせいだと、父親に対して恨みのような感情を積み重ねていった。そんな彼の心情を理解する人間は、いなかった。
そんなエリックだが、10歳になる頃には体がその辛く苦しい日々に順応し始めたのか余裕が出てくる。余裕がある時は彼は秘密の隠れ家に行く。屋敷の近くにある森は木々が生い茂っていて、エリックが何も考えず過ごすにはうってつけの場所だった。それに、野犬などが現れた時に剣を振るえば、自分は確かに進化していると慰めにも繋がった。
そんなある日、森の湖の近くで寝ていたエリックの耳に少女のものと思しき悲鳴が届いた。慌てて声のする方に走っていけば、茶髪と緑の瞳を持つ少女が、その瞳に大粒の涙を浮かべ野犬の前で尻もちをついていた。
慌てて野犬を追い払うと、少女はキョトンという顔をした後、キラキラ輝く瞳でエリックを見つめた。手を急に掴まれてビクつくエリックにはお構い無しに少女はニパ、と無邪気な笑顔を浮かべる。さっきまでの涙は消えていた。
「ありがとうございます、騎士様!」
その小さい口から紡がれた言葉に、エリックは息をするのも忘れた。黙ったままのエリックに焦れたように少女は顔を覗き込んでくる。自分と同い年くらいなのにその幼子のような仕草に訝しんでから、気づいた。――自分が大人にされただけで、少女が普通なのだと。
その考えに至って生まれたのは、鮮烈な『羨望』。そして『諦念』だった。力なく、エリックは僅かに微笑みながら首を横に振る。
「僕は、騎士を志しているけど騎士ではないよ。本当の騎士は、僕の何十倍も凄い」
「……いいえ、貴方は騎士様ですわ。だって私の好きな絵本の騎士様は言っていましたもの、『誰かの為に剣を振るえる者は、皆立派な騎士』だと!」
その真っ直ぐな言葉が、エリックの胸を貫いた。痛いほど、優しい言葉だった。目を見開いた拍子に、涙がこぼれ落ちそうになり慌てて目元をぐしぐしと拭う。少女はそんなエリックの様子には気づいていないのか構わず話す。
「それに、今私を助けてくれたのは貴方の言う騎士様達ではなくて貴方です」
心臓が痛い。最近はずっと止まっていたような気がするのに、今は酷くその鼓動を感じる。
「――騎士様がいてくれて、良かった!」
『坊ちゃんに年上の兄弟がいたら』、『もっと坊ちゃんが大人だったら』、『坊ちゃんがもっと出来がよかったら』、『むしろ坊ちゃんがいなければ、違う領地にいる優秀な従兄弟に任せられたのに』
そんな言葉は、飽きるくらいエリックの周りで囁かれていた。悪意のない"正しい"言葉が、エリックの心を蝕んだ。
死にかけのうさぎのようだった彼に、見知らぬ少女だけが手を伸ばしてくれた。癒して、生かしてくれた。
晴れ晴れとした気持ちになったエリックは、森の外まで送ろうと少女の手を取る。柔らかい手は、とても温かかった。
彼女を送ってから、エリックは行動に移すことにした。先ず彼は勉強や武術の時間を短くするようお願いした。その代わりに、限られた時間の中で力の限り頑張ると誓って。
最初は彼の提案に家令達は難色を示していたが、エリックが呼んだ医者に「寝不足や過労で体がボロボロではないですか! 何をやっているんですか!」と一喝され、そこでようやくエリックにどれほどの無理を強いていたのかに気づいた。それからは時間も調整され、エリックは睡眠を削ったり体を酷使しすぎる事なく過ごせるようになる。
その頃には父親とも少しずつ話をする時間ができ、昔とは違い心の底から父親の病を憂えるようになっていた。
そしてエリックが11歳の時父親は闘病の末、生命を落とした。
「父上……」
父親の訃報を知った時、エリックの頬を伝ったのは温かな涙だった。そして、その涙は父親を愛していたから出た涙だと理解した時、エリックは名前も知らない少女に感謝した。彼女が、エリックの心を救ってくれた。
「君にまた会える時までに、立派な騎士になってみせるよ」
そう誓ったエリックは、王太子の護衛で立ち寄ったカフェで婚約解消を申し出る少女を見つける。その柔らかな茶髪、昔よりも凛とした声ににわかに心臓が熱くなる。
そして気づけば、声をかけていた。
◇◇◇
昔自分と同じ年頃くらいの男の子に助けてもらった記憶は、私にもあった。お父様とお母様と一緒に隣国に遊びに行ったのだが、私はたしかはしゃぎすぎて迷子になってしまったのだ。そして運悪く野犬に襲われた時に助けてくれたのがその男の子。とってもかっこいい騎士様。
「あの騎士様が、エリックだったなんて」
「本当に、あの時はありがとうラナージュ」
そう言ったエリックは恥ずかしくなったのか立ち上がり「もう一杯貰ってくる」と去っていってしまった。恥ずかしがり屋な所も好きだなぁ、と何気なく思う。
ぼんやりエリックを見つめていると、私の背後の暗闇から手が伸びてきた。何か思う暇もなく、私の口にはハンカチが当てられ意識が薄くなる。
最後に聞こえたのは、「全部、壊してやる」という狂った言葉だった。
背に当たる硬さに目を覚ますと、私は倉庫のような所で横たわっていた。
辺りを見回すと、一人の男が暗闇の中立っているのが分かる。
「久しぶりだな、ラナージュ」
それは今謹慎中の筈のレイハルト様だった。汗がどっと出る。ドアを無意識に探す私に、レイハルト様は笑いかけてきた。嫌な、気持ちの悪い笑みだった。カフェで婚約解消を申し出た時よりも頬はコケ、目は落ちくぼみ、彼の自慢のプラチナブロンドは老婆の白髪のように成り下がっていた。フラフラとした足取りで、私に近づいてくる。恐怖が脳裏を支配した。
「お前のせいだ。そうだよなぁ? お前のせいで俺はこんな目にあっている」
「……っ、私のせいでは」
「お前も、俺と同じ目に遭わせてやるッ!」
レイハルト様が私に覆いかぶさってきた。そのまま頬を一発打たれる。初めての熱に、私は涙を零した。それに気を良くしたのか、レイハルト様はニヤニヤと笑って私の前髪を引っ張る。メイド達に綺麗にしてもらった髪型は、今は無残な姿へと成り果てていた。髪飾りがカツン、と床を叩く。
そしてもう髪の毛には飽きたのかレイハルト様は私のドレスに手を伸ばした。サッと血の気が引く。
「いや! 止めてください! 誰か、誰か助けてっ!」
「調子に乗っているお前が悪いんだ!」
ビリリィッ
甲高い音と共に、ドレスが胸元から裂かれた。マユさんが作ってくれたドレスは糸が飛び出て、握りしめられた所はしわができ、ボロボロになってしまった。自分の胸元が露出している事よりも、マユさんが煌めきを詰めてくれたドレスが破かれた方が私の心をざわつかせた。
どうして、こうなってしまったのだろう。私はただ、生きていたいだけなのに。レイハルト様といる時、私はいつも自分はもう死んでいるのではと思う。
私は、心が壊れそうになりながら叫んだ。私を生きさせてくれるその名を。
「……エリック!」
「――ラナージュ!」
そしてその声は、届いた。バキッという音の後エリックと騎士が小屋に入ってくる。直ぐにレイハルト様は昏倒させられ、私にはエリックのマントがかけられた。
「ラナージュ、怖い想いをさせてごめん」
「あ、私、私は大丈夫で……」
レイハルト様と婚約していた時の『大丈夫です』という口癖が出そうになった。そんな私をエリックが抱きしめる。
「僕が、大丈夫じゃない。ごめんラナージュ。君の大切な物を守れなかった」
「……ぅ、うあ、こ、怖かった、それに、私、私のドレスがぁっ」
「ごめん、ごめんラナージュ」
抱きしめ合う私達に、騎士に捕らえられたレイハルト様が叫ぶ。
「なんで俺の所から離れたんだ、ラナージュ! お前があのまま俺の所にいたら、俺は上手くいっていたのに! 俺の何が不満だったんだっ、お前が可笑しい事ばかり言うから、俺が『正論』を言っただけだろう! 違う女とキスをしたのは、お前に魅力がないからだ! 全部全部っ、お前のせいだ!」
騎士様達に慌てて猿ぐつわをつけられたレイハルト様はそれでもモガモガと何かを叫んでいる。私はエリックに抱きしめられたままレイハルト様を見据えた。
「『正しさ』を、私は求めた訳ではないからです。私が求めたのは、例え正しくないとしても、温かいものです。だって、温かい言葉や眼差し、愛がなければ私達は生きていけないのですから」
私を抱きしめる手に力が入った。
「レイハルト様といると、私は自分が死んでいるのではと錯覚するのです。だけど私は、生きていきたい。私を生かしてくれる人と、歩んでいきたいのです」
マユさんも、リリーティア殿下も、エリックも、そして私も、自分の、そして大切な人の幸せを願っているのだ。
レイハルト様は意味が分からないと言いたげに何かを叫んでいる。それでいいと思った。だって私は、レイハルト様に理解してほしいから話した訳ではない。
過去との決別の為に、話したのだ。
それから、レイハルト様は一生鉱山で労働する事となった。元々レイハルト様は我が家に婿入りし、べフェロン侯爵家は次男が継ぐ予定だったから鉱山送りにしてもなんの問題もなかったのだろう。
そして、私の黄色いドレスはマユさんに直してもらえた。後日渡されたドレスはとても綺麗に直されていたけど、少しだけ胸が軋む。そんな私の心を慮ってくれたのか、マユさんは明るい声で新しいドレスを作ろうと言ってくれた。
そんな風に忙しくしていたら夜会の日から2週間経った。後3日ほどで、王太子殿下率いるエリックも隣国に帰ってしまう。だからお父様とお母様に婚約の許可を貰うために、今日はエリックが我が家に来ていた。
緊張した顔つきで、エリックが話し始める。
「ラナージュと、結婚させてください」
「……君は、ラナージュを大切に出来るか?」
お父様は、とても渋い顔をしていた。そしてそれはお母様もだった。
「私達は、ラナージュちゃんを家庭教師とレイハルトの事で2度も傷つけてしまったわ」
「っ、あの二人はお父様とお母様のせいではないです!」
「いいえ、私達のせいだわ。だって私達は、私達の選んだ人達のことでラナージュちゃんが悩んでいたのにちっとも気づいてあげられなかった」
「もうあんな想い、絶対にさせたくないのだ」
二人の想いに、じんわり涙が滲む。グスンと泣き出した私にエリックがハンカチを当ててくれた。私を見つめながら、エリックは言葉を発した。
「……僕は、ラナージュに生命を貰いました。そうやって僕が生命を貰ったように、ラナージュに生命を返していきたい」
「エリック……」
「どうか僕に、ラナージュと幸せになる権利をください」
お母様は肩を震わせ泣いていた。お父様も手で目を覆いながら泣いていた。暫くしてから、お父様が顔を上げる。
「幸せになりなさい、ラナージュ」
「――……はいっ。お父様、お母様ありがとうございます」
胸が苦しくなるくらい、温かい物で満たされている。苦しくて喘ぐように、私は声を上げ泣いた。
エリックは私の肩を抱きしめながら、涙が止まるまでそこにいてくれた。
◇◇◇
「病める時も健やかなる時も、共に助け合い、慈しみ、愛し合っていくことを誓いますか?」
神父の問いかけに、私は「はい、誓います」と言った。次にエリックにも問いかけが来て、彼もよどみなく「誓います」と答える。
あれから2年が経ち、今私達は隣国で結婚式を挙げている。私が着ている真っ白なウエディングドレスは、マユさんが作ってくれた物だ。マユさんは今世界が誇るデザイナーとなり世界中を飛び回っている。だが手紙を送ったら直ぐに私の所に駆けつけてくれた。
「ラナージュのウエディングドレスを作るのは、私の特権だもの!」
と笑っていた。今では私たちは気安く話す間柄となっている。白いパールが散りばめられたウエディングドレスは、光沢のある生地が何層にも重ねられていて見惚れる程に綺麗。マユさんが心を込めて作ってくれたのだと胸が温かくなる。
王族の席ではリリーティア王女殿下、いや今はリリーティア王太子妃殿下が王太子殿下と寄り添いながら私達を温かく見守ってくれている。リリーティア王太子妃殿下は「長いから、その……リリーでいいわ」と愛称で呼ぶ許可をくださった。
リリー様は王太子殿下と最初真っ向から話し合い、衝突し一時は不仲だと噂されたが打つかりあった分お互いの殻を破れたようでとても仲睦まじくされている。リリー様とのお茶会の最中は惚気話が七割だ。残りの三割は『ラナージュ大好きの会』という私のファンクラブの話がほとんど。リリー様が設立したようで、会員第一号、二号、三号はリリー様、マユさん、エリックだ。
なんでも、私の黄色のドレス姿、そしてリリー様達の布教により令嬢たちから私は『推し』として愛でられているらしい。自分がそんな扱いを受けているかと思うと顔から火を吹くくらい恥ずかしい。
ちなみにファンクラブの令嬢たちも参列していて、画家に私の姿を描かせている子、涙を流している子、そしてエリックを「幸せにしろよ」と後方彼氏面で見ている子もいた。
親族席に座っているお父様達は私ロスに耐えきれなくなって最近猫を飼い始めたらしく、猫の魅力に骨抜きにされているらしい。元気そうで何よりだ。お父様は目に焼き付ける様に私をまじまじと見つめ、お母様は目を真っ赤に腫らしながら笑っていた。小さく手を振ると、二人が大きく手を振り返すものだから執事やメイドにたしなめられていた。
私は、皆を一瞥した後神父に視線を戻し、エリックと話すタイミングを合わせて宣誓する。
「死が私達を分かつことはなく」
「いつまでも、愛し抜く事を誓います」
この言葉は、私とエリックで決めた言葉。私達はお互いに生命を救いあった。それならもう私達は、お互いの生命の一部だ。
――大切な大切な生命。慈しんで労って愛し合っていきましょうね。
私が微笑めば、エリックは顔を赤くしながら「今日はいつにも増して、とっても綺麗」と言ってくれた。好き!
最終話までお付き合いありがとうございます!
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