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「……別に、裏から出ていけば済む話だったんだけどね」
彼女はすっかり空っぽになったビール缶を握りしめ蒼を睨む。
瑠璃は津島親子がくる30分ほど前に来店していた。
蒼が玄関の掃除のため外に出て、津島親子が店に入る直前。彼女はカウンターの内側に逃げ込んだのである。
先程までいたはずの瑠璃が姿を消しているのを見て、蒼は驚いた。カウンターの内側で膝を抱えて座っているのを見て二度驚いた。
彼女はまだ、他の人に心を開いていない……おそらく蒼にも。
だから蒼は出ていこうとする瑠璃を足で押しとどめ、逃さないように裏口の扉に鍵を締めた。
そんな蒼に向かって、瑠璃は口を罵声の形に歪ませた……が、結局声も出せず大人しくここに座り続けていた。
「大丈夫。もうお客さんいないので、出てきても大丈夫ですよ」
「別に人がいたって平気だし。そんな理由で隠れてたわけじゃないし」
彼女はこわばった格好のまま、隙間から這い出してくる。
「君も、客を監禁するような真似をするんじゃない。なんで裏口の鍵閉めちゃうんだ……すきを見てぱっと出て行こうと思ったのに」
凝り固まった筋肉を解すように瑠璃は肩を回していた。今日も髪を一つに縛り、だぶだぶのシャツを身に着けている。まるで最初に出会ったときと同じ風景。
しかし瑠璃がこの店に訪れてくれたのは、本日が二度目だ。
「だってせっかく来てくれたのに……全然来てくれなかったじゃないですか」
蒼は恨みがましい目で瑠璃を見る。
オープン初日、無理やり店に連れ込んだとき、蒼は瑠璃に言ったはずだ「また、明日」と。
しかし瑠璃は翌日、現れなかった。その翌日も。町で見かけることはあったが、早足で通り過ぎていくので声をかける暇もない。
やきもきしている間に一ヶ月も経っていた。瑠璃が店に顔を出したのは今日の昼のこと。
「仕事してたんだよ」
少し気まずそうに、瑠璃はつぶやく。
「忙しいんだ、こっちは。毎日毎日、道が陥没して注意書きも変わるし、給水場は壊れるし……そのせいで一日に何度も臨時の広報出さないといけないし」
……と、瑠璃は言葉をつなげるが、それが言い訳であることを蒼は見抜いていた。
店がオープンして一週間後、瑠璃がこっそり店を覗いていたことを蒼は知っている。
その日はこの店初めての、満員御礼の日だった。津島が友人を連れてきたのである。
瑠璃は隙間から店を覗き、慌てて踵をかえしていた。
彼女は人が苦手なのだ。人が多いと、近づけない。
「それに私が来なくても、繁盛してるじゃない」
「そりゃあ、お客さんは100人はほしいです」
瑠璃の声にふてくされたような響きを感じ、蒼は微笑む。
「……でも100人のお客さんより、僕は1人の瑠璃さんがいいな」
その声は、窓を叩きつける冬の風にまぎれて消えた。
二人の間にぬるい沈黙が落ちて、その合間に温かい湯気があがる。
それは甘く、コクのある香りだ。
「もう少し待ってくださいね。もうすぐ料理、できるので」
鍋を覗き、揺らして蒼はつぶやく。
大きな鍋の中で、こっくりとした飴色が輝いていた。
貴重な焼酎をたっぷり使ったぶり大根だ。ふくふくと重かった魚の骨と身はきゅっと縮こまり、小さめに切った大根には味が染み込んだ。
どちらも琥珀色に輝いている。
甘い香りが、店内に広がる。湯気がライトを濡らし、部屋の照明が柔らかい色に染まる。
「料理?」
瑠璃は不審そうに眉を寄せて、店内を見渡す。少しふてくされると彼女の唇はきゅっと上をむく。その表情を見たのは二度目だ。可愛らしいな、とつぶやきかけて蒼は慌てて口を閉ざす。
「お客さん。帰っちゃったけど?」
「これは瑠璃さんのためにつくってるので」
「いや、いいよ。私は……もう帰……」
一度立ち上がった瑠璃だが、店中に漂う甘い香りを嗅いでその腹がぎゅうっと鳴った。
そして彼女は理不尽だ。と言わんばかりに蒼を睨む。
「……私さ」
やがて彼女は諦めたように椅子に腰を下ろした。
そしてポケットから原稿用紙を引っ張り出して、その上にペンで真っ直ぐな線を引く。
「こういう時代になったら誰も働かないって思ってたんだよね」
彼女が書くのは文字ではない。ただの線だ。落書きだ。
瑠璃は何かを書いていると落ち着くのか、無意味に線を引っ張り、円を描く。
「……なのに、海には魚がいて、漁師が捕る。牧場に牛がいて養豚場だって養鶏場だってある。豆腐屋の道具も昔と変わらずここにあって、みんな100年前と変わらず働いてる」
彼女がつぶやく間に、ぶり大根が煮上がった。
蒼は身のついた部分をすくい上げ、深い皿に移す。ネギをぱらりと落とし、こちらは完成。
さらに白いごはんの上に少しだけぶり大根の汁を染み込ませる。
これに合わせる酒は、もう最初から決まっている。
(よし、完成)
蒼は酒瓶の並ぶ棚から、大きな瓶を手にとった。
芋焼酎、と赤い字で書かれた瓶だ。ぽってりとした湯呑にそれを注ぐと、熱い湯を上から注ぐ。
「それで蒼くんは料理を作るし、私も新聞なんて、書いてる」
瑠璃の落書きは、いよいよ混沌を極めてきた。重なった線は、キンコツの町並みのようだ。細い線、細い道、それは、まるでアリの巣のような町の風景。
「働きアリは女王が死んでも働き続けるんだ……巣が滅ぶまで。じゃあ人間の女王って、誰なんだろうね」
「僕、難しいことはわかりません。でも簡単なことはわかります」
瑠璃の手から原稿用紙とペンを取り上げて、代わりにぶり大根とご飯、それに芋焼酎のお湯割りをそっと置く。
「瑠璃さん、おなかすいてるでしょう?」
薄暗かった瑠璃の目が、それだけで大きく見開かれる。死んでいたような彼女の頬の筋肉が震えて、笑みをこらえるような顔になる。
「なんだこれ……お湯?」
「焼酎を割ってます。焼酎、飲んだことあります?」
「……本で読んだ。蒸留して作る……」
大きなカップに揺れる透明な液体を、彼女はじっと見つめている。
まるで子猫が初めてのものを見つめるような、そんな目つきで。
「麹を作って発酵させ、蒸留して、水とアルコールに分ける。遥か遥か古代。本当の大昔からあるお酒の作り方なんですって。世界中、どこでもこの作り方のお酒はある。面白いですよね、国や気候が違ってもお酒作りの方法が同じなんて」
蒼は彼女の前に焼酎の瓶を置いてみせた。
「で、これは芋焼酎」
古い瓶に、手作りのシールが貼られている。隣町で変わり者が焼酎の蒸留をはじめたという。
小左衛門の紹介で顔合わせをし、無事に納入の契約が決まった。
変わり者の男だが酒の味はたしかだ。
口にするとムッと香るアルコールの重さに最初は驚かされる。喉に滑り込むと、かっと燃えるように熱くなる。
しかし、その奥に残る香りはまるで花の蜜のよう。湯で割ると、喉の奥でパッと開くように香るのだ。
「……甘い」
一口飲んで瑠璃の目がぱっと輝いた。光の反射で、彼女の目の縁が青く光る。彼女の名前の瑠璃……地球の色と同じ色。
(この顔も、好きだ)
蒼は言葉を再び飲み込み、瑠璃から視線を外す。
「どうぞ、ぶり大根も召し上がれ」
「君、大事な人がいるんだろう」
瑠璃はぶつくさと吐き捨てて、箸を手に取る。見た目の雑さとは反するほど丁寧に、彼女はそっと手を合わせ「いただきます」とつぶやいた。
「こんなところを見られて、勘違いされても知らないからな」
箸を刺すだけでホロリと骨から崩れるブリの身に、こっくり味が染み込んだ大根。噛み締めて、芋焼酎も飲み込んで、瑠璃は目を細める。
カウンターに肘をついたまま、蒼はそんな瑠璃を見つめる。
柔らかい湯気の向こうに見える瑠璃は、幸せを押し隠しながら、食べている。
「瑠璃さん、また明日も来てくださいね」
冷えた空気が店を包む、地球を包む。それでもこの店は暖かい。
「……絶対に」
青色に包まれた瑠璃を見て、蒼は指先の暖かさを感じていた。