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季節は本格的に冬へ入る。
バー群青の屋根を押しつぶしていた楓の木はすっかり落葉した。
残っているのは、立派な枝だけだ。
そんな枝の向こうに広がる薄暗い空を見上げて、蒼は白い息を吐いた。
また雪でも降り出しそうな空である。
「蒼くーん」
「あ、おかあさん。こんにちわ。今日は遅いですね」
冷たい道の向こうから響く声に気づいて、蒼は笑顔を浮かべる。
凸凹の道を、腰の曲がったおばあさんがよたよた駆けてくるのだ。だから蒼は箒を手放して、彼女の手を掴んで支える。
「津島さん気をつけて。地面、霜降りてますから」
「ほんっと、息子より全然可愛いわ」
ふくふくとした大福のような顔で、女性は……津島は微笑む。
少しだけ遅れて角を曲がってきた男は、津島のそんな姿を見て眉をひそめた。
「母ちゃん、やめえ、若い男相手にニヤニヤして、みっともない」
「こんにちわ、ご来店ありがとうございます。いらっしゃいませ」
蒼が笑顔を向けても、男は渋顔のまま顎を撫でる。
よく焼けた肌を持つ壮年の男だ。髪は真っ白だが腕には筋肉が盛り上がり、体格がいい。
ひょろひょろとした蒼の横に並ぶとまるで壁のようだ。羨ましいな、と蒼は眩しく男を見上げる。
「蒼。お前、この辺でなんて呼ばれとるか知っとるか?……マダムキラー、や」
訛りのある男の言葉に対し、蒼はにやりと笑ってみせた。
「俺、昔から年上の方にモテるんです」
津島の息子であるこの男の名前は、確か小左衛門だ。やけに渋い名前をつけられたものである。
母の名前は花子。自分が可愛らしい名前だから息子には渋い名前をつけたのだ。と、花子はいつも酒の肴にそう語る。
津島親子は隣県で商売をしていたが、地区の取り壊しで移動を余儀なくされたという。
ちょうど数年前にこのキンコツに流れてきたが、生来の人懐っこさと面倒見のよさであっという間にこのあたりの顔となった、とキンコツの人々は口を揃えてそういう。
そんなことを言い合う人々も、キンコツ出身者ではない。
この町に住むのは、宇宙を諦めた人々だけである。最初はバラバラだった人の心を掴み、津島親子が一つにまとめた。
おかげで商売をしたいという奇特な人間が、その名声につられてぽつぽつとキンコツに集まりつつある。
……と、蒼は店を開いて知った。
実際、蒼もこの町の出身者ではない。
見知らぬ者同士、肩を寄せ合い血管のような町で暮らすのが、いかにも今の時代らしかった。
「だってえ、蒼くん、かわいいもの」
花子がにこにこと笑って、蒼の顔を見上げる。
自分の母のにやけ顔を呆れたように見て、小左衛門は吐き捨てた。
「自分の母ちゃんの情けない姿を見たい息子がおるもんか。蒼、早う別の惑星に行ってまえ」
「それもよく言われます」
「おっと。よその惑星に行く前に、酒ぇ出してくれ。俺はロック、母ちゃんは湯割りで……って、店閉まってんのか」
「いえいえ、通りがかった車が泥をはねていったので、固まる前に掃除しただけです。店あいてますので、どうぞ」
雪がふりそうだ。と手をこすり合わせて小左衛門がいう。
同時に三人は、顔を上げた。まるで彼の言葉が合図だったように、頬に冷たい霙が降り落ちる。
まもなく還暦を迎えるという小左衛門は不安そうに蒼を見た。
「俺が子供んときはこんなに変な気候じゃなかったんだ。キンコツの町は秋が観光シーズンで、秋にはいっぱい人が来てさ、だから俺もよく隣町から出稼ぎに来てたもんや。昔はもうちょっと秋が長かった」
霙が降っているくせに、雲の隙間から青空が透けて見えるのが不思議だ。
三人の前にあるのは、細い道、崩れそうなブロック塀に、古い家の屋根、崩れた屋根、穴の空いた屋根。
細い道の向こうには低い山並みが続いている。山も頂のあたりは葉が枯れているくせに、中腹は秋の名残を惜しむように赤く火照っていた。
……ここは、山と迷路みたいな道に包まれた、おもちゃみたいな町である。
「へえ。ここってそんな、観光地だったんですか?」
「何だお前、そんなことも知らんのか」
バー群青の狭い扉をくぐりながら小左衛門が鼻で笑う。
「実は東京にいたんですよ。で、半年と少し前にここに来たんです。だから基礎知識なしなんです。全然詳しくなくって」
「キンコツはな、骨と筋肉の、筋骨という意味でな。入り組んでて、迷路みたいで……それがなかなかの観光地で」
小左衛門は過去を思い出すように目を細める。
焼酎の瓶を手に取りながら蒼は目を丸くした。
「骨って……体の?」
「そうそう。道が細うて、まるでさ、体ん中みたいやろ。それが語源だわ」
青色に染まったバー群青は、ひんやりとした空気に包まれていた。
津島親子はどっこいしょ。と同時に声をあげてカウンターの一番右隅に座る。
親子は暑そうにコートを脱ぐが、花子は首元のスカーフと帽子だけは絶対に取らない。スカーフが解けていないか花子は何度も確認しているようだ。
しかし蒼は気にせず二人の前に水の入ったカップを置く。
「いらっしゃいませ、バー・群青に」
きれいな氷がからん、ときれいな音をたてた。
群青がオープンして気がつけば1ヶ月が経っていた。最初は手探りだった接客も、時間が刻まれるごとに上手になっている……と、蒼はそう自負している。
オープン日の客は瑠璃だった。翌日とその次の日は一人も客は来なかった。しかし3日目、恐る恐るというふうに、小左衛門が顔を出した。
それは来店というほのぼのとしたものではない。まるで偵察だ。
警戒心を隠そうともしない彼にスパゲッティを振る舞ったところ、その翌日には母親を連れて現れた。
その次の日には、花子の知り合いが、その翌日にはその知り合いの知り合いが……と、まるで連鎖でもするように気がつくと客は増え続ける。
今では一日に数組の客が現れる。多いときには、満席になることも珍しくなくなってきた。
「骨といえばこれ」
店の功労者でもある小左衛門は、カップの水を一口で飲み切ると大きな鞄を探る。やがて机の上に血まみれのビニール袋を滑らせた。
「えっと……」
冷たいその塊にはゴツゴツとした骨がある。ぬるりとした、皮膚がある。大きな目玉が、ビニール袋の向こうから、蒼を見つめている。
「魚?」
「おお。ブリや。身は知り合いに売っちまったで、残りのアラだけで悪いけどさ。適当に料理にして、皆に食わしたってくれ」
ずっしりと重いそれは、ブリである。久しぶりに触れた生の魚の冷たさに、蒼は目を輝かせる。
「わ。久しぶりですよ、生の魚なんて。めちゃくちゃ貴重品じゃないですか」
肉や卵は手に入るが、魚はなかなか手に入らない。加工されたものはともかく、生の……まだ血も生々しい魚など。
「俺んとこは曾祖父の代から漁師よ」
小左衛門は蒼の反応を見て、満足そうに笑う。そしてちびたタバコをゆっくり吸った。
蒼が芋焼酎に氷をたっぷり入れて差し出せば、彼はそれをなめるように味わう。
津島の母には、湯割りの焼酎だ。二人は同じ顔をしてほっと息を吐く。
「海遠いのに……まさか釣ったんですか?」
蒼は裏口の扉に鍵を締めて、手を洗う。
そして皿を二枚、棚から下ろした。
「でっかい道は生きとるでさ。車ですぐ行ける。名古屋のほうからこう、ぐーっと回り込んでさ」
皿に盛り付けるのは、ウインナーを焼いたもの、作りおきのポテトサラダに、大きなおにぎり。
2つの皿を彼らの前に置く。この店の料理は蒼の気まぐれだ。メニューを聞いても、ほとんどの客が戸惑うせいである。
こんな時代、人は飲食店で食べたいものを答えることもできなくなっていた。
だから蒼は彼らの顔を見て、声を聞いて料理を作る。冷たいもの、あたたかいもの、焼いたものに、蒸したもの。
蒼の差し出した皿を見て、客は微笑む、うなずく。それを見て、蒼もほっと息を吐く。
この料理で、今日も正解だ。
「農家だって酪農だって、他の惑星に行けば空気だって水だって違う。向こうで仕事を続ける人間は、大変だろうな」
ポテトサラダの山を崩しながら、小左衛門がつぶやいた。
「だから俺は地球に残ることにしたってわけ。その分苦労も多いけどさ」
彼は平然とつぶやくが、花子のかすかな動揺を蒼は見逃さなかった。
小左衛門の言葉にはおそらく、少しだけ嘘がある。
花子はシャトル事故の被害者だ……と、いう噂を、蒼は別の常連客から聞いた。
それは6、7年前、宇宙移住のキャンペーンで大々的に打ち上げられた、宇宙遊泳用の巨大シャトルである。死傷者多数。久々の大事故だった。
事故は偶然だ。整備はよくできていた。飛行士も経験の長い男だった。しかし、たまたま宇宙の嵐に巻き込まれた。誰にでも起きる事故、仕方のない事故。
悪人がいないからこそ、悲しい。
キャンペーン会社と政府は事故の原因を探るべく、研究船を打ち上げた。
が、不運は続くもので、研究船に乗った飛行士が事故に遭い記憶障害を負ったという。
移住反対派はここぞとばかりに声をあげ、社会問題にもなった。そのことを蒼はうっすら覚えている。
遺族や被害者の会は、今でも訴え続けている……が、会社の社長が逃亡してしまい、揉めに揉めているらしい。
花子の怪我は軽かったのだろう。治らない心に傷を背負ったまま、訴えることを諦めて今はそのことを忘れようとしている。
そして小左衛門もまた、母のために地球に残ったのだろう。
のんきそうに見える母親から見え隠れするのは罪悪感で、仏頂面の小左衛門から漏れるのは、優しさだ。
こんな時代、生き方を変えない人間には何かしらの感情がつきまとう。
「俺等んことはええんよ。お前、なんでこんな田舎に引っ越してくるんなんやさな。東京の方が色々あって便利だろうに」
芋焼酎の味が染み込んだ氷をなめながら、小左衛門が蒼を見た。
ほとんどの客がすっかり蒼に馴染んだが、彼にはまだ少しの警戒が残っているようだ。その警戒は群れを守る雄の本能である。
蒼は苦笑しながら、冷たいブリのアラを流水で洗い流す。
ぬるぬるとした感触が指から伝わってくる。指が冷え切ったとしても、こればかりは冷たい水で洗うしかない。
「いえ、僕がここに来たくて来たんです」
「何かツテでも?」
「ええ……僕の大事な人がこの町にいるんですよ」
ぴん、と水がブリの表面を弾いて蒼の足元で弾ける。
水の雫を足ですりつぶし、蒼は微笑んでみせた。
「で、僕も越してきたんです」
ブリは熱湯でさっと湯がき、表面が白くなったところで大きな鍋に移す。
鍋にはネギと生姜と大根に、水少々と、たっぷりの焼酎。そして砂糖に、醤油。真っ黒になるまで遠慮なく味をつけ、コンロにどん。と置いた。
「皆さんいい方ばっかりなので、やりやすくって僕のほうこそ、助かってます」
「なになに、恋人かい。ええねえ、若い子は」
花子がおにぎりを口いっぱいに頬張って、夢見るように目を細める。
「なあんや……ええ……? まさかそんな理由かよ。みんな色々噂してたが、若えなあ。結局女かよ」
気が抜けたように小左衛門が伸びをした。その目からどんどんと警戒心が消えてなくなり、好奇心だけが残される。
「え? 誰や。そのええ人。応援してやろうか」
「やめなさい、はしたないなぁ小左衛門。蒼くんは、あんたと違ってシャイなんやから」
「どうだか……まあ若いもんは歓迎だがね。ただ気をつけろよ、そういう理由なら力仕事に駆り出されるぞ。結婚してここで住み着くってんなら、みんな大歓迎やろ。若いやつはみんな宇宙に消えちまうんやでなあ」
気がつけばふたりとも皿は空っぽ。蒼はタイミングを見て温かいコーヒーを差し出す。小左衛門には砂糖を3つ。花子はブラック。
「ああそういえば、越してきたのは蒼くんだけやないわ。少し前に、女の子がこの町に来たでしょう……10ヶ月か、それくらい前やったかね。気づいたら、越してきてた」
津島母がコーヒーを啜りながら、目を細める。それはまるで小さなものを心配するような、そんな目だ。
「訳ありなんかねえ。外で会っても、会釈くらいで話もせんし」
「仕事なのかなんなのか、ここから電車で通ってんだよ……日に2本しかない電車やぞ」
「なんでわざわざこんな僻地に住むのかね」
親子の会話を聞きながら、蒼は鍋をゆする。
(……瑠璃さん)
ふと、蒼は心の中でつぶやいた。
蒼にとって初めての客である瑠璃は、この店からほんの数分先にあるアパートで暮らしている。
彼女は隠しているようだが、彼女の居住地も、動きも町の人々にはすっかり周知されていた。
もちろん、瑠璃だけではない。この群青の二階で暮らす蒼の行動も、すっかりバレている。
少なくなった群は警戒心が強くなるのだ。人も、動物も。
それは仕方のないことだ。特に地方に一人で残る若者は、好奇の目にさらされやすい。
「若い娘さんがひとり暮らしや、って聞いて、なんや心配でねえ」
しかし花子の漏らす声に警戒は少ない。心底心配するような声で、彼女はため息を漏らす。
「女の子なのにねえ。頼ってくれたら良いが」
「こんな時代じゃみんな多少訳ありやろうが、助け合って生きていかなだめやろ」
寒くはないだろうか、寂しくはないだろうか。お腹など空いていないだろうか。二人の声にはそんな心配の色が滲んでいて、蒼は嬉しくなってしまう。
「きっと事情があるんですよ」
「蒼くんは人見知りしないのにねえ」
「ほんと、それだけが特技なので」
「顔もええのにこの子ったら」
蒼の言葉で瑠璃の話題は消えた。
小左衛門はしわくちゃのチケットを机におくと、俊敏な動きで椅子から飛び降りる。年の割に動きがいい。長年漁師をしているというのは本当のことだろう。
彼は短く切り揃えた頭をつるん、と撫でながらにやりと笑う。
「蒼。そのええ人ってのをさ、また俺にも紹介してよ」
「ええ、いずれ」
小左衛門がが母親を支えながら、店を出た。
たっぷり30秒待ったあと、蒼はカウンターを飛び出して入り口の扉に「準備中」の看板を立てかける。
気がつくと、外はやはり雪になっていた。
このあたりは真冬になると、ひどく積もるらしい……常連客から聞いた言葉を思い出しながら、蒼は店内に戻る。真っ白な雪の中なら、蒼のこの青い髪はさぞかし目立つことだろう。
どこにいても、蒼がそこにいるとわかってもらえるはずだ。
……きっと、瑠璃にも。
「もうみんな帰りましたよ」
カウンターの内側を覗き込み、蒼は微笑む。
カウンターの内側、コンロと棚の隙間。ほんの小さな隙間に、黒い影がある。
「ね、瑠璃さん」
それは冷たい地面にべったりと座り込む、瑠璃だった。