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「……ところで、ハンバーグできた?」
じゅうじゅうと、カウンターの内側から香りと湯気が絶え間なく届くものだから、瑠璃は思わず尋ねていた。
お腹なんて空いてもいなかったのに、香りは罪だ。隠されていた食欲をこうも簡単に揺り起こす。
蒼の手元を覗き込めば、鉄のフライパンの上に焦げ色のついたハンバーグが堂々と鎮座している。
拳よりまだ大きい。どっしりと力強いハンバーグなのだ。
「もう……良さそうだけど」
思わずつばを飲み込んで、瑠璃は呟く。興味がないフリをするのも、もう限界だ。肉の焼ける匂いは、たまらない。
「あと少し。しっかり火を通さないと……あと肉がそれほど多く手に入らなかったので……卵でごまかします」
蒼は微笑み、手早く卵を溶く。
淡い黄色のそれをフライパンの隅っこから流して薄く焼けた瞬間、器用にハンバーグを卵で包みこむ。
ところどころ半熟の薄焼き卵にくるまれた、ハンバーグ。
卵を崩さないように慎重に、ハンバーグは白い皿の上に盛られた。その隣には大きな人参のピクルス、柔らかいパスタを塩コショウで和えたもの。
「食材……多いんだな」
「任せてください。そのあたりのルートはしっかり作ってから始めたんです」
隅っこに柔らかいご飯を盛り付け……そして蒼は何かを思い出したように冷蔵庫を開けた。
「トマトピューレで……瑠璃さんの見たがってた、夕日色!」
彼が手にしたのは真っ赤な瓶。卵の上に甘酸っぱいそれを広げると、たしかにそれは夕日の色にも見える。
「なんだそれ……」
笑い飛ばそうとした瑠璃だが、皿の香りに気を取られその言葉は宙に浮いた。
「……美味しそう」
「できた。ハンバーグピカタ定食!……で、もう一品つくります」
蒼は自信満々の笑顔で瑠璃の前に皿を滑らすと、机の上に放置してあったビールの缶を手に取る。
「残り、もらいますね。うち、バーなんで。お酒のこともしないと」
蒼はすでに用意しておいた大きなコップに氷をたっぷり詰め込み、何かを注いだ。
その上からビールを注げば細かい泡が一気にあふれる。しかし、彼は一滴もこぼさない。ゆっくりと彼はグラスをかき混ぜ、最後に赤いものを一枚、落とした。
「ちょっと冷たいけど、いいですよね。シャンディ・ガフ紅葉の砂糖漬け乗せ!」
蒼が差し出してきたのは、虹色のグラスに詰まった黄色いカクテルだ。
中には真っ赤な紅葉が一枚、沈んでいる。砂糖の衣をまとったその紅葉は泡にまみれて、戸惑うように揺れていた。
それを見て、瑠璃は目を丸める。
「シャンディ・ガフって……ビールのジンジャーエール割り、だったっけ」
瑠璃は昔から本で知識を集めるのが好きだった。何かの本に、載っていた、シャンディ・ガフの絵を思い出す。
そこに載っていたのは淡い黄色で、どことなく物憂げなカクテル。
それは、きっと読んだ本が古かったせいだろう。今、目の前にある本物のシャンディ・ガフは、きらきらと美しく輝いている。
「ええ、ジンジャーのシロップは、この店紹介してくれたお兄さんのご実家で作っていた特製です。紅葉の砂糖漬けは俺のお手製」
「紅葉って……」
「去年のですよ、いきなり秋がきた時があったでしょ。あの時作って大事においておきました。半年後にはお店を開いて使えるといいなあ、なんて考えて」
「……年寄りみたい」
「そういう手作りに憧れてたんですよ。それよりほら、こうするとビール、苦みが消えますよ」
口に含むと、しゅわりと甘い。ジンジャーの尖った味が喉を刺すが、同時に甘みが全てを丸くする。
残骸みたいだった苦味もぬるさも、全て消えた。ただ、香りだけが鼻に抜ける。
「で、ハンバーグも食べてみて、瑠璃さん」
蒼の目は、まるで懐っこい子犬のようだ。彼はカウンターの内側から背伸びして、瑠璃の手元を見つめている。
緊張で瑠璃の右手が少し震えるが、それを押さえて一口……そして二口。
(……やわらかい)
薄焼きの卵に包まれているのは、みっしりとしたハンバーグだ。肉はあらみじん切りにしたもので、普通のひき肉よりもずっと歯ごたえがある。
味付けがシンプルなので、肉の脂の甘さが瑠璃の舌にとろけるようだ。
薄焼き卵の隅っこがカリリと軽く焦げているのも好ましい。トマトピューレの甘酸っぱい味が、肉によく絡む。
卵と肉を噛みしめると、腹が鳴った。喉の奥がきゅっと痛くなり、頭の芯がふんわりと揺れる。
「おいしい?」
「……ん」
悔しいが認めざるを得なかった。
瑠璃は無言のままハンバーグピカタを口に運び、甘酸っぱいピクルスを噛み締めて、シャンディガフを飲み込む。油も、甘味も、全部体の奥に流れ込んでいく。
(最近、配給の……お米とサプリメントばっかりだったから)
配給されるのは、画一的な冷凍野菜や米と形成肉だ。
油が多いので胃もたれを起こしやすい。油を抜く方法や美味しく食べる方法もあるようだが、
(食事にそこまで手間かけたくないし)
……と、瑠璃などは思ってしまう。
おかげで久しく、まともな肉など食べていない。
がっつきそうになる手を止め、瑠璃は必死に平常心を保って飲み込む。体に柔らかく、一枚の熱が通っていくようだった。
ケチャップと卵にまみれたハンバーグを白い米に重ねて食べるだなんて、背徳的だ。じゅわりと油とケチャップの染み込んだ白い米は、もうそれだけで美味しい。
「……お……いしい」
仕方なく、瑠璃は白旗をあげる。
「美味しいよ、蒼くん」
緊張するように上唇をきゅっと結んでいた蒼は、瑠璃の言葉を聞いてほうっと息を吐いた。
「……ああ。良かった」
蒼は解けるような笑顔を浮かべ、特徴的な青い髪をぐちゃっと乱した。生え際に黒い色が見えるので、やはり染めた色だ。そう気づき、瑠璃は安堵する。
彼が人間ではないのではないか……そんな気がしていたのだ。美しい青色をまとう少年の幻を都合よく見ているのではないか、そんな気がしていたのだ。
「ああ、よかったあ」
(そんな、嬉しそうな顔……)
少年味の残るその顔を見て、瑠璃はぽかんと蒼をみる。視線に気づいたように、彼は少しだけ赤面した。
「あ、えっと。ところで瑠璃さんは……なにか……文章を書く人?」
蒼が鏡に映った瑠璃の背を見る。彼の目線を追って、瑠璃はぎょっと目を丸くした。
だぶだぶズボンのポケットから、原稿用紙とペンが顔を出しているのだ。
「……ちょっと、まあ、えっと、そういう感じ……」
ポケットからみ出していた原稿用紙を押し込み直すと、隙間からぽろりと名刺が滑り落ちる。
瑠璃が拾い上げるより早く、カウンターから飛び出した蒼が名刺を掲げて目を輝かせていた。
「……キンコツ新聞社……記者? あ、もしかして……駅前にあるあのビルの?」
「あ、こら。勝手に」
「キンコツ新聞ってビルの3階に看板出てますよね。たしか地域の広報誌兼ねてるって聞いたことあります。本誌記者ってすごいじゃないですか」
まばゆい笑顔を浮かべる蒼をみて、瑠璃は顔をしかめる。
埃っぽいオフィスや、何十年も昔のラップトップが動く不快な音を思い出したのだ。
「もともと本誌しか作ってないんだよ、あそこは。それに政府の命令で広報誌出してるだけで、部数は100もないし」
ハンバーグの最後の一口を惜しむように飲み込んで、瑠璃は呟く。
「今の時代、印刷に名刺だよ。遅れてるでしょ。社員も少ないし、私だって毎日出社してない。正社員じゃなくて臨時社員だし」
「名刺、もらっていいですか?」
「……どうぞ」
あまりにも嬉しそうなので、瑠璃は仕方なく頷いた。宝物のように名刺をポケットに収める蒼を見て、瑠璃はため息をつく。
「電話番号はもう使われてないからな。掛けても無駄だ」
シャンディ・ガフの甘い喉越しのせいか、少し酔ったのか、蒼の態度もだんだん気にならなくなっていた。
「何十年も前の名刺テンプレートを使いまわしてるんだよ。もう電話なんてないのに」
「記者さんなら取材で美味しいものいっぱい食べてそうですね。もっと良いもの作ればよかったかな」
「別に、政府からくるリリース記事をリライトしてるくらいで、取材記事なんて書いてないよ。今は報酬っていっても配給チケットか、パウチの米くらいだし。今回は珍しくビールをくれたけど」
「そんなにビール、好きなんですか?」
「……どうだろ」
瑠璃はカウンターに置かれた、ビールの空き缶を見つめる。
かすれた印刷、隅っこが凹み薄く傷が入っている。
今のビールは希少品だ。
日本に数軒だけ稼働している工場で、限定された数が出荷される。
流通されるビールにはどうしても不良品が出る。綺麗なものから順に供給され、傷の入ったものだけが一般に流通されるのだ。
その傷が瑠璃にとっては切なく、愛おしい。愛されていたのに傷つけられ、もう見向きもされない。そんな缶に入ったビールは余計に苦味が増している。そんな気がする。
「まあ、飲んだら嫌なことも、忘れられるし」
シャンディ・ガフの最後の一口を飲みこんで、瑠璃は呟く。
酒もコーヒーもタバコも嗜好品だ。
無くたって生きていける。それなのに、世界がこうなってなお、人間は嗜好品を愛し続けた。手放さなかった。
その理由を、瑠璃は今更ながら理解した。
(……ふわふわして、気持ちがいいな)
ぼうっとする瑠璃を見て、蒼が少し困ったように笑う。
「瑠璃さんのことばっかり聞いちゃいましたね。逆に、僕になにか聞きたいことあります?」
瑠璃がシャンディガフを飲み終わると、最高のタイミングで珈琲が目の前に現れる。
それはよく流通しているインスタントだ。しかし普段瑠璃が飲んでいるものよりずっとまろやかな味である。
ココアも少し混ぜているのだ、と彼は企業秘密を平然と瑠璃に教えてくれた。
「特に聞きたいことないけど」
「何かあるでしょ。一個くらい」
「……えっと、じゃあ……髪の毛、それ、ほんもの?」
ぬるいコーヒーを啜りつつ、瑠璃は彼の頭を指差す。
淡い光の中でもはっきりと分かるくらい、彼の髪の毛は青く輝いている。
瑠璃の言葉を聞いて、彼は照れるように髪を押さえた。
「これ、染めてるんです。染め粉がなくなったら黒に戻ります」
「変な成分の使うのやめときなよね。ハゲるよ」
「大丈夫、天然素材らしいです。これも解体屋仲間が元美容師で、余ったやつ貰ったんです。青色だけが、めちゃくちゃ余ってたみたいで。僕、青色が好きなんです。名前もこれだし……お店の名前も群青、でしょう? 見た目と名前がイコールになると繁盛するかなって」
「ふうん」
青色は嫌いだ。そう言いかけて、瑠璃は言葉を飲み込む。
よく見れば、店のあちこちに青色のモチーフが置かれているのだ。
壁には青い酒瓶、机の上には青色のペン立て。
瑠璃が手にするカップも、緑がかった青色に塗られていた。
青色のモチーフを探して視線を動かしていた瑠璃は、不意に目を細める。
蒼の立つカウンターの奥、レジスターのとなりに古ぼけた単行本がいくつか立っている。
そのタイトルには見覚えがあった。10年ほど前に話題になった本だ。
透き通るような青色に塗られた背表紙。
タイトルは「青の世界」。
それを見つめた瑠璃は、冷えた指先をコーヒーのカップで温める。
「瑠璃さん?」
「蒼くん、小説なんて読んでるんだ」
タイトルの下に刻まれているのは著者名。
……シアン、
文字はそう、刻まれている。
「僕に似合いませんか?」
「ちゃらっとして……見えるから」
「よく言われますけど、それ見た目だけですからね。まあまあ読みますよ。紙の本は軽いし、朽ちないし。解体業してると、何でも大体壊れて発掘されるんですよ。でも本だけは、無事なことが多いんです」
蒼は平然と本を手に取り、ぱらりと開く。
「たとえ、ゴミ箱に入っていても水に濡れていても。ちゃんと乾かして補修して。破れてなければ、読めるんです。すごいですよね……まあこの本は、このお店の置き土産なので、僕のじゃないんですけど」
紙の剥がれる乾いた音が室内に響いた。
「すごいといえば、この作家さん、7年くらい前にすっごい流行って……いきなり消えたんですよね。金髪と人形みたいなワンピース姿がインパクトあって、当時そっくりな恰好した人が増えたって……瑠璃さんは本って読みます?」
「小説は嫌い」
「瑠璃さんは、嫌いなもの多いんですね」
「嫌いなものは嫌いって言うようにしようって決めただけ」
瑠璃の回答に、蒼は苦笑する。
「ストレス溜めないための、いい方法ですね。でも僕は瑠璃さんの好きなものも知りたいな」
蒼の目は、暗がりで見ると不思議と青く光って見える。まっすぐ見つめられ、瑠璃は息を呑む。
「好きなものも教えて下さい」
「……お酒」
アルコールがほしい。と瑠璃は思う。飲みたいのは、強くて濃い酒だ。喉に詰まった重いものを流し込むような。
しかしそれをぐっと飲み込んで、瑠璃は蒼を見る。
「……と、ここのご飯も嫌いじゃない」
「今度、豚の角煮、作ろうと思ってるんですよね。いい肉が手に入る予定があって……どうです?」
蒼の笑顔は、透き通るように爽やかだ。
その笑顔を見ると、瑠璃の心の濁りも不思議と薄くなる。
「何年もたべてない」
「でしょう。あと、いつかプリンも作ってみようと思って。それも瑠璃さんに食べてもらいたいなあ」
プリン、その響きに瑠璃の口の中、柔らかく甘い味わいが蘇った……そんな気がする。
牛乳も卵も、いろいろな料理に使える食材だ。便利な食材を嗜好品に変えてしまう真似など、もう誰もしない。
「プリン……」
「固く焼いてもいいですし、柔らかく蒸しても美味しいでしょ? 濃い味にしたら、お酒にも合うかも」
蒼は洗い物をしながら、目を細める。
「俺は堅いのが好きです。しっかり目で、カラメルは苦くして。浸かるくらい、たっぷりのカラメルをかけて」
瑠璃の喉がごくりと鳴る。それをごまかすように咳払いをして、瑠璃は素早く椅子から滑り降りた。
すっかりこの青年の手の内で、転がされてしまっている。
このままここにいるのは、危険だ。
「……蒼くん、ごちそう様」
蒼の視線から目をそらし、瑠璃は会社から渡された配給チケットを机の上にそっと置く。
金銭というものがほぼ意味をなさなくなり、役に立つのは配給チケットだけだ。
これがあれば食材は何でも手に入る。飲食店などでもこのチケットで支払いを済ます。
しかし蒼はそのチケットを瑠璃に押し返した。
「今日はいいですよ。プレオープンみたいなものだし。強引に誘っちゃったし。ね、瑠璃さん」
蒼はカウンターから出てきて、扉を開けた。戸の向こうはぴゅうぴゅうと、冷たい風だ。雨は小さな雪粒に変わっていて、冷たく荒れ狂っている。
「僕ね、瑠璃さんにお酒を美味しいなあって飲んでほしいんです。嫌なことを忘れるためとか、そういうのに使うんじゃなく。美味しいお酒、ちゃんと用意しますから」
また、来てください。彼はそう言って、瑠璃の顔を覗き込む。
「……また明日」
扉の向こう、薄暗い道。
雪の中、かすれた街灯だけが細道を照らし出していた。