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それは日食の始まりだ。
日食は、月によって太陽が隠される。つまりはただの天体の動きだ。
しかし、それだけで世界は闇に落ちる。
古代の人々はひどく怯えただろうが、今の時代の人々は暗くなる空を珍しがって見上げる。
(あの日も、こんな、感じだった)
まだ早朝だというのに、段々と世界が夜に向かっている。
(あの、事故の日も)
青空が灰色になり、黒に変わる。日差しが途切れるだけで気温ががくりと下がった。
あの事故の朝も、こんな風だった……そのことを、瑠璃ははっきりと思い出したのだ。
「ああ、ちょうどいいじゃないか」
闇の中でカゲツが瑠璃の耳にささやいた。
温い呼吸が、瑠璃の耳に触れて全身の肌に粟が立つ。
「……練習がてら、真実を言え、ここで」
ナイフが、くっと、瑠璃の脇腹を押す。ひやりとした痛みだ。
……しかし、あのとき、あの事故に巻き込まれた人は、もっと深い痛みを背負ったはずだ。
空をのんきに見上げる花子の頭にも、消せない傷がある。
「なんて……言えば」
「名乗れ、シアンだと。移住を推進させる小説を頼まれ、費用をもらって書いたと……無責任に煽り立てたと」
「……書いてない」
「でも、結果はそうなった。何人死んだと思ってる」
カゲツは静かに瑠璃の背をたたく。
「今更、遊覧船の社長が出てきた? それがなんだ。どうだっていい……今更間違いでした、じゃこっちは商売上がったりなんだよ」
「瑠璃さん」
カゲツの声に、掠れるような声が重なる。その声に、瑠璃ははっと顔を上げた。
気がつけば後部座席で蒼の細い肩が揺れているのだ。
それに気づいた瞬間、瑠璃の中でナイフの恐怖は消えた。カゲツへの恐れも、震えるような情けなさも、すべてを忘れた。
瑠璃はカゲツを真っ直ぐに見つめ、その体を押す。
「に……日食でみんな、話なんて聞いてくれない……だからこの間だけ、少しだけ、蒼くんと話をさせて」
「……」
カゲツの目が猜疑に揺れ、狡猾な目で外を見た。町の人々も今は空に夢中だ。
「私が変な動きをするなら、迷わず刺せばいい。さ、さされても、文句は絶対に、言わない。約束する」
カゲツが渋々頷いたのを見た瑠璃は、彼の気が変わらないうちに後部座席に身を乗り出した。
蒼は完全に目が覚めたのか、上半身を起こしている。青い髪が揺れて、ここだけ青空が広がるようだ。この青色に瑠璃の心は勇気づけられる。
「蒼くん。平気だから、寝てな。少し話ししたら、終わるから」
「瑠璃さ……ん」
蒼の震える手が、瑠璃に伸ばされる。その手はまっすぐだ。瑠璃の頬を、蒼がそっと撫でた。
「お願い。俺以外と、俺以外の誰かと、約束なんてしないで」
甘えるような蒼の声が、瑠璃の胸の奥を切なくさせた。
カゲツの要求を飲めば、彼も瑠璃を軽蔑するだろう。
花子も、町の人間も皆が瑠璃を軽蔑する。これまで瑠璃の逃亡を手伝ってくれていた菊川や機関の人々にも迷惑をかけることになる。
(でも、そんなことより)
後部座席から必死に伸ばされた蒼の手は熱い。熱でも出ているのかもしれない。
(病院、連れていかないと……)
瑠璃は震える手で蒼の手を掴む。こんな時だというのに暖かさが心地よかった。
……しかし、まもなく「さよなら」をする暖かさだ。これから瑠璃のする決断は、蒼との決別を意味している。
(それでいいんだ)
瑠璃は深呼吸して、微笑む。
「心配するな。大丈夫。だから、寝てな。病院、連れて行くから……目が覚めたら、多分、すっきりして、それで、丸く収まる」
瑠璃が小説を書いたと言ったとき、蒼はただただ純粋に読みたい。と言ってくれた。
授賞式に行きたいと、指を絡めた。そのときの熱さは今でも覚えている。
(……これだけの思い出で、私は生きていける)
瑠璃は震える手で、蒼の手を撫でる。
涙が零れ落ちそうになり、きつくきつく唇を結ぶ。
(あの手紙も、あるじゃないか、私は……思い出があれば、生きていけるから)
母の思い出と蒼の思い出、そして氷室正宗から届いたあの一通の手紙。
それだけでこの先一生、一行も書かなくたって、瑠璃は生きていける。
そんな気がする。
「大丈夫。起きたら、全部、うまくいってるから」
「シアン」
蒼の掠れ声を聞いて、瑠璃の手が止まった。
「シアン」
気がつけば蒼の顔が瑠璃のすぐそばにあった。彼は額から垂れる赤い血を気にもせず、瑠璃の右手を掴み自分の頬に押し当てる。
「ねえ、シアン」
蒼は、まっすぐ瑠璃を見つめている。
彼の口から漏れたその言葉は瑠璃を怯えさせた。
「あ……おくん、私は」
しかし蒼の目は柔らかく微笑んでいるのだ。まるで愛おしむように、泣きそうに、蒼は微笑んでいるのだ。
「俺は、あなたの小説で生かされた」
「え……」
瑠璃は蒼の言葉に、息を止める。
その言葉を瑠璃に向かって言い放ったのは、過去に、ただ一人。
「正……宗」
瑠璃はポケットを握りしめ、呟く。その中に、瑠璃は手紙を隠しているのだ。菊川に所持を許されたたった一枚のファンレターを。
「嬉しい。覚えててくれた」
蒼は瑠璃の右手を優しく撫でる。その手のひらの熱さが瑠璃の冷え切った体をゆっくりと暖める。
暖まってはだめなのだ。瑠璃は唇を噛みしめて、蒼から離れようとした。
「違う。私の小説、は」
……瑠璃は今から、歴史に残る犯罪者になるのだから。
「遊覧船に加担して……それで」
わあ。とどこかで声が聞こえる。その声に驚いて窓に視線を向けると、天に美しいリングが浮かんでいるのが見えた。
月に塞がれた太陽が漏らす光だ。地球に注ぐ光の筋が、はっきりと見える。
その光の筋が、蒼の髪を美しく染めた。
「シアン」
蒼が瑠璃の言葉を遮るように呟く。
「俺は、俺だけはあなたの文章で……生かされた。世界の全員がシアンの小説を嫌っても、俺だけはあなたの小説のことを、捨てない」
「なん……で」
少しずつ、瑠璃に体温が戻ってくる……いや、瑠璃だけではない。大地に、車に、人々に、光が戻る。
キンコツに、光が戻っていく。
日食は再び動き始めていた。太陽の光が柔らかく差し込み、冷え切った瑠璃の手を、頬を温める。
蒼白になっているだろう瑠璃の頬に、蒼の指が伸ばされた。
「瑠璃さん、泣かないで。俺が、守るから。小説を書いてもいい世界で、瑠璃さんを……シアンを……」
いつの間に、瑠璃は泣いていたのだろう。
「あなたは、俺の、大事な人だ」
流れる涙を蒼の指が拭う。
噛み締めていた唇の奥から、嗚咽が漏れた。
「かけ……書けない、小説なんて、二度と……私の小説は、人を殺して……」
「違う。シアンの小説は、そんなつもりで書いたんじゃない。幸せに……幸せになるために、書いたんでしょう」
蒼の言葉が静かに瑠璃の中に広がっていく。
温かく、心地よい水のように。
「私は、蒼くん、私は」
「俺、あのとき、いっぱい書評を読みました。世界に影響を与えるとか、いっぱい褒め言葉がありましたよね。でも世界に影響なんて、そんなものはない……あの小説は、家族の小説だ。宇宙で生きる、家族の話だ……あなたと、お母さんの」
蒼の言葉がすとんと、瑠璃の中に沈んだ。
家族の小説だ。
母のために瑠璃が書いた。あれは、ただ、母とともに生きる瑠璃の物語だ。
……そして幸せになるための物語だ。




