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「なんだ、覚えてるんじゃないか」
男は……カゲツは、柔らかな声でそう言った。
「……俺の名前なんざ、覚えてもないと思ってたよ。天下の大作家様は下っ端のルポライターなんざ目にも入ってないってな」
瑠璃は男の……カゲツの横顔をじっと見つめる。
週刊誌にシアンのことを悪し様に書き連ね、シアンバッシングのきっかけを生んだ男だ。
これまで恐れ続けていた男が形を持ってここに存在している。しかし、まるで現実感がない。
「なんで、私のことを、そんなに」
「真実を伝えたいからだ」
彼は乱雑に車を発進させる。石を踏んだのか、がくりと大きく揺れて瑠璃は後部座席へ振り返る。
蒼は顔色こそ悪いが、胸元がゆっくりと上下している……それを見て、瑠璃はほっと息を吐く。
「俺は間違っているか? 間違っちゃいない。お前のせいだろう、あの事故は。しかも逃げただろう、実際に逃亡しただけじゃない。俺の手紙からも逃げた」
何度もハンドルを殴りつけ、カゲツは悔しそうに唇を噛みしめる。
「覚えてるか。事故のあと、俺は手紙を出したんだ。独占記事を書かせてもらおうと思って……あのとき、受けてくれさえすれば……ここまで追い詰めることはなかったのに」
ぶつぶつと、カゲツが呟く。瑠璃は身をこわばらせ、できるだけ距離を取る。
周囲の風景が恐ろしいスピードで過ぎ去っていくのを見て、瑠璃はまた震えた。
「一回逃がしたときは焦ったが、見つかってよかった。しかも、皮肉だな。あの事故と同じ日食の日だなんてな」
カゲツは汚れた窓から空を見上げる。
空はうっすらと、青い。しかし先ほどより暗い……日食が近いのだ。鳥の声も急に止んで、風の音もない。
その中を、瑠璃たちを乗せたカゲツの車だけが、激しい音を上げて進んでいく。
「どこ……へ」
「裁判所……知ってるだろう。あの船を出した社長が見つかって……裁判をしている」
菊川の言っていた言葉を瑠璃は思い出した。
逃げていた社長が、見つかった。裁判になった……出版社が勝てば瑠璃への疑いは晴れる……。
「裁判なんて、今更……で」
瑠璃は震える声で呟く。
たとえ瑠璃の無罪が証明されても、逃げた7年も責められ続けた日々も消すことはできない。
「あんたに難しいことは何も求めちゃいない。ただ謝ってもらうだけだ。裁判に出て謝るだけでいい。シアンが話題づくりのために、不安定な船と分かって観光船を飛ばしましたってな。全部広告のためだったと。喧嘩両成敗だ。どっちも悪い、それでいい。こっちとしても今更、悪人が変わられるのは困るんだ」
そんな瑠璃を見て、カゲツは吐き捨てる。そして空いた片手で彼は窓を叩いた。
「もう見覚えのある町だ。どうだ? たった一日でも懐かしいだろう。二度と戻らないだろうから、よく見ておけ」
気がつけば、周囲にはキンコツの風景が広がっていた。白い道、瑠璃のアパートにつながる、廃墟の群れ。
曲がりくねった道路の向こうに、傾いだ木がみえる。その下はバー群青のツタに覆われた扉だ。
その前に見覚えのある影が見え、瑠璃は思わず窓ガラスをたたく。
「あらぁ、瑠璃ちゃん」
瑠璃の行動に驚いたのか車のスピードが落ちた。その音に、道を行く女性が顔を上げた。
その顔を見て瑠璃はほっと息を吐く。助けを求めるように、必死に声を張り上げる。
「花子、さん!」
カゲツは戸惑うように車のスピードを緩め、しばらく花子と瑠璃の顔を交互に見つめた。
……が、やがて車を完全に停止させる。そして瑠璃と外界を遮る窓を、数センチだけ、開けた。
「カゲ……」
しかし、それは解放ではない。
「……ツ」
瑠璃の脇腹に何か固い物が触れている……それは銀色のナイフだ。
運転席からさりげなく出されたカゲツの手に、しっかりと一本のナイフが光っているのだ。
それを見て、瑠璃は体を固くする。声も出ず、首元に一筋汗が流れる。
「瑠璃ちゃん、どこ行ってたん。今ちょうど、お祝いの飾り付けをねえ……だめよ、飾りはまだ内緒。まだ見せられんからね」
しかし花子からナイフは見えないのだろう。異変に気づきもしない。
いつものように花のモチーフが付いた帽子を深く被り、手に持っていた大きな布を背中に隠すのだ。
それは長細い布の塊だ。文字が刻まれている。「祝」「瑠」「賞」細切れに見えるその文字を見て、瑠璃の鼻の奥が痛くなる。
彼女だけではない。バー群青の周囲には、見慣れた町の人々が大勢集まっている。皆、それぞれに食材や酒の瓶を抱えている。そして瑠璃が居ることに気づいて、人のよさそうな笑みを浮かべるのだ。
「早すぎるわあ。サプライズで見せたかったのに」
今、ここで瑠璃がシアンだと言えば花子は、皆は、何と言うだろうか。罵倒するのだろうか。よそよそしくなるのだろうか。
……しかし、瑠璃はそうされても文句の言えないような、ことをした。
(私が、書いたから)
「あら、なあにい。蒼くん寝ちゃってえ」
花子はにこやかに車をのぞき込む。
蒼白な瑠璃の顔にも、蒼の異常にも気づかない。当然だ。この町は平穏なのだ。皆、辛い過去を越えてこの町にいる。残された人生を幸せに暮らすための町に、不幸や悲しみは似合わない。
彼女は丸い頬に指をおいて瑠璃を見上げる。
「結局ねえ、息子とも相談して……例の集まりに行くのはやめたんよ。その代わりここでお祝いしようと思って……」
その大福餅のように丸い顔が、不意に薄暗く染まった。
「あら、暗くなってきたと思ったら」
花子が細い目をますます細くして、空をた。バー群青からも何人か町の人が飛び出してきて、皆が空を見上げる。
瑠璃も思わず、窓の隙間から空を見上げた。
「日食、だ」
……空が薄く、濃く、暗くなっていく。
まるで夕日を飛ばして突然夜が訪れるように。
静かにゆっくりと、世界が夜に変わっていく。
風が凪ぎ、鳥も声を潜め、全てが呼吸を止める。
(太陽が、消えていく)




