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まず、声が聞こえた。
「こっちに来い」
続いて、感じたのは腕の痛みだ。
大きな手が瑠璃の腕を乱雑に掴み、引きずるように路上に投げだしたのである。
尻もちをついた瑠璃の背に当たったのは、古ぼけた配達専用社だった。
「あ……蒼くんには、何もするな」
そう叫んだつもりだが、瑠璃の声は情けないくらいに震えていた。
ぱくぱくと溺れるように唇が震えるばかりで、漏れる声は蚊の鳴くように小さい。
それでも瑠璃は震える足で立ち上がった。
「蒼くんに……」
が、大きな手のひらが再び瑠璃を突き飛ばす。
「勝手に立ち上がるな。俺が指示する」
舌打ちでもしそうな声である。瑠璃は地面に座り込んだまま、恐る恐るその顔を見上げた。
瑠璃を投げ飛ばしたのは、深く帽子を被った男である。
(知らない、知らない……こんな人、知らない)
歯の根があわず、肩まで震える。そんな瑠璃を見て、男が苦笑した。
「別にどうこうするわけじゃないんだ。そこまで怯えられてもな……あんたが大人しくしていれば何もしないさ。俺だって荒っぽいことはしたくない」
男は地面に横たわる蒼を、乱雑に車の後部座席に放り込む。瑠璃が追いかけようとすると、男がそれを止めた。
「お前はこっちだ」
助手席側の扉が開かれ、瑠璃は無理やり押し込まれる。騒ぐ間もない。すぐさま男が運転席に滑り込み、ロック音が絶望のように響き渡った。
(なにが……どうなって……)
瑠璃は薄暗い車の中、もがくように後部座席に身を乗り出す。
薄汚れた後部座席に寝転がるのは、蒼なのだ。青白い顔で固く目を閉じている。頭のどこかに傷があるのか頬に赤い血が一筋、垂れているのが恐ろしい。
手を伸ばすと、息がかすかに指に届いた。
瑠璃が触れたことに気づいたのか、蒼の目がうっすらと開く。しかしまだ意識が混濁しているようで、瑠璃を見つめる瞳が困惑するように揺れていた。
瑠璃の中に安堵と心配が、同時に湧き上がるのが分かった。背に冷たい汗が流れる。それでも瑠璃は声を励まし、蒼の頬にそっと手を当てた。
「蒼くん……頭打ってるから、起きちゃだめだ。まだ目を閉じて……すぐに」
すぐに助けが来るから。といいかけて、瑠璃は言いよどむ。助けなんて、来る予定は一つもない。そもそも、この男の目的もわからない。
(なんでこんなことに……なんで)
瑠璃がシアンだと名乗った瞬間、薄暗い影が瑠璃の視界を防いだことは覚えている。
それは瑠璃の前、蒼の後ろ。
突然現れた男は躊躇なく蒼の頭を殴り、そして瑠璃を見つめたのだ。
……何の感情も無い瞳で。
「騒がれちゃ困るんで、少し眠ってもらっただけだ。別に死んじゃいないさ」
男は淡々と呟き、瑠璃の頭を無理やり前に向けさせた。
瑠璃が動くと蒼が小さく呻く。それを聞いて、男が意地悪く笑った。
「そいつも慣れてるだろう。頭を殴られるのは二度目だ」
「……もしかして前、蒼くんを殴ったのは」
瑠璃の震える声に、男は応えない。ただ、小さなミラー越しに瑠璃を見つめる。
「町に戻るんだろう。お望み通り、連れていってやる」
帽子を取ったその顔を見て、瑠璃は息をのんだ。
「あの配達の……」
その瞬間、瑠璃は全てを理解する。
運転席、ミラーの前。座る男に見覚えがある。
それは瑠璃の家に手紙を運び、ビールを運んだ、あの配達員にほかならない。
いつも無愛想で無気力な男だった。逢って5分もすれば顔を忘れてしまう。そんな地味な顔。
しかし今は目つきが鋭い。髪をかき乱し、男はいらだつように、乱れた襟を直す。
「お前の、小説だ。よく見ろ」
そして彼は瑠璃の膝に数冊の本を投げ込む。そのクリーム色の表紙を見て、瑠璃は唇を固く結ぶ。
青の少女。
青の季節。
……そして青の世界。
悪意をもって突きつけられた三冊は、かつても路上に投げ捨てられ踏みにじられた。
腹の底がぞっと震え、瑠璃は視線を逸らそうとする。しかし、恐怖を抱けば抱くほど、目が本に釘着けになった。
男は本を乱雑にめくり、最終ページを殴りつける。
「三巻は事故で終わってる。皮肉だな。同じような事故で終わるなんて」
「……あ……あの宇宙船は、私が知らないところで起きたんだ。私の名前を勝手に使って、勝手に」
「でも、お前があの小説を書かなければ、あの船はなかった」
男が乱雑に、ハンドルを殴る。悲鳴のようなクラクションが廃墟に響き、瑠璃は肩をふるわせた。
「お前が書かなければ、人も死ななかった!」
「わ……たしは」
「そうだろう。お前の作品で何が起きたのか、お前だって見ただろう、聞いただろう。知らないとは言わさない。お前の事件だ」
男の言葉の一言一言が、瑠璃の心のささくれだったところに深く食い込む。
それは事故以降、取り去ろうとしてもとれなかった後悔と苦しみのとげである。
文章は人を殺す……瑠璃は事故の後でそんな手紙を受け取った。
お前は人殺しだ。と罵る手紙もあった。
実際その言葉は、シアンを糾弾する言葉として使われ続けた。
この言葉が瑠璃を7年間、責め続けたのだ。
「お前の文章が人を殺したんだ」
その声が、言葉が、吐息が、怒りが、瑠璃の耳の奥深くに突き刺さる。
鏡に映る男の横顔を見つめると、瑠璃の中に冷たい物が流れた。
瑠璃がおびえ続けてきた影が、質量をもって現れた。そんな気がする。
「……もしかして、あなたは……」
震える瑠璃を見て男が微笑んだ。
「やっと、分かったか」
血の気が引く、とはこういうことをいうのだろう。全身が氷のように冷たくなって、呼吸の仕方も忘れてしまう。
瑠璃は拳を握りしめ、ようやく声を絞り出す。
「……カゲツ」
それは事故の直後からシアンを糾弾し、蛇のように追いかけ続けてきたルポライターの名前である。




