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蒼はまっすぐに廊下を駆け抜けて、錆びた扉を押し開ける。
眼の前に広がっていたのは、青く光る朝ぼらけだった。
「待って、蒼くん、まって」
「待ちません」
蒼は狼狽える瑠璃の手を掴んだまま、走る。
迎えに来た。と瑠璃に継げた時、彼女はまず驚くように目を見開いた。続いて浮かんだ表情は安堵だ。
その表情を見た瞬間、蒼は迎えに来てよかった。と本気でそう思った。
瑠璃はよほど慌てているのか、足をもつれさせる。転びかけたその体を支えると、彼女は青白い顔で蒼を見つめた。
「なんで、蒼くん。ここに」
「指切りげんまん、したでしょ」
そう言うと、彼女は目を丸く見開く。
「……それだけで?」
「僕、約束は絶対に守るタイプなんです。絶対に一緒に授賞式に行く。約束したじゃないですか」
廊下を抜けた先には立入禁止のリネン室がある。すでに使われていない部屋だが、その部屋の奥に駐車場につながる扉があるのだ。
肩で扉を押し開けるとひやりとした風が蒼の顔を撫でる。外の風景を見て、蒼はようやく息を吐いた。
「ともかく話は後で。今はここから抜け出さなきゃ」
掴んだ瑠璃の手は燃えるように熱い。
それは蒼の手も同じだ。
走り出したい気持ちをぐっと抑え、蒼はようやくホテルの外に出た。靴が地面を弾く、そんな些細な音でさえ心音が早くなる。
外は薄青の闇だった。早朝の少し前、朝ぼらけの静かな時間。
「蒼く……」
「……お願い、瑠璃さん。僕を信じて」
外には人の気配はない。誰かがホテル中を張っているかと思ったが、いたのは菊川ただ一人だった。
誰もいないと分かっていても、蒼は慎重になってしまう。
足を止め、角のたびに慎重に様子を伺う。やはり、どこを見渡しても他に人はいない。ただ青く沈んだ朝焼けの風景があるだけだ。
「いつ、ここに……というか、なんでここって、分かったんだ」
瑠璃の言葉を聞いて、蒼は曖昧に笑う。
ここを見つけたのは、白川のおかげである。想像以上に素早く、彼はいくつかのホテルの住所を探し当ててきたのだ。
一軒目はすでに崩され、土台だけになっていた。
二軒目は怪しい連中のすみかになっていて、ようやくたどり着いたのがこのホテル。
ホテルから菊川が姿を見せた瞬間、蒼の中で様々なことが繋がった。
「今はそんなこと、どうでもいいじゃないですか。授賞式、行くことだけ考えて」
「それは」
「僕の店で津島さんが待ってくれてます。だから早くそこにもどって……車飛ばせば授賞式なんて余裕で間に合います。あ、白川さん」
錆びた駐車場を抜けて茂みの奥、そこまでたどり着いて蒼はようやく長い息を吐く。
影になった場所に、白川と大型のバンが待っていてくれた。
「おお、やっぱそこだったか、大当たりだ」
白川は蒼と瑠璃の顔を眺めて、ニッと笑う。
「お嬢ちゃん、ここがどこかわかるか」
「……キンコツ、の奥」
きょろきょろと、周囲を見渡して瑠璃は不安げに呟く。
「そうだ」
「あの、なんで」
白川が怖いのか、目を白黒させるので、蒼はその肩をそっと撫でる。
「大丈夫、この人は味方ですよ」
「まあ味方っちゃあ味方だが、こっから先は手助けができねえんだ。道路を使って車で行けば町まですぐなんだが、残念ながらさっき国道が落石で道がふさがったらしい。町に出る一番の近道はここの細道だ。もちろん、車は通れない」
白川は車の背後にある茂みを乱雑に押し開く。
……ただの茂みと思ったその奥に、道が続いているのが見えた。
「こんなところで一番役に立つものを教えてやろうか」
闇に包まれたその中を覗いて白川は蒼と瑠璃を見つめる。
「自分の足だよ」
茂みの奥は、乾いた側溝沿いにずっと向こうまで続いているようだ。
道の向こうには廃墟がある。川の上に建てられた不思議な家、横向きに崩れた家の下は、奇跡的に隙間が空いていて、身をかがめれば先に進めそうだ。
そんな廃墟が折り重なって、道はくねくねと曲がっている。しかし瑠璃はその場所に見覚えがあるのだろう。目の端に明るい色が浮かぶ。
「し……ってる。あの赤い看板と……ポスト……ここ、この細道抜けて、向こうに古い国道が」
「そうだ。国道からは道は一本だ。駅まで行けば、あとは分かるだろう?」
必死でうなずく瑠璃を見て、白川は四角い顔を崩すように微笑んだ。
「俺の体じゃ、ここに入っていくと逆に邪魔になる。だから二人で行く方がいいだろう。俺はここでホテルの様子見張っててやるよ。おい蒼」
白川はようやく表情を緩めて蒼を見つめる。
「守ってやれ」
「白川さん、あの、ありがとうございます。俺、何もお礼を」
「気にすんな」
彼はぼんやりとつぶやき、ポケットから煙草を取り出した。
そして白川は、空を見る。丸く広がる、朝焼けの空を。
「弟がいたんだよ。お前みたいに頑固なやつが……まああいつは煙草もやるし、お前よりずっとワルだったけどな」
今では粗悪品ばかりが出回って、純正のタバコは少なくなっているらしい。白川が手にするそれも、混ぜものだらけのB級品だ。混ぜものだらけだと煙の量が増える。
彼が吐き出したのは、もうもうと溢れるような煙である。
長く伸びたその煙の先に、白い朝焼けが広がっていく。
「何年も前に、勝手に宇宙に移住して死んじまった。生きてりゃ、お前と同じ年齢だ」
白川は何かを懐かしむように、やはり煙の消えた空の先を見つめていた。
白川に別れを告げて、蒼は素早く細道に滑り込む。
柵など何もない細い道だ。二人並んでは歩けない。頭を上げて歩くのも厳しいので、二人して腰を曲げ、肩で藪を押し開き進む。蒼は瑠璃の前に立ち、後ろに手を回した。
「手を」
「……別に、逃げない」
「僕がつなぎたいんです」
急かすように手を動かすと、瑠璃が恐る恐る手を差し伸べる。重なった手が、驚くほど熱かった。
手をつかむと、同時に蒼の視界がクリアになった気がする。
「側溝に落ちないでくださいね。まっすぐ、足元だけみて。頭上に何か危ないものがあるときは声をかけます」
周囲は、朝が来ているはずなのに恐ろしいほど薄暗かった。
左右に廃墟群が押し寄せて家が傾いている。右手の奥には小さな川があるようで、そこに落ち込んで崩れている家まで見えた。
「ここは……B地区の奥ですね」
蒼は足を止め、つぶやく。
「一回だけ、近くまで来たことがあります。滑り止めの処置だけしたかな。でも工事が禁止になって、確かそのままに……じゃあやっぱり、店まで案外近いですね」
頭の中にキンコツの地図が浮かんだ。
間違いない。ここは地盤が緩いせいで解体がストップした場所である。
そのせいで、半分崩された奇妙なままで時が止まっている。
「工事してた時代、めちゃくちゃ昔のように思えるけど、そんなに時間が経ってないんだなあ」
蒼は足を止め、息を吸い込んだ。懐かしい砂煙の香りがする。
蒼はかつて、シアンに近づくためにここへやってきた。随分昔のように思えるが、実際あれから1年も経っていない。
この場所で白川に出会い、店を譲ってもらって、瑠璃に近づいた。それからは怒涛のように、様々なことがあった。
(あの頃は絶望しかなかったのに)
蒼は、瑠璃の手を強く、強く握りしめる。
(今は、希望だけだ)
1年前には想像もできない未来が、ここにある。
「時の流れって、早いですね」
鳥が時折、廃墟から飛びだつ。それだけがここにある音だった。
細い川はすっかり乾いているとおもいきや、まるで意地のように底の方をちろちろと水が流れている。その流れる先が、町である。
「すみません、ちょっと感傷的になっちゃって……さ、いきましょう」
「あの、蒼くん」
優しく手を引っ張れば、瑠璃が震えるような声を上げた。
「……なんで、こんな遠いところまで……私のことを……」
瑠璃の手は、じっとりと汗で滲んでいる。彼女の表情は複雑だ。懐疑と緊張と、少しの安堵。その中に喜びが一滴くらいは混じっているはずだ、と蒼は思う。
「私のこと、どうやって、見つけたんだ」
「どこにいたって、見つけます」
「そんなこと、できるはずない」
「ここにいるのが、その証拠です」
……1年前、彼女がキンコツの町に潜んでいることを探った時のほうが、もっと大変だった。
その言葉を蒼は飲み込み、何でも無いような顔で続ける。
「まあネタバラシすると、白川さんに、キンコツの町を走ったトラックを調べてもらったんです」
「なんでトラック?」
「瑠璃さんがトラックに乗った。という情報が。実は瑠璃さんのアパートの場所、知ってたんです。すみません。でも小さな町だから、僕だけじゃなく皆知ってます。気づかないフリしてただけで」
細道が唐突に終わった。角を曲がれば、広い道になる。
周囲を廃墟に囲まれてお世辞にも綺麗とは言えないが、瑠璃と並んで歩けることで蒼はほっと息を吐く。
「トラックのあとを追いかけてきた……起きてから? ごめん、蒼くんのこと、私眠らせて……」
「ええ、起きた時はもう瑠璃さんは消えてました。でも、トラックが走るのは珍しいんです。色んな人に聞いて回るうちに、行き先は3箇所まで絞れました。でも案外警戒が厳しくて、客のことは教えてくれません。だから忍び込んで」
「忍び……?」
蒼が思い出すのは昨夜の小さな冒険だ。
2軒のホテルで肩透かしをくらったあと、残った候補はこのホテルだけ。
廃墟のようなホテルを前に、白川はなんの躊躇もなかった。彼はどこから取り出したのか、小さな爆竹を駐車場で打ち鳴らす。扉が開き、スタッフが飛び出してくる……その隙間に、蒼はホテルの中に飛び込んだ。
「それで、変わってもらったんです。食事配給の人に」
「どうやって……」
「秘密」
瑠璃の顔に疑問符のような色が浮かぶ。しかし蒼は笑ってごまかした。
「僕のこと、怖いですか?」
「違う。きっと、蒼くんより、私のほうが、怖い人間だ」
瑠璃がふと、足を止めた。その膝が震えているのが見えて蒼も足を止める。
「瑠璃さん、疲れました?」
空を見上げると、そこはうっすらと白い。ようやく、朝日が顔を出し始めたのだ。
誰もいない折れ曲がった道に、白い光だけがさんさんと注いでいる。
蒼は瑠璃の手を引っ張り、廃屋の出っ張りに座らせる。
「ちょっと休憩しましょう。お茶もお酒もなにもないんですけど、クッキーだけ」
蒼がポケットから取り出したのは、小さな袋に入った茶色のクッキー。走り回っている間に少しだけ割れていたが、形はそのまま残っている。
それは、本の形をした、クッキーだった。
「クッキー……」
「瑠璃さんの授賞を聞いて、お祝いの品がいっぱい来てるんです。その中の一つ。ほら、朝市でいたでしょ、天ぷらくれた人。あの人が趣味でお菓子作ってて……」
人のいなくなった養鶏所も、町の皆が世話をしている。
そのおかげで卵は潤沢だ。お菓子も作れるのだ。と蒼が世間話のように語りかければ、瑠璃の頬が震えた。
「現実じゃ、ないみたいだ」
袋から取り出したクッキーは軽く、甘い。軽やかな音をたてて噛み、飲み込む。
「こんな朝を過ごすなんて」
瑠璃は一つ食べて、それから疲れたように微笑んだ。
「昔、こんなシーンを書いたんだ」
「シーン……?」
「母親と娘が不時着する。それは夜の闇の中……だけど、やがて朝が来る」
瑠璃がぼんやりと天を見上げていた。音のない、静かなこの場所は宇宙の隅にある寂れた惑星……その風景に似ている。
「瑠璃さん」
「最後まで聞いてほしい」
瑠璃がふと、微笑んだ。初めて見る、まっさらな微笑みだ。緊張も疑いもない、瑠璃の本心からの微笑みだ。
「二人はしばらく気を失っているんだけど、朝の光で目を覚ますんだ。鳥の声と、光の暖かさと風の心地よさで。ちょうど、今みたいな朝」
蒼の心臓がうるさいほどに音をたてた。それはシアンの小説『青の世界』の最終シーン。
母と娘の乗る船が落ちるのは、白い砂と細い道と廃墟が広がる古い惑星だ。
夜の闇は朝の白に変わっていく。その中で、二人は目覚める……何千回と読んだ、その言葉をセリフを、蒼は暗唱だってできる。
「目覚めた二人は手に手を取る。追いかけてくるやつがいて、でも二人は諦めない。だって、そのあとにあるのは最高に幸せな最後だから……それで二人は」
瑠璃は蒼がそこにいるのを忘れたように言葉を続ける。
「幸せのために逃げる」
彼女が語っているのは、『青の世界』では描かれていない。その先……その続きだった。
聞きたいという気持ちと、聞いてはいけないという気持ちが蒼の中で静かに暴れる。何を言うべきか、言葉を探す蒼を瑠璃はじっと見つめた。
「きっと蒼くんは、この先を聞いたら……私のことを嫌いになる」
そんなことはない。開きかけた蒼の口を、瑠璃が手のひらで塞いだ。冷えた手のひらは、小さく震えている。
そして彼女は、寂しそうな目で微笑んだ。
「私は、シアンだよ。蒼くん」
「る……」
「シアン」
瑠璃さん、叫ぼうとした蒼の声が、別の声に重なる。
それは低い、男の声だった。瑠璃の目が丸く丸く見開かれる。
彼女の視線は蒼の後ろを見つめていた。
「シアン!」
続いて響いたのは、低く不快な声だ。同時に、蒼の頭に痛みが走る。
足に力はあるはずなのに、不思議と立っていられない、蒼の視線が徐々に下る。見えたのは、真っ青な顔の瑠璃と、その瑠璃の腕をつかむ男の手のひら。
蒼は瑠璃の名を叫んだが、声にならない。
瑠璃の顔を呆然と見つめたまま、蒼は地面に崩れる。もがいたせいで、口の中に乾いた砂が滑り込む。
瑠璃が男を突き放し、蒼の腕をつかむ。しかし男が再び瑠璃の肩を掴んで無理やり引き離そうとする。
離れていく瑠璃の腕に手を伸ばし、蒼は叫んだ。
「ずっと、俺は……あなたの小説で生かされた……あなたの……シアンの」
しかし蒼の声は、掠れるばかりで声にならないのだ。
それでも蒼は陸に打ち上げられた魚のように、ただ口を動かす。
「ずっと、ずっと、俺は、あなたの小説の……」
ファンなのだ。その声は、激しい車のクラクションの音にかき消された。




