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小さな窓の奥に広がる夜の空は、アパートから見えていた空よりも薄暗く見えた。
「次のアパートが決まったわ。待たせちゃってごめんなさいね」
扉が開き、菊川が戻ってくる……と、外の風が瑠璃の顔を撫でた。
が、瑠璃が外を見るより早く扉が閉まってしまう。
きんと冷えた風だ。まだ外は冬らしい、と瑠璃は子猫を抱き上げながらそう思う。
子猫が眠そうに伸びをして、バラの棘に似た爪を瑠璃の皮膚に押し当てた。
出会った時よりも一回り大きくなった猫たちを撫で、瑠璃は菊川を見上げる。
「いつも危なくなったら、狙ったようにアパートが見つかってたのに、今回は結構かかるんですね」
「今回はね……案外、うまくいってると思ったの。あそこは、キンコツは……穏やかだったし、人も少なくて……」
瑠璃が逃亡して、もう数日が経っていた。
(車で走ったのはたぶん、1時間くらい。かな)
瑠璃は顔に出さないように気をつけて、過去の記憶を探る。
トラックに乗って1時間もしないうちに、菊川はある場所で瑠璃を降ろした。
それは古びたホテルだ。お世辞にも綺麗とはいえない。今にも崩れ落ちそうな灰色のホテルである。
これが次の住まいかと愕然とする瑠璃に、ここは仮住まいのホテルだ。と、彼女は苦笑して言った。
次のアパートが決まるまでここで待機する。と言われ、朝と夜が2回やってきた。
それからずっと瑠璃に張り付いていた菊川が部屋を出ていったのは、数時間前。夕日の赤い時刻である。
瑠璃が夕日色のハンバーグピカタを思い出しているうちに夜が来て、そして菊川がまた戻ってくる。
その手には、銀色に輝く小さな鍵が握られていた。
「これが新しいアパートの鍵ね」
「次の部屋、ですか」
「そう。まさかこんな急に動くことになるなんて思わなかったから、次の場所を探すのに手間取っちゃって。でも安心して、もうあと一眠りすればこの狭い部屋から出られるから」
菊川は眠そうに欠伸を噛み殺し、腕を伸ばす。
彼女の腕時計が刻むのは水曜、深夜4時。
その日付を見て、瑠璃の胸が痛くなる。
……水曜日。日食の日。今日は、瑠璃の小説が、授賞される、その当日。
「本当はすぐでも出たいんだけど、幹線道路に落石があって、工事が終わるのが昼になるんですって……キンコツ新聞なら、一面の記事になるわね」
猫が喉を鳴らして、瑠璃の腕に頭をこすりつけてくる。一匹が甘えればもう二匹も、争うように瑠璃に甘える。
瑠璃もこれくらい素直に人に甘えることができたなら、結果は違っていたのかもしれない。瑠璃は、そんなことを今更考える。
「……菊川さん、例えば……本当に例えば、なんですけど」
「ん?」
「ここを出てその次のアパートに行く前に、途中で一カ所立ち寄ってもらう。っていうのは無理ですか? 実は、とも……友達が、できたんです。あの町で……それで、その子の作品が賞を取って、その授賞式が、高岡の方で……」
「無理ね」
瑠璃の言葉を菊川が冷たく遮る。言い放ったあと、言い過ぎたと思ったのか彼女の顔が少しだけ柔らかくなった。
「ごめんなさい。でもね、あなたとつながりのある場所に、あなたを連れてはいけないの。分かってほしいわ……あなたのためでもあるのだから……あら?」
どこかでパン、とかすかな音が響き、菊川が咄嗟に立ち上がる。そして彼女は瑠璃の体を抱きしめた。
彼女の体から香るほろ苦い匂いは、母が好んだ香水と同じだ。
「……菊川さん、苦しいです」
菊川は立ち上がり、窓をそっと覗いた。しかし異常はなかったのだろう。ほっと息を吐いて振り返る。
「……ごめんなさい、なにか変な音が聞こえた気がしたんだけど……」
キンコツ新聞社で見ていた菊川と、今の菊川は何も変わらない。
淡々と、感情を出さない。 数日同じ部屋で過ごしたが彼女は常に冷静だ。瑠璃を守るという使命感だけが痛いほどに伝わってくる。
瑠璃はまるで護送される犯罪者のような顔で、深く椅子に腰掛けたまま。
「さ。切り替えていきましょ」
菊川は明るくそう言って、瑠璃の頬に冷たい瓶を押しつけた。
「ほら。甘い炭酸ジュースを見つけてきたの。あとでお弁当も来るからね。食べられるときに食べとかないと」
茶色の瓶にはジンジャーエールと書かれている。
蒼の店で飲んだその味を思い出し、瑠璃の喉の奥に痛みが走った。
「ああ、ようやく届いた」
こん、と扉が揺れたのは、外に淡く白い色がにじみ出したころ。
「すぐに持ってくるって言ったのに、いい加減なんだから」
菊川はチェーンをつけたまま扉を開く。
扉の隙間から見えたのは白衣と白帽子姿の男だ。その手に持つ銀色の箱を見て、菊川はチェーンを押し上げ扉を開けた。
「形成肉と魚……しかないの?……そう、じゃ、深山ちゃんは魚ね」
受け取ったそれは、軽い真四角の箱だ。
開いてみると、型取りしたような真四角の魚とキューブ状になった緑と赤の塊……多分これは野菜を練り固めたものだろう。
それに加えて、ぱすぱすとした食感の配給パンだ。
「ここで食べておかないと、次は夕方まで食事抜きになるから。食欲なくても少しは口に入れておいてね」
一口食べて、菊川が眉を寄せる。
「うん、ひどいわね」
瑠璃の弁当も、似通ったものだ。複雑な顔をする瑠璃を見て、菊川は苦笑する。
「今じゃどこも、こんなもんよ。キンコツの生活がちょっと贅沢だっただけで」
「……確かに」
ここ数ヶ月、自分がどれほど恵まれた食生活だったのか、瑠璃は改めて痛感する。暖かい食事、野菜に肉。体に入る栄養は同じでも、心に入る栄養は全く違う。
「昔はこれが当然だったんですもんね」
「一回、美味しいもの知っちゃうとだめね」
食事というよりは栄養の摂取である。さっさと食べ終わった菊川は、硬いベッドにばったりと倒れて伸びをする。
「食べたら少し眠りましょう。起きたら……また少し車の旅。次の場所でも、また新聞でも作る? 雑誌やフリーペーパーでもいいわね。何か楽しいことを……」
「あの……菊川さんは、もうずっと、私を逃がす仕事を?」
瑠璃は菊川のわざとらしい明るい声を遮る。
「いえ……別に秘密を知りたいわけじゃなくって、気になっただけです」
口にした野菜キューブは味がほとんどしない。
それでも数年前に比べれば、ずいぶんましになった方だ。
ここ数ヶ月は蒼の店の食事に慣れきってしまった。そのせいで、瑠璃の口が贅沢に成り果てただけである。
「……辛くないのかなって」
「辛いわ」
菊川は天井を見上げたまま、つぶやく。
「あなたの背負っている悲しみが」
「……」
「それを私たちはサポートでしか助けられない。でも私たちは決めたの。何よりもあなたの命を最優先するって」
「命」
瑠璃は苦笑する。
「大げさですよ」
「大人になると思い切りが悪くなるの。でも子供は恐ろしいほど思い切りが良い……あなたが絶望して、この世界から消えてしまう。そんな悪夢を何度も見たわ。そのたびに私は叫ぶの。あなたのお母さんに泣いて謝って、その声で目が覚める」
菊川の背後に透けて見えるのは、母への敬愛だ。
母の研究が宇宙飛行士の命をのばした。と、知ったのは大人になってから。
母が救った命の倍、瑠璃の小説は人を殺したのではないかと想像する。
そのたび、胸が苦しくなる。そして、そんな瑠璃を守る菊川を思うと、たまらなくなるのだ。
「……感謝はしてます」
瑠璃は味のしないパンを噛み締め、呟いた。
「でも、私はもう子供じゃないです。このことだって元はと言えば、逃げてしまった私のせいです」
瑠璃は時々、妄想する時がある。
もしあの事件のとき、逃げずに立ち向かっていたら今、どうなっていただろうかと。
「私がもし、立ち向かっていたら」
「潰されたでしょうね」
しかし、菊川は冷たい言葉を平気で瑠璃にぶつける。瑠璃は言い返そうとするが言葉が見つからない。
……分かっているのだ。菊川の言うことが正しいということは。
「ごめんなさいね、冷たい言い方で……でも子供を、矢面には立たせることなんてできなかった。今でもできない。あの判断は間違っていなかったって、私は思ってる」
「でも、出版社の人ならともかく、菊川さんは関係ない……」
「関係あるわ。私があなたの小説のファンだった、言ったでしょ」
菊川が瑠璃の言葉を遮り、目を細める。
「嘘じゃないの。本当のこと。あなたのお母さんから小説を見せてもらったとき、すごくいいと思った。ノートの中で収めておくのはもったいないと思った。博士が亡くなった時、出版社に掛け合ったのは私なの」
菊川の目が、瑠璃を見る。その目はまっすぐだ。
「私が、あなたをこんな目に、あわせた原因なの」
ああ、やはり堪らないな。と、瑠璃は菊川を見上げ、呆然と考える。
悪役のいない不幸は、心をここまでえぐるものなのだ。
「そんな古いことはいいから、前を見ましょう。次は良いところよ。西でね、ちょっとあったかいの」
菊川は明るい声をあげる。
「寒いのは嫌いでしょう?」
瑠璃は冬が苦手だ。母が亡くなったのも、逃亡を開始したのも全て冬だった。冷たい風は瑠璃の傷を深くえぐる。
(それでも……キンコツの、冬は)
バー・群青で聞く雪の降る音。
季節が冬に変わった瞬間を、蒼と二人で感じた時。
蒼と二人で登った山の道の冷たい風。
上書きされた冬の風景を、瑠璃は思い出す。
(少しだけ冬が好きになった)
エッグノッグの温かい甘い味、珈琲酒の香り。
温かい日本酒の美味しかったこと。
(……お酒も好きになった……多分、食べることも、喋ることも、人も、やっと、やっと好きになったのに)
食べきれなかった弁当を床に置いて、瑠璃はジンジャーエールの蓋を開く。
「菊川さん、これを言うと怒られちゃうかもですけど」
蒼が瑠璃の小説を読みたい。と言ってくれた時、確か外は雪が吹き荒れていた。
あの時、瑠璃は寒さを忘れた。
瑠璃の書く小説を求めてくれている人がいる。その事実が瑠璃の胸を震わせたのだ。
菊川も瑠璃の小説のファンだと言ってくれた。しかしそれは、過去形だ。
だった、の響きが今の瑠璃には寂しい。
「実は私、こっそり小説を書いたんです。それでその小説が賞を取って、今日、それが授賞されて印刷されて……朗読も、される」
遅くとも今日の夕刻までには多くの人の目に、耳に、瑠璃の小説が届くはずだ。
小説を書きながら震えたこと。
人に読まれて胸が張り裂けそうになったこと。
そして賞を取ったときの、あの高揚感。
……キンコツの町で、瑠璃は確かに生きた。あの小説はその証だ。
「名前は本名だからシアンってバレることはありません。だから回収とかやめてください。あれは私の最後の小説……あれ?」
きっと菊川は怒るだろう。覚悟の上の告白だというのに、菊川は無言である。
恐る恐る顔を上げれば、小さな寝息が聞こえる。
「菊川さん?」
彼女はベッドの上で腕を伸ばしたままだ。薄い腹がゆっくりと上下している。
「菊川さん……」
瑠璃が立ち上がると、猫が小さく鳴く。しい、と押さえ、瑠璃は菊川の顔をのぞき込んだ。
……彼女はまるで子供のように眠っている。それを見て、瑠璃は彼女の体に薄い布団をかける。
「疲れちゃったのかな……」
考えてみれば逃亡して数日。瑠璃もまともに眠っていない。
菊川は平然としていたが、平気なわけはないだろう。瑠璃が逃げないか、見張っていたのだから。
夕刻から夜中まで彼女が出かけていた時でさえ、菊川は内側から外れない鍵をかけていった。
(じゃあ、今は?)
瑠璃の胸が、どくんと跳ねる。
そっと入り口を見れば、鉄の扉のチェーンが外れていた。先ほど彼女が弁当を受け取ったとき、チェーンをかけ忘れたのだ。
あと数時間でここを出る。その安心感が、彼女の油断になった。
(じゃあ、今なら?……外に出られる?)
かかっているのは内側の鍵だけだ。立ち上がり、瑠璃は自分の足が震えていることに気がつく。
瑠璃は強く手を握りしめ、額に浮かんだ汗を拭った。
(多分、ここはキンコツの……端。B地区の、外れ)
おそらく、まだ瑠璃はキンコツの町の外には出ていない……そんな予感がする。
幼い頃に何度も母と散策した町だ。外から聞こえる川の音と、夕刻にうっすら聞こえてくる音楽の音はキンコツ独特のものである。
瑠璃は何度もつばを飲み込んで、指をひとつ、ふたつと折り曲げる。
(はっきりとした場所はわからないけどB地区なら、幹線道路が近くにあるはず。幹線道路沿いに1時間も歩けば、駅があって……始発は無理でも、その次の電車。乗り換えて、4時間、5時間……? 授賞式には、間に合う)
菊川に従うのが一番正しい選択だ。それは瑠璃にも分かっていた。
同時に、瑠璃には分かっていることがある。
ここで諦めたら、きっとこの先何年も後悔するだろうということを。
(授賞式だけ見て、またここに戻る……きっと夕方には、戻れる)
瑠璃は震える足で立ち上がり、音を立てないように扉に向かう。起きた猫たちが瑠璃を見上げたが、欠伸を漏らしてまた眠った。
瑠璃は机の上にあるメモ帳に、すぐに戻るとしたためる。
授賞式と書きかけて手を止めて、元のアパートに忘れ物を取りに行く。とだけ書き直した。
その間、猫をお願いします。とも付け加える。そして猫の頭をそっと撫でた。
(また帰ってくるから)
少しの希望があれば人は歩き出せるのだ。それは母が瑠璃に教えてくれた一言だ。
「逆に言えば……希望がなくなれば、歩けない」
瑠璃は息を飲み込み、ドアノブをしっかりと掴んだ。
「……」
音を立てないように鍵をひねる。ノブを回す。
そして、押す。
「瑠璃、さん」
扉を開けた途端、聞こえたのは懐かしい声だ。また聞きたいと思った声だ。
今のタイミングでそんな幻聴を聞いてしまう自分の弱さに、瑠璃はため息をつく。
「……いよいよ末期だな。声まで聞こえるなんて」
開いた扉の向こうは薄暗い廊下だ。ほかに客はいないのか電気は落とされ、天井の高いところに非常灯の緑ランプだけが怪しく光っている。
廊下には窓がないので部屋よりもずっと暗く見えた。
色の薄い絨毯に足を一歩、踏み出した、途端。
「どこいくの、瑠璃さん」
柔らかい声と同時に扉の横の影が大きく揺れて、瑠璃は悲鳴をかみ殺す。
……それは男だ。背の高い。華奢で、そして白衣をまとった。
先程、菊川に弁当を渡した男だ。
彼は、廊下にじっと座り込んでいる。
「これ、よく効くんですね」
男が白い帽子を取り払う。と、中から出てきたのは空のように鮮やかな青色。
そこに、蒼がいた。
「蒼……く」
彼は手に小さな瓶を持っている。それを見て、瑠璃の目が丸く見開かれた。
それは瑠璃が蒼に使った睡眠剤の瓶である。いつの間にか無くしていた、それを彼は指の間に挟んで瑠璃を見つめていた。
「ね、瑠璃さ……」
蒼が口を開こうとした瞬間、彼の目からぼろりと大きな涙が一粒落ちる。
その涙はあまりに唐突で、瑠璃は思わず彼の手を掴んでいた……熱い、熱い手のひらだ。彼の温度を指に感じて、瑠璃は初めて息を呑む。
「蒼くん……だ」
「ああ。だめだな。もっとかっこ良く決めるつもりだったのに……」
蒼は照れるように、涙に濡れる顔をこする。数日逢っていないだけなのに、懐かしさに瑠璃の胸が詰まった。
「蒼くん……もしかして、さっきの食事を運んできたのは」
「ほんとは、あんな不味い弁当を渡したくなかったんですけど、でもちゃんとした食事運ぶとバレちゃうし」
ぐずぐずと鼻声で蒼は言って、また目をこする。顔を伏せたまま、彼は瑠璃の手を握りしめる。
彼の涙が瑠璃の手のひらに、数滴散った。
「待って、まだ見ないで。僕、今、情けないから」
「蒼くん、なんで」
あげた顔は、目が赤い。鼻の頭も赤く、頬も子供のように真っ赤だ。
それでも彼は真剣に、瑠璃を見つめる。
「迎えに来ました」
その声だけは、力強く静かに響いた。




