1
「正宗」
蒼の目前に広がるのは、ただ青色の世界だ。
青い壁、青いガラスに、青く塗った照明カバー。
そうだ、ここは敢えて青の世界にしたのだ。ただ一人のためだけに。
「おい、大丈夫か?」
しかし、今その人はいない。その人と蒼をつなげるピンクのノートは破られて、押し付けたはずの合鍵は、カウンターの上に置かれている。
「……おい、正宗」
肩を揺さぶられ、蒼は初めて目の前に白川がいることに気がついた。
「……ああ、すみません、本名で呼ばれるの、久々すぎて」
彼に何度も名前を呼ばれていたようだ。
しかし久々に聞くそれは、まるで自分の名前ではないように響く。
「ちょっと、ぼうっとしてました」
蒼は言いながら、痛む頭を押さえた。
周囲はすっかり夜になっている。
「おい。本当に大丈夫か? 頭打ったからどっか変になってねえか?」
白川は電気をつけ、はたと周囲を見渡した。
「あの可愛い子、どうしたよ。おじさんはおじゃま虫だったみたいだからよ、さっさと退散したが……」
「消えました」
「消えたって、お前」
「お願いが」
蒼は白川の言葉を遮って立ち上がる。
「……白川さん、手伝って欲しいことが、あります」
時計の時刻は22時過ぎ。
殴られる直前、確か時刻は14時過ぎだったはずだ。
殴られて、白川に救われ、瑠璃が来た。その時の時刻は覚えていないが、まだ夕方にもなっていなかったはずだ。
瑠璃に酒を振る舞い、共に飲んだ……その瞬間から記憶がない。
そして、目覚めた時には20時過ぎだ。
(この倦怠感、知ってる)
蒼は胸を押さえ、唇を噛みしめる。
(睡眠剤だ)
椅子の下に、小さな瓶が転がっていた。瑠璃が落としていったのだろう。
瑠璃が意図的に蒼のグラスに入れたのだ。
そして彼女はノートを破り捨て合鍵を置いていった……彼女は去った。
蒼の首に、黄緑色のマフラーだけを残して。
「正宗?」
ぽかんと立ち尽くす白川の前で、蒼は深々と頭を下げた。
「瑠璃さんを探すの、手伝ってください……キンコツ、新聞社へ」
蒼の声は震えていない。
「連れて行ってください」
しかし、腕は震えている。その震えを見て、白川が蒼の肩をしっかりと掴んだ。
白川が持つ車は、立派なバンだった。
彼は現在、日本中を駆け回ってボランティアをしているという。
中には人には言えない仕事もある……と聞いたのは、解体業のさなかだ。
蛇の道は蛇という通り、彼にはそんな知り合いも多いらしい。解体業をしていたのもその仕事の一環だったという。
いざという時は頼っていいという彼の言葉を、蒼は信じることにした。
「あの子が……シアンだって?」
「そうです。多分、色んなところに逃げて逃げて、それでまた逃げた」
車の中でこれまでのことを語ると、白川の目が丸く開かれる。
「多分、俺を殴った人間もシアン絡みです。だからノートや本を奪おうとした」
「ファン、じゃないな。恨みを持ってる……」
車体が大きく揺れ、車が動き始めた。ハンドルを掴む白川の目つきがゆっくりと、真剣なものになっていく。
「瑠璃さんがシアンだということを気づいて、証拠を集めようとしていたのかもしれません」
蒼はシートベルトをしようとして、なんども手を滑らせた。
頭は冷静なつもりでも、体は動揺を隠せていない。苛立ちで拳を握りしめると、爪が手のひらに食い込んだ。
「……だから、瑠璃さんは不用心だって、警告したのに」
蒼が薄暗いバーのカウンターで目を覚ました時の絶望を、どう説明していいかわからない。
暗闇の中に瑠璃の香りだけが残っていた。
テーブルに置かれた合鍵と、切り裂かれたノートを見て、蒼は瞬時に理解する。
瑠璃はもう蒼の知らない場所に消えてしまったということを。
「無理やりさらわれたわけじゃ、ないんだな?」
「多分。家は鍵がかかっていて、人の気配もなくって……」
起きた蒼はまず、瑠璃のアパートへ駆けた。家を知っていることを隠しておきたい……など悠長なことを言ってる場合ではなかった。
「ノックして声かけても、何も反応が無かったんです。鍵はしまっていて、空き室のタグがかかってました」
窓を覗いても気配もなく、庭先に回ったが雨戸が降りてぴくりとも動かない。続いて、津島や町の人にも、それとなく聞いて回った。
「町の人で、瑠璃さんがトラックに乗り込むのを見た人がいます。自分からトラックに乗った。と言ってました。誰か知り合いと一緒だったようだ、って」
探せる範囲は探したあと、一度冷静になろうと店に戻った時、白川に出会ったのだ。
「キンコツ新聞社に行こうと思ったけど、もう電車もないし車もない……歩いて行くのは無理だし」
「そこに俺がちょうどよく来た、ってことだな」
「助かりました」
白川は存外、丁寧に車を操る。外の風景が恐ろしいスピードで流れていくのに、車内は静かだ。
誰もいない、車も通らない闇の道を睨み、蒼は呼吸を整える。
こんな闇の中、瑠璃が消えた。
それを考えると恐怖が体を包み込み、気を抜くと震えそうになる。
瑠璃と出会う前、自暴自棄になっていた自分に戻ってしまいそうになる。
だから蒼は瑠璃のマフラーをぐっと抱きしめ目を閉じる。
そうすると、ゆっくりと鼓動が落ち着くのがわかった。
「……それと店の電話を使った形跡がありました。再ダイヤルしましたが、もう使われてない番号です。キンコツ新聞社の電話かと思ったのですが、違ってました」
蒼は白川に瑠璃に貰った名刺を差し出す。
「あの子が使ったんだな。それで、誰かと連絡をとって、逃げた。そういえばキンコツ新聞社はここ一年で出来た会社だな。そこに何か行き先がわかるものがあればいいが」
車は線路沿いの細い道を器用に走り抜け、ものの15分でキンコツ新聞社の入るビルにたどり着く。
古いビルにはいくつかの会社が入っているようだが、22時をすぎるともうどこも電気は灯っていない。今の時代、電気は21時以降、規制するのが基本だ。
それでも二人は暗闇に身を置いて、一呼吸。先に動いたのは白川だった。
ビルの入り口をどうしたものか、彼が扉に手をかけて10秒立たないうちに金属音が響く。
静かに開いた扉の前で彼は蒼を手招きした。
キンコツ新聞社はビルの3階だ。きしむ階段を登り、白川は平然とオフィスの鍵を壊した。
「……誰もいねえな」
白川は瑠璃の名刺を見つめ、懐中電灯に照らし出す。そして眉を寄せた。
「偽造だ」
白川の指が、名刺の右肩に刻まれている政府認証のマークをこする。と、それはもろく崩れる。
「政府の印章、これ、貼っただけだな……おいおい、一気にきな臭くなってきたじゃねえか」
やがて白川は派手な音を立てて机の上の荷物を落とす。机に足をかけ、ブレーカーの箱をこじ開ける。そして蒼を見つめた。
「この場所は新聞社じゃない。レンタルオフィスだな」
ブレーカーの箱の内側を、白川が指差す。そこにはひし形のシールが見えた。
「それは?」
「去年からレンタルオフィスにはこれを貼ることになってる。普通は外に貼るが、見られたくない場合は隠して貼る」
机から飛び降りた白川は手慣れた様子で懐中電灯を咥え、周囲を漁る。
埃臭い机には大量の紙と文具が転がっていた。
しかしいずれもわざとらしい置き方だ。人の気配がない。
やがて白川は机から一枚の契約書を引っ張り出す。
「昨日付けで解約してるな」
床に転がるペンを蒼は拾い上げた。辺りは一面ホコリまみれだというのに、床に落ちているペンは綺麗である。
「ホコリが積もってない。誰かがこの間までここにいたんですね」
積み上げられた紙にはキンコツ新聞社の名前が刻まれていた。
キンコツの町に配られる見慣れた紙面だ。数日前に発行されて以来、新しいものはない。
机に積まれていた紙類の間に、週刊誌が一冊、挟まっている。
引き抜いて開くと、それはカゲツの名前が刻まれた例の週刊誌だ。何かをチェックするように、ドッグイヤーの跡が付いている。
それを呆然と見つめる蒼の肩を、白川が強く掴んだ。
「……ここにいたのはシアンを支援していたか、敵だったか……後者じゃないことを祈るがね。じゃあ、次はお嬢さんのアパートだ。まあお前が想像してる通りの状況だと思うがな」
白川は静かにそう言って、蒼の腕を引っ張った。
蒼に待っていたのは、想像通りの絶望である。
たどり着いたのは、瑠璃のアパート。6戸の家が入るアパートに今は誰もいない……おそらくずっと、瑠璃の部屋以外は空き家だ。
その一番奥が瑠璃の部屋。
白川がこじ開けたドアから中に入ると、そこは匂いも気配も何もない。
「こんな綺麗に痕跡消せるのは、素人じゃねえぞ」
一歩入って、白川が額に手を押し当ててる。
「俺も似た仕事をしてたからわかるが……これは何かの機関が入ってる。こうなったら、追いかけるのは無理だ」
床も天井も綺麗に磨かれていた。荷物は一つもない。もう何年も誰も住んでいない、そんな雰囲気。匂いさえ残っていない。
ただ、虚無の空間だ。
見渡して天井裏まで確認したあと、白川はため息をついて窓を開ける。
春に似た、温い空気が部屋を通り抜けた。
「たぶん、お嬢ちゃんを逃したのは彼女の味方だよ。暴れたあとも何もない。綺麗にかっさらいやがった。危なくなる前に」
風を浴びながら白川が深いため息をつく。
「気になって調べてみたんだがな、例の遊覧船の社長と出版社の裁判が近々結審するらしい」
蒼は呆然と、ただ部屋の中を眺める。
「裁判……?」
「大方の予想通り、社長は大敗する。そりゃ当然だ。ガキにだってわかる簡単な裁判だ。勝手に名前を使って勝手に事故をして、責任を押し付けて逃げたんだからな。ただ事件に巻き込まれた人たちが正当に訴える相手ができる、というのはデカい。それに」
「シアンへの疑いも晴れる、そうですよね……晴れたら瑠璃さんも堂々と外を歩けるし、今だけ、今は離れててもまたキンコツに」
「……いや」
白川は蒼を見つめ、ゆっくり首を振る。その顔をみて、蒼はまた絶望の味を思い出す。
「それを許せない人がいるってことですか?」
「散々叩き続けて、今更叩いてた相手が清廉潔白でした。じゃ、納得出来ないやつも多いんだろ。急にシアンを探す人間が増えたのはそれが理由だ。特にすっぱ抜いた記者……カゲツ、あいつはまずいだろうな、7年、粘着して生きてきたんだ。今更、ごめんなさい。はできないだろ」
白川は呆れたように肩をすくめる。
蒼は深呼吸をして、考えた。
瑠璃が何故逃げたか……きっと、瑠璃の居場所がバレたのだ。そして蒼が襲われた。きっとそれが決定打になったのだろう。
「納得できない人は、瑠……シアンに何をさせるつもりでしょうか」
「判決が出る前に、粗を探したい、もしくは謝らせるとか」
白川が蒼の肩を掴んだまま、静かに呟く。
「……殺しちまうとかな」
「な」
「自殺に見せかけて殺す。そうすれば、実は遊覧船の奴らと裏で繋がっていて、自責の念に耐えかねて……とかなんとか、何でも嘘を並べられるだろ」
白川の言葉に蒼の鼓動が跳ねた。ふらついた蒼の腕を白川が握る。
「だから正宗。お前の気持ちもわかるが、何かしらの組織がシアンを逃してるなら任せておくほうが安心だ。きつい言い方になるが、お前より安全にお嬢ちゃんを守ってくれる」
白川の言葉も蒼には届かない。
「……でも、それじゃあ」
「ガキじゃどうにもならねえぞ。裁判の結果が出て、世間の風潮が変わるまで、隠してもらう。それが一番じゃないのか。安全になったら、きっと向こうから出てくるさ」
「でも……」
蒼はむずがる子供のように首をふる。白川の手をきつくきつく、つかみ返す。
「でも……!」
昨日の夜は幸福な時間を過ごしていたはずだ。瑠璃を囲んで、お祝いのパーティを開いたのだ。
たった1日。
たったそれだけ。
そのわずかな時間で、世界は変わってしまった。
(……あのときと、一緒だ)
蒼は息が詰まりそうになり、胸を押さえる。
幼い時、バースデーの浮かれた帽子を被って家に飛び込んだ。あの時も蒼を待ち受けていたのは虚空だった。あのときと同じ。浮かれたら、不幸が待っている。
(……いや、今は違う)
触れたマフラーの暖かさに蒼ははっと目を見開いた。
今、ここにいるのは無力で幼い氷室正宗ではない。
(今は、もう、動ける)
シアンに出会って、正宗は変わった。瑠璃に、シアンに、青の世界に救われて「蒼」になった。
「正宗?」
「もし、裁判までにシアンの、瑠璃さんの心が折れたら、俺は自分を許せない」
蒼は部屋を見渡す。何もない部屋だ。床の一部が外れて壊れている以外、綺麗な部屋だった。
この何もない部屋で瑠璃は閉じこもっていたのだ。光もないここで。何を思っていたのか、どう逃げ続けてきたのか。
それを考えると蒼は泣きそうになってしまうのだ。
「もう二度と小説を書きたくないって思うかもしれない。ファンが、俺が、好きだって言わなきゃ……疑いが晴れてから好きになったんじゃない。その前から、ずっと7年、ずっと……」
好きだ。と蒼は思った。シアンの小説が好きだ。シアンの世界が好きだ。瑠璃の声が好きだ、瑠璃の遠慮がちな手のひらも、怯えながらもまっすぐにこちらを見る瞳も、食事をとるときにだんだんと高揚していく頬も、何もかもが好きだ。
「結果が出るまで怯えて過ごすなんて……」
大好きな人が怯える姿を、蒼は見たいと思わない。
「正宗はどうしたい」
「会いたいです」
ほろりとこぼれた涙を蒼は拭う。拭えば拭うだけ涙が溢れた。
瑠璃に本心を告げる勇気を持てなかった自分が悔しい。早くその手をつかんでおくべきだったのに、いつでも会えるという慢心のせいで瑠璃を失ったのだ。
「会って、伝えます。ファンだって、書いてほしいって。それで一緒に逃げます。世界の果てだって、俺は」
「お前の年代ってのはそうなのかねえ。俺の弟もどうにも頑固だったが」
白川は苦笑し、蒼の肩を叩いた。
「俺としてはお前とシアンにさ、ここに戻ってきてほしいよ。その手助けはしたい」
白川は静かに瑠璃の名刺をつかむ。
「知り合いの政府の人間がいる。どうせ逃げ込むのは公的な機関が管理してるアパートかホテルだろ。まあこの時間なら、ホテルだ。探してやる」
だから少し時間をくれ。と、白川は静かに蒼に背を向けた。
白川が去ると、部屋は一気に静かになった。
蒼はずるずると、床に座り込む。
この部屋にはなにもない。猫が立てた傷さえない。瑠璃の気配も瑠璃の声も瑠璃の影もない。
「瑠璃さん」
柔らかいマフラーが唇に触れた。甘く薫るのは、瑠璃の匂いだ。このマフラーだけが瑠璃が確かに存在したという、唯一の証拠だ。蒼はマフラーを抱きしめて、呻く。
「瑠璃さん授賞式楽しみだって、言ってたのに」
蒼の脳裏に浮かんだのは、授賞式、朗読があるのだ……と、嬉しそうにはにかんだ、瑠璃の笑顔である。
「……最後に逢ったの昨日なのに……もう、何年も逢ってないみたいだ」
もう丸一日何も食べていないが、不思議と空腹を感じない。逃げている瑠璃はどうだろうか。空腹ではないか、蒼はそんな心配をしてしまう。
「今度プリンを作って……甘い果実酒と合わせようと思ってたのにな。あと、スパイスを手に入れたからカレーにも挑戦しようと思ってたのに。瑠璃さんが好きそうな、甘くてショウガをいっぱい使った……白いご飯と、ラッキョウも津島さんから分けてもらって……」
美味しいものを食べた時に見せる瑠璃の笑顔だとか、はにかむ口元を蒼は思い出した。
「……逃げてる間、瑠璃さん、何食べるんだろ」
瑠璃は形成肉は嫌いだと言っていた。乾いたパンも好きじゃないはずだ。
しかし逃げ出せば、食事は配給品になる。
「あんなまずいものを瑠璃さんが食べてるのって許せないな」
蒼は手のひらを握りしめ、天を仰いだ。
「俺なら、もっと美味しいものを毎日……」
「深山さん?」
こん、と音が響き、蒼は身構える。
気がつけば、玄関が薄く開いてその向こうに、一人の男が立っている。蒼は身を起こし、男を睨んだ。
中年の配達員だ。確か瑠璃は以前、蒼の店に来た配達員を見て首を傾げていた。
確かに蒼の知っている顔ではない。
「誰だ」
「手紙の配達です。深山さんは?」
配達員の制服をきたその男は、大きな荷物の中を覗き込み、眉を寄せた。
「……いない」
配達員はじっと蒼を見つめたあと、零すように呟く。
「ああ、困ったな」
困っているのはこっちの方だ。と、蒼は閉じられた扉をにらみ唇を噛み締めた。




